湖畔の幽霊(結)
堅田駅まで送ってもらって、僕は車を降りた。
彼らは京都まで乗っていくよう熱心に勧めてくれたのだが、スポーツタイプの車の後席に三人は、ちょっと窮屈過ぎたからだ。
ロータリーで「ありがとう。気をつけてナ。」と別れの挨拶をすると、彼らも口々に別れの言葉を述べた。
ただし、ここで化粧崩れ女子が容易ならぬ一言を放った。
『名探偵さん、ありがとう。気のせいや思うけど、影見たときに、あっこでオオィて呼ばれた気がして、本当、チビルか思ぅたョ。』
「呼ばれたの?」
僕は愕然とした。「他の人は聞いた?」
「聞いてへん。」「気のせいやろ。」
腕つかみ女子がと助手席は即座に否定したが、運転席は難しい顔をしている。「ビビリ言われるか思て、言えんかったんやけど、俺も呼ばれた気がして。」
「聞いた人が二人いるなら、気のせいで片付けてよい話ではなくなってしまったようだね。」
僕は竿ケースを担ぎ直した。「”オラビ”の可能性が出てきた。」
「なんスか、そのオラビって?」
質問してきた助手席は難しい顔をしている。ガールフレンドの化粧崩れ女子が当事者だから心配なのだろう。
「遠くから人を呼ぶ怪異一般、と言ったらいいかな。山で呼ぶヤツは”山オラビ”。正体は山姥や木霊だと言う地方がある一方、山に登った河童とかもね。ああ、もちろん狐や貉説を採る地方もある。海で呼ぶのは海坊主だったり、磯女や亡者船だったり、こちらも地域によってバラバラだね。”おらぶ”というのは”叫ぶ”という意味だよ。その名詞形。同じように、呼ぶという意味の”よばわる”の名詞形”よばわり”を使う地方もある。」
「幽霊というより、お化けに近い?」と喰い付いたのが腕つかみ女子。
僕は「線引きが難しいね。正体不明だから。」としか答えようが無かった。
「ただし対処法はある。割れ鐘を叩くとか。……まあ割れ鐘を探す方が今では難しいかもしれないけど。基本的には、返事をしなければ大丈夫だ。山姥説を採る地方では、返事するのを堪えたら豊作が約束されるとか、幸運をもたらすとされる事だってあろよ。返事は”しなかった”んだろう?」
返事をしたのであれば、手の施しようが無い場合があることは黙っていた。
命を取られるとか、魂を抜かれるとか。
中部地方の『遣ろか水』伝説では、「やろか、やろか」という呼びかけに、「来さば来せ(来るなら来い)!」と返したら、山津波とか鉄砲水が襲ってきたと伝えられている。
――ただし、相手がストロングタイプでなく普及型のオラビであれば、返事したとしても大した事は起きないんだがな……。あそこに居るのは普通のヤツのはずだし。
運転席と化粧崩れ女子は、声を揃えて「してません。」と答えた。
「それどころじゃ、なかったもんで。」と付け加えたのは運転席。
「OK。なら心配ない。ただし、家に帰り着く前に必ず神社かお寺にお参りすること。お祓いはしてもらわなくて良い。大きな神社でなく、お社で充分だ。大津や京都になら腐るほど有るから、途中で心当たりはあるよね?」
「お参りしなかったら、どうなるんです?」
と助手席が真顔で訊く。
これは”お参りをしない事で何が起きるのかを試してみたい”というよりも、彼女の身を案じての発言だった。「コイツ、夜の神社やお墓って、怖がって近づきたがらないもんで。」
――そんな繊細なガールフレンド連れて、肝試しなんかするなよ。今に振られるぞ!
とは思ったが
「おーぃ、って呼ぶ声が、距離的にだんだん近づいて来るだけだから怖がらなくていい。でもホッタラカシにしていたら、夜中に布団の耳元で叫ばれるぞ。……それ以上の事は起きないけどね。」
化粧崩れ女子は意を決したという声で「絶対、お参りします。」と言い切り、「怖いけど。」と小さく付け加えた。
腕つかみ女子が「付いて行ったげるから。」と化粧崩れ女子の背中を叩いた。
「そうそう。キミたちも必ずお参りはするんだぞ。」
僕は助手席と腕つかみ女子の顔を見ながら忠告した。「同行者が”声”聞いているんだからね。キミらも感染したと思っていい。」
「名探偵さん、やけに詳しすぎません?」
腕つかみ女子が泣き笑いのような顔になる。「まるで遭ったことがあるみたいに。」
「言っただろ。”ここの”幽霊には詳しいって。……自然現象だけでなく、とは言わなかったかも知れないけれどね。ナマズ釣りの名人から教わったのさ。あと、いろいろ調べた。」
「お参り、一緒に行ってもらえませんか?」
運転席が切羽詰まった声を出したが、後ろに着けていた車がけたたましくクラクションを鳴らして不満を示してきたから、僕は「心配するな。安全運転で行けば問題ない。」と彼らを送り出した。
駅のロータリーだから、これは仕方が無い。長時間停車はマナー違反だ。
化粧崩れ女子が窓越しに手を振るのに、僕は竿ケースを揚げて応えた。
ホームに上がると、そこは京・大阪のベッドタウンで乗降客の多い駅らしく、匿名無人駅とは違って電車待ちの客が思い思いに佇んでいる。
僕は他の客から離れるために、先頭車両の停車位置まで歩いて、そこで堅田の街の夜景をながめた。
案の定と言って良いやら悪いやら、街の方から
「お~ぃ」と呼ぶ声がした。
けれども脅かすような調子ではなく、久しぶりに会った友人に呼びかけるような僅かに笑いを含んだ声だ。
――やれやれ、僕も感染しちまったらしい。しかも『馴染み』のアイツかよ!
初めて枕元で叫ばれた時には、ベッドから転げ落ちるほど驚いたものだが、一度経験してしまうと二度目からはそれほどでもない。
遊園地のオバケ屋敷と同じである。
帰りにお参りはするとしても、呼び声に返事はしなかったから、次回のチャレンジではアイツがオオナマズを釣らせてくれるかも知れない。
まあアイツにそんな力が有るのかどうかは、分からないけれど。
僕はフィッシングベストのポケットに他を突っ込んで、トビーの感触を確かめながら
――本当にお前は色々なモノを連れてくるな……
と溜息をついた。