湖畔の幽霊(下)
「キミたちが見た幽霊って、『霧の立ちこめた湖の水面を、沖の方から滑るように近づいてくる黒い人影』だろう?」
僕の発言に腕つかみ女子が「それやっ!」と大声で反応した。「オッチャンも見たこと有るん?」
「見た見た。」
僕は隣に座っている腕つかみ女子に、穏やかな笑顔を作って言い聞かせる。暗くて顔は見えていないはずだけど、笑顔で話し掛けているのは声で分かるはずだ。「初めて見た時には、腰抜かしたよ。」
「初めてェ? そんなモン見た後も、アソコ行ってはるんですか。」
助手席が、”驚いた”に加えて”呆れた”の感情の混じった声で訊き返してくる。ただし”スゲェな”のニュアンス含みで敬語である。
「そりゃそうやろ。今日も行こうとしてはったんやし。」
運転席が脱帽といった感じで助手席を諭す。そして「オッチャン、見かけによらず勇者ですね。」
――見かけによらず、は余計だけどね。
「腰抜かした時は、一人じゃなかったんだよ。近くにナマズ狙いのベテランさんが居たんだ。その人が大声を上げた僕に『釣り場で騒ぐな。アレはココではよく有ることなんやから』って教えてくれたんだよ。」
「やっぱ、心霊スポットやん。……みんな見てるて……。」
化粧くずれの女の子は、怖さがぶり返したみたい。
呪縛は解いておいた方が良い。
僕は「左手にドライブインがあるよ。あそこなんかどうだろう?」と運転席に告げた。
運転席は頷くと、駐車場に車を乗り入れた。
ドライブインのオバちゃんウエイトレスは、ヤンキィ系若者4人に加え”どう見ても魚釣りのオッチャン”という変則5人組の来訪に一瞬たじろいだが、そこは職業的笑顔をもって「いらっしゃいませー」と上手に対応した。
僕がニコヤカにしていたから、カツアゲや美人局トラブルとは違うと判断したのだろう。
店内はガラガラだったから、奥の4人テーブルに席をとった。(椅子一脚は隣からの借用だ。)
和洋中なんでもアリみたいなメニューから、僕はカツ丼とブレンド、運転席と腕つかみ女子はカレーに冷コ(アイスコーヒー)、助手席と化粧崩れ女子はナポリタンにレスカ(レモンスカッシュ)を注文。
腕つかみ女子が化粧崩れ女子に「お化粧、直す?」と訊いたが、化粧崩れ女子が「一人になんのが嫌。」と断ったから、料理と飲み物を待つ間に、早速『湖畔の幽霊』の正体についての話題に移った。
「ジブンら、琵琶湖が日本三大蜃気楼発生地というのは知ってるだろ?」
非関西人である僕には、ジブンという単語をYouという二人称代名詞の意味合いで用いるのには違和感があるのだが、関西では普通。ここでは彼らに寄せる気持ちで使用した。
また関西住みの人間以外には意外かもしれないが、琵琶湖は富山県魚津・北海道サロマ湖近辺と並んで蜃気楼の多発発生地区というのも常識。(日本三大〇〇には諸説あるとは思うけど。)
蜃気楼のニュースは全国ネットの番組では富山のそれくらいしか取り上げられることが無いが、大津港なぎさ公園付近での蜃気楼観測情報は、関西ローカルニュースでは仔鮎釣りと並んで季節の埋め草的に重宝されている。
若者4人も子供のころに夕方のニュースで観た記憶があるようで
「アレ、蜃気楼だったんですか?」と驚いた顔をしている。
しかし腕つかみ女子は
「蜃気楼いうたら、あったかい空気と冷たい空気の境目で、光の曲がり具合が違うてくるから、物が歪んだり浮き上がって見えたりするんでしょ? 今日みたような夜の一面の霧の中では起きひんのと違いますか?」
と首をひねった。クレバーな娘だ。
「その通り。」と僕は頷き「蜃気楼とは違うんだ。ただ、琵琶湖が蜃気楼が起きやすい条件を持っているというトコを押さえていてくれたらイイ。そこが肝だから。」
続けて「琵琶湖以外の場所では、夜中に起きる蜃気楼もある。熊本八代海の不知火や各地のキツネ火みたいにね。」
「キツネ火て、蜃気楼なんすか? 幽霊と一緒にフワフワ飛ぶんと違います?」
運転席が驚いたように言うと、助手席が「オマエ、それはキツネ火ちゃうやろ。ヒトダマとかオーブや!」と突っ込む。
これは助手席くんが正しい。
「そう。不知火やキツネ火は、遠くに見える光が、急に増えたり減ったり瞬間移動したりする怪現象だね。そしてその現象が起きた時、必ずと言っていいほど、見た人と怪火の間には水が有る。浅い海とか水を張った田んぼとかね。」
「水に秘密があるんですか?」と助手席が訊く。「(話の)流れだと、そういう事っぽいみたいですけど。」
「そうなんだよ。昼間が暑くて夜は急に冷え込む時期に起きやすい。昼間に温められた水は夜になっても熱を保っているから、水面に接した空気が温められて軽くなり、上にのぼる。上昇気流が生まれるんだね。すると温かい空気が立ち上った場所には、冷たい空気が降りて来て場所を埋めようとするから空気の対流が起きる。そのような空気の対流が生まれると、温かい空気と冷たい空気の境目で、琵琶湖の蜃気楼の時みたいに、光の屈折率に差が出来る。これを『空気レンズ効果』と言うんだよ。」
「ああ! それで遠くにある光の見え方がオカシクなるんか。」
腕つかみ女子が納得する。
「でもそれなら、見える場所が代わるだけやろ。その空気レンズ? を挿んでの瞬間移動は分かるとして、数が増えたり減ったりはせんのと違うか?」
そう疑問を挿んだ運転席に、腕つかみ女子は「ジブン、アホちゃう?」と手厳しい。同じものを注文しているくらいだから二人は遠慮の無い間柄なのだろう。
「空気の対流は、水の”あっちゃこっちゃ”で起きよるんよ。一ヶ所だけで起きたら竜巻になるわ。」
エネルギー量が少ないから竜巻にまでは成長しないが、空気の対流が水面の複数個所で起きるという考えは正しい。しかも空気レンズの位置は簡単に移動する。
ここで料理と飲み物が運ばれてきた。
ウエイトレスのオバちゃんがサーブしながら
「なんやムツカシイ話をしておられますね。先生と学生さんです?」
と、お愛想を言う。客の会話にイッチョカミ(一言立ち入ってくる)のは、関西のオバちゃんのフレンドリーさを示す流儀である。
だから客の方も、無視せずそれに応えなければならない。
僕が――何と返事するのが正解なのだろうか?――と一瞬ためらったら、化粧崩れ女子が上手くフォローしてくれた。
「ウチら、幽霊みたいなモン見て死ぬほどビビってたんやけど、このオッチャンに謎解き教えてもろてるトコなんです。見た目はオッチャンなんやけど、コ○ン君みたいな人で。」
オバちゃんにはコ○ン君が効いたのか「幽霊の謎解きですか。スゴイなぁ」と言うと、僕には「カツ丼、ちょっと待ってナ。出来たら直ぐ持ってくるし。」と立ち去って行った。
僕が「じゃ、食べて食べて。食べながら続きを話そう。」と促すと、彼らはやっとフォークやスプーンを手にした。
「さてと。温まった水が空気に対流を起こすというのには納得してもらえたと思う。そうしたら、キミたちが見た幽霊の見当も付いてきたんじゃないかな?」
僕の問い掛けにいち早く反応したのは助手席。
彼はナポリタンをフォークに巻く手を止めると
「上昇気流が、霧のカーテンを吹き飛ばすんですね。それが起こった場所だけ、後ろの暗い部分が見える。」
「言われてみると、幽霊でも不思議でもなかったんかぁ。」と腕つかみ女子が、カレーを頬張った口をモグモグしながら同意する。「狭い場所で対流が起きとったら、そこだけ黒い部分が目立って、人が立っとるみたいに見えたんですね?」
「でも……すぅっと近づいて来たけど?」と、ちょっと納得がいっていないのは化粧崩れ女子。「なんや獲物を見つけたみたいに。」
「たまたま対流の起きよう場所が、手前に移ってきたんやろうな。」と助手席が安心させるように言い聞かせる。「名探偵さんも、空気レンズの位置は簡単に変わる、言うてはったし。」
僕はオッチャンから名探偵に昇格したらしい。
「そんなトコだと思うよ。それに、そよ風でも有ったら、靄本体の位置も簡単に動くしね。」
僕も助手席に同意する。「もし対流が起きている場所が沖の方に移っていっていたなら、黒い影は遠ざかって行っただろうから、今日ほどにはビックリしなくて済んだかもね。」
全員が今回の騒動の原因を理解できたようで、運転席が
「ビビッて損した!」
と冷コを呷ると、腕つかみ女子がバァンと彼の背中を叩いて
「ホンマやで、ビビりなんやから!」
と笑った。