(前説)怪異について述べる前に、まずは立ち食いの駅そば・うどんについて熱く語りたい
この項はバラエティー番組における、いわゆるマエセツに当たる部分である。
本編とは関係が薄~いので、読まずに飛ばしてしまっても特に問題は無い。
好みの問題ということになるだろうから異論は有って然るべきだけれど、個人的な感想を言わせてもらうなら、駅の立ち食いソバNo.1はJR福井駅の『冷やしおろしそば』に止めを刺す。
冷たく締めた蕎麦に削り節とタップリの辛味大根おろしを載せて、淡麗な出し汁を注いだ逸品。
ヒリヒリくる辛味大根が爽やかな冷たい出し汁とマッチして、蕎麦を手繰る箸が止まらなくなってしまう。
だから食べ終わると「もう一杯。」「あと一杯。」と、次々に丼を重ねてしまうのだ。
時刻表を見て、あまり時間が無いな、と感じた時には、はなから「三杯!」と注文することもある。
丼三つを並べて次々と平らげ、ホームに入ってくるサンダーバードに飛び乗るという寸法だ。
越前は古くからの蕎麦処だけに、名店・老舗に並ばずとも、駅そばで十二分にその実力を堪能することができる。
ただ、福井駅の冷やしおろしそばに恋焦がれるのは暑い時期のハナシで、寒風吹きすさぶ冬の最中であれば温かいの汁物の方が、俄然存在感を増してくるのは誰しも異論が無いところだろう。
もっとも福井駅のホームは新幹線の延線を見越して外壁で覆われてしまったから、昔ほど風雪が厳しく感じなくなったのではあるけれど。
まあ、冬はヌクヌクが良いという話に戻すと、これもまた好みの問題となってくるのだろうが、駅の立ち食いで熱いヤツを啜るのであれば、蕎麦よりも饂飩の方を押したい。
落語『時そば』に出てくる一文詐欺師は
「こちとら、飯代わりに蕎麦を喰おうってぇワケじゃねェんだ。江戸っ子に、饂飩なんて野暮な食い物は似合わねェんだよ。」
なんて、夜鳴き蕎麦屋台の親父に阿って、同じ麺類である饂飩に対して敵愾心マンマンで毒吐いてから「熱々のヤツを一つ。」と”しっぽく”蕎麦を注文する。
だが、僕は鯔背な人間ではないし、そもそも江戸っ子ですらない。
だから寒い時期には『そうでない特権』を充分に活用させてもらって、滑らか・つるりんで、しかも腹持ちの良い饂飩ウマ~と舌鼓を打つのである。
野暮で結構。
じゃあ、駅うどんNo.1は何処よ? と云うのを考えてみると、これはカナ~リ難しい……。
JR三ノ宮駅にあるワカメ・玉子・かき揚げを乗っけた”スタミナうどん”は大好きな一品だけど、ここのお店はホームから降りて改札を出た外になる。(北口を出て直ぐ右の場所)
だから、ホームで電車を待ちながら、という駅そば・駅うどん独特のテイストとは趣に若干違いが出てくるのよ。
だって、デパートの全国駅弁フェアで買ったお弁当を家で食べるのと、列車の座席で流れ行く車窓の景色を眺めながら食べるのとでは、駅弁の味・価値・評価が全く別モノになってしまうでしょう?
それと同じだよ。ウム。
JR相生駅の名物であった『しゃこめし弁当』なんて、そのまま食うより家まで持ち帰って茶漬けにすると異次元的に旨い説があったりしたものだが、僕はそこまで舌先の愉悦のみに拘らないし……いや寧ろ、単独の食味そのものよりも旅の風情に重点を置いて楽しみたいわけだ。
三ノ宮駅の改札の外といえば、北口を出て直ぐに左に折れ、横断歩道を渡ってから雑踏を掻き分けてそのままガード下に沿って道なりに西へ進むと、アーケード街の道沿いに立ち食いの博多ラーメン屋がある。ここのラーメンはレベルが高くて、九州出身者も納得する味であるようだ。実際に歯応えのある麺が、芳醇ながらクドくない豚骨スープの長所を活かして、確かに旨い。
実話系怪談の金字塔である『新耳袋』には、『辻占い』という奇妙に印象深い掌編エピソードがあるのだけれど、その舞台が三ノ宮駅北口から新神戸駅の間の何処か。
僕は関西住みの時分、その占いに遭遇するべく相当に饂飩・ラーメン・スパゲティ・寿司・焼肉を夜な夜な食べ歩いたものだが、ついぞ拍子木の音と「つじー、うらない。」の声に出遭うことは叶わなかった。
まあ、それはともかく――
饂飩という食い物は、”蕎麦たるモノ、かくあらねばならぬ”という店主の意識に先鋭的に縛られた蕎麦より、”おおらか”というか”懐が深い・広い”というか、「旨かったらエエねん」的な柔軟さがある。
言葉遊びをさせてもらうと、『適切』対『適当』みたいなイメージ。
戦国時代の陣形に例えるならば、蕎麦が一点突破の突撃を企画する「鋒矢の陣」であるのに対して、饂飩は相手を包み込んでタコ殴りに殲滅する「鶴翼の陣」みたいな感じか。
だから、腰が命でシコシコ感が特徴の讃岐系が持て囃される一方で、腰なんか邪魔とばかりにフワフワぶわぶわホヨホヨな大阪系や博多系が共に存在し、客サイドからも共に良きかなと評価され得るのだな。
JR四国系列の駅で駅うどんを食べた事が無いから、皮ベルトもかくやという歯応え満点の讃岐系の駅うどんについては語る資格が無いので、残念ながら割愛させてもらうけれど、駅の饂飩って千差万別、これだ! と力瘤作りまくりになるような『正解』が無いのが逆に面白い。
大阪環状線であれば
〇うどんの麺と同じ幅に刻んだ油揚げが、麺と絡んで独特の旨味を供給する「きざみうどん」
〇揚げたホルモンが麺の上で存在感を示している「かすうどん」
〇吸水ゲルみたいに大量の出汁を含んで、鼻水みたいに膨張したトロロ昆布に好みが分かれる「こぶうどん」
などなど。
どれもこれも饂飩の一種と一括りに出来ないような、それぞれ別の食い物みたいな独特さがあり「今回は何を喰うべきか」と悩みまくるほど飽きが来ない。
しかし目移りがするからといって、安易に「全部載せ!」と注文するのは止めた方がよい。
肉うどんの甘辛肉はスープに対する影響力が大で、えび天などの繊細さが持ち味の具材から出汁に染み出す味わいを、太陽系外にまで吹き飛ばしてしまうからだ。
そうなってしまうともう、それは”肉うどん味のナニカ”であり、肉うどん系と一括りに纏められるべきである。
肉うどんの肉より悲惨なのが、キムチを追加されてしまった場合か。
辛い上に酸っぱいキムチは存在感が強烈過ぎて、何もかも全てを平坦なキムチ味に汚染してしまう。キムチを入れるという選択肢を採用するなら、素うどん+キムチのみで充分というか、それ以外の取り合わせの必要を感じられない。
ほら、友達同士で材料を持ち寄って「鍋でもやろう!」という時に、野菜や魚介の旨味が凝縮した寄せ鍋に、無理矢理キムチをブチ込んで滅茶苦茶にしたがるオロカモノっているじゃないですか。
そして「ハマグリもタラも、良いのを仕入れてきたのに、全然味が分からねぇ! どうしてくれるんだっ!」って掴み合いの喧嘩が始まるみたいな。
あれと同じなんですわ。
さて一方、博多の方ではゴボ天うどんと丸天うどんが主力。
ゴボ天というのは牛蒡の天ぷら。”ささがき”にしたゴボウをカラリとカキ揚げにまとめたタイプと、ゴボウを縦に二つ割から四つ割り程度に分割して揚げたタイプの2種類がある。
どちらもサクサクと香ばしくて美味しいのだけれど、時に薪割タイプの方は全く歯が立たないほどガチガチに硬いことがある。
なんだろう、これは。
前述したように博多の饂飩は柔らかい。搗き立ての餅のよう――いや搗き立て餅というよりも、なめらかつるりと細長く伸ばした白玉団子みたいに、と形容する方が正確か。
もしかしたら、歯を必要としない柔らかな麺だけだと、顎関節の鍛錬にならないとワザと強固にしているのやも知れぬ。
そもそも博多ン者は、ラーメンの麺の”茹で具合”は硬くないと納得しない傾向がある。
ラーメン屋では『硬麺』がデフォルトで、店主は聞くまでもないと言わんばかりに「注文は?」と訊ね、客側も何故訊く? とばかりに「硬麺。」と答えるのが一般的な遣り取り。
一応、店主が質問をする理由を述べておくと、『バリ硬』という更に茹で加減を少なくした麺が存在するからで、そのバリ硬にも一定数の支持者が居るのである。
接頭語の”バリ”は「噛むとばりばりと音がするほど硬い」という意味ではなくて、「凄く」という表現を強調した比較的新しい方言。
(ex. バリ旨 バリ強など。類似表現として、”鬼”を頭に付けるオニ旨、鬼のように強いなどという表現もある。バリ・鬼ともに、続く形容詞を強調をするだけだから、好意的な意味だけではなく「バリ不味」のように否定的な意味合いで使われることもある。)
また読者諸氏にはあまり関係が無いかとは思えるけれど、念のために申し上げておくならば『バリ硬』より硬度を増した麺を『針金』と呼ぶ。
『針金』までは”まだ”理解の範囲内だが、その更に上位が茹で時間を極端に控えた『粉落とし』で、究極は丼に取り分けたスープに乾麺をそのままブチ込む『生』。
ここまで来てしまうと――あえて言おう――既にヒトの食い物ではない。ほぼ伝説の類と考えて良さそうだ。(しかしメニューもしくは裏メニューには、厳然としてその存在の痕跡を感じ取ることが出来る。)
だから注文の時に「普通。」なんぞと口走ると、他の客の箸が止まって店内が異様な静寂に包まれるし、仮に臆面もなく「柔らか~くして下さい。」とまで言い切ってしまったら、途端に胡椒やラー油、ビール瓶に機関銃弾までが飛び交う修羅場になるゾ。
それほどまでに、博多の街では柔らかいラーメンは『異端』とされているのだ。
そもそも『替え玉』という麺の追加システムがあるのに、『大盛り』が無いのは
「大盛りにしたんたい、喰いよううちに麺の伸びろうが。」
(「大盛りにしたら、食べている間に(次第に)麺が伸びて(美味しくなくなって)しまうでしょう?」という意味)
という理由なのである。
なんて怖いんでしょう。(ちょっとだけ夏ホラーらしくなってきた?)
さて博多うどんの、もう一方の雄の丸天うどんである。
丸天というのは、魚のスリ身に繋ぎを加えて丸く平べったく成型して揚げたもの。
丸いテンプラだから、丸天だ。
甘さを抜いた”さつま揚げ”の薄いヤツと表現したら分かって貰い易いだろうか。愛媛県人相手にだったら、じゃこ天みたいなモノと説明するところなんだけど。
丸天がさつま揚げみたいに甘めの味を付けていないのは、そもそも さつま揚げは焼酎のアテに具合が良いよう味を調整してあるためで、焼酎を飲むためという限定的な使途が決まっていないのであれば、素材の味と塩味で、蒲鉾同様に肴・オカズの目的を充分達しうるよね?
丸天の説明はこのくらいにして、丸天うどんトータルについて論じると、博多系極端やわらか饂飩麺の上にこの丸天を載せたもの。だから全体としても非常に柔らかい食い物である。
丼内の構成成分としては、唯一”博多万能ネギ”の微塵切りが多少の硬度を保有しているくらいであろうか。
硬いのが良いとされるラーメンの扱いとは、なんと違っているんだ!
「そんなに柔らかいんなら、丸天うどん喰うときには、前歯奥歯は必要無いんじゃね?」
と考えるかも知れないけれど、そんな風に考えたアナタは、恐るべきトラップに引っかかってしまっている。
博多うどんの柔らか麺は、時間と共に”増えてゆく”のだ!
そう。サーブされたらガツガツと急いで腹の中に収めてしまわなければいけないのが博多の饂飩。
さもなくば、食べるのに時間をかけていると、ツユを吸いながら無限に膨張してしまう。
椿油で練り上げて、柔くなっても膨張はしないよ、という五島うどんなどとは製作意図が根本から異なっている。
『膨張は正義』という頑なな意思が、そこには感じられるとしか言いようが無い。
もしかすると、この膨潤システムは「腹一杯になるまで、飽きるほど食べ続けたい。」と願った古人の執念が具現化したものなのではなかろうか。
「ツユを全部吸ってしまったら、いくら何でも、それ以上は伸びないでしょ?」
と思ったアナタ。
甘い。
そう、甘いんだ。
博多うどんの店の中には『追いダシ』もしくは『追いツユ』システムを採用しているところが存在する。
追加用のツユを、大きなヤカンに入れて「セルフで継ぎ足してちょうだい。」と置いてある店ならまだ平和だ。
恐ろしいのは、善良そうな店員さんが「ツユ、足しましょうね!」と笑顔で追いツユしてくれるお店。
急いで麺が膨張する前に食べきらない限り、アナタは永遠に無限に増え続ける麺と向き合わなければならなくなる。
これがねぇ……ゴボ天や丸天ならまだしも、乾燥ワカメを載せたワカメうどんだと、本当に大変な事になるんだ。
麺だけではなく、ワカメも膨れ上がっていくからね。
息つく間もなく箸と口とを動かし続けても、一休みしてしまうと、一瞬の内に元通り。
――否、スタート時よりも丼の内容物が増大している。
そしてワカメと麺とが、じわじわと縁を溢れてこぼれ出す。
ついにはテーブル全面をヌルヌルと覆い尽くしたあげく、床にも占領地域を広げてゆく……。
この時点で既に悪夢のような状況だが、サービス精神に燃える店員さんは更にツユを注ぎにくる。
「ツユ、足しましょう。」
当然のように、満面の笑みのままで。
逃げるしかない。
けれども食べ物を粗末にすることは出来ないから、アナタは丼を抱えて店から飛び出すことになる。
何故か。
千円札でも叩き付けて「つり銭は取っとけ!」と、饂飩を残せばよいではないか?――そんな単純な解決法が思い浮かばないのは、すでにアナタが視肉の術に取り込まれているからに他ならない。
『視肉』とは何か。
それは中国の山海経他に記述が残っている。曰く――
「視肉の肉はとても美味であって食い物の中でも理想の物だという。さらに絶対に食べきることができないそうだ。食べている間にその分だけ増えて、食べ終わらないうちにもとの大きさに戻っているのだという。」(引用元 草野巧・戸部民夫/共著 日本妖怪博物館 p217 新紀元社)
視肉らしきモノは日本に出現したこともある。慶長4年(1599年)の駿府城だ。
1599年といえば、関ヶ原の戦いの前年だね。
いきなり城内に現れると、指の無い手で天を指していたのだという。肉のカタマリのくせに妙にすばしこく脱げまわり、城兵総出で追い回して捕まえたが、家康の命令で山奥に捨てたのだとか。
念のためにウィキでも調べてみた(『ぬっぺふほふ』の項)ら、ウィキには駿府城の肉人騒動が起きたのは1609年(慶長14年)とある。
はて、困ったぞ。発生年が違ごとるやないか!
新型コロナで図書館には行きにくいが、幸運な事に、こんな時に便利な本を持っている。
『日本奇書偽書異端書大鑑』(別冊歴史読本43 新人物往来社)という本だ。
p198の「一宵話」(1810年刊行 著者 秦滄浪)を読むと、慶長14年(1609年)が正しいようだ。
ホント中国共産党には困ったもんやで。調べ物一つするのも大変やないか!
ハナシが斜め上に行ってしまったが、そうそう、博多の饂飩は視肉を意識・模倣しているという話題だった。元に戻そう。
日本に饂飩を持ち込んだとされる人物には諸説あるようだが、ご当地が面子をかけて主張しているのは讃岐の空海(弘法大師)と博多の円爾(聖一国師)の二人だろう。
空海は生年774年で没年835年。留学先は唐。留学期間は804年~806年の2年間。
円爾は生年1202年で没年1280年で留学先は宋。留学期間は1235年~1241年の6年間。(なお円爾は茶の種を持ち帰ったことでも有名。九州各地の茶葉生産に寄与しただけでなく、静岡茶の元祖でもある。円爾以前には、日本で飲まれていた茶葉は中国からの輸入品で主に薬用。)
二人の生没年にはかなり差がある。年代だけでいったら空海が持ち込んだ説が強そうだ。
ただし日本では紀元前の縄文時代には既に水田が普及していたし、穀物を粉に挽くのに必要な石臼が登場するのは新石器時代。
だから上記二人以外の無名氏が饂飩のような食品を開発していた可能性は捨てきれない。
考えてみるに、デンプンをα化させた『糊』は、膠や漆と並んで接着剤としても重要な役割があったのだから、炊いた(あるいは茹でた)穀類を練って紐状に伸ばすという作業が行われていなかったはずは無かろう。
けれどもチョット待ってちょうだい。
石臼は新石器時代には出来ていたのだよ、とは書いたが、粉を挽くのにゴーリゴーリとハンドルを回す回転式石臼が日本に入ってきたのは鎌倉時代中後期から室町時代初期のころだとされている。全国的に普及したのは、喫茶が盛んになって抹茶を挽くために便利だったからなんだそうだゾ。
だから、それ以前に有った臼というのは、餅つきに使うような搗き臼や乳鉢のようなものだったんだね。(搗き臼というと、東日本の人は「猿蟹合戦」に出てくる木製の臼を思い浮かべるらしいのだけど、西日本では石臼を使うことが多いみたい。臼製造における材料の入手し易さが影響しているのだとか。)
小麦を”うどん粉”レベルにまで微粉砕しようと思えば、搗き臼や乳鉢を使うより、ロータリーミルの方が均一品質・大量生産には向いている。
こう考えると、留学年次は後になるが円爾が始祖説にも説得力が増してくる。
まあ博多には宋の貿易商や亡命者が大勢住んでいたから、ロータリーミルが全く存在し無かったとは考えにくいから、始祖というより普及者・インフルエンサーかな?
現に円爾は、蕎麦・饂飩の元祖説と並んで製粉技術の導入者としても名高い。留学中に宋で食ってた麺料理を、博多住みの大商人である謝国明(南宋人 没年1253年)あたりと普及させたんじゃないだろうか。
それでここからは邪推ということになるのだが、留学から戻った円爾は『食べても食べても減らない食べ物』を皆に提供したくて、汁を吸って増え続ける麺を目指して博多うどんの原型を設計したのではなかろうか。
モデルは山海経に出てくる視肉だ。コイツが居れば(あるいは有れば)、人々は飢えから解放される。
人類の歴史は戦争の歴史であると同時に、疫病や飢饉との闘いの歴史でもある。
茶を以て疫病を鎮め、饂飩を以て飢饉を鎮める。
そう考えると、博多の代表的な祭りである祇園山笠が
『1241年に、円爾が施餓鬼棚に乗って、当時流行していた悪疫退散の甘露水を撒いたのが始まり』
というのも頷ける。
困窮した民衆には、茶や饂飩もふるまわれたことだろう。
バックグラウンドを知らずとも、博多の無限に増え続ける饂飩には、残さず食べきってしまわなければならない”何か”を感じ取る事が出来る。
それは、白目を剥いて半ば失神しつつも箸を動かし続けている小児の姿からも明らかだ。
聖一国師(円爾)が普及させたという歴史を知らなかったら、うどん屋の店員が手塚治虫の『どろろ』に出てくる妖怪”どんぶりばら”ではないか、と疑ってしまうだろう。
(”どんぶりばら”は鐘を鳴らしながら「もっと喰え~」「たんと喰え~」と無理矢理メシを喰らわせる化け物)
たかが饂飩と侮るなかれ。
そこには飢餓・疫病との闘いの歴史が、時空を超えてパワーを保っているのである。
だから忠告しておく。博多で食うならゴボ天うどんか丸天うどんにしておけ。
いや別にイブクロに万全の自信があるのなら、ラスボス――ワカメうどん――に挑戦するのも良かろうが、軽い気持ちで戦いを挑むと痛い目に遭うぞ。
もっとも駅うどんだけに限定すれば、市中の名店のそれと比較した場合、視肉感は控えめだからRPGのチュートリアル場面でスライム戦に挑むようなチャレンジはアリかも知れない。
なお、同じ福岡県でも北九州市の主力饂飩は、牛すじ肉を甘辛く煮込んだカタマリがゴロリと乗せてある肉うどんである。博多うどんとは違って、麺の膨れ上がり方も穏やか。牛すじが馬鹿ウマなので、こちらはこちらで人気がある。
さて、マエセツだけで既に8,000字を超えてしまった。
大分の『やせうま』、新幹線名古屋駅ホームの『きしめん』、常磐線荒川沖駅ホームの真っ黒出汁うどんなどについても語りたかったのだが、あまりに冗長になり過ぎた。
唐突ながら、この項はここまでとさせて頂きたい。
「なんだよぅ! 怖いトコ全く無しじゃん。ジャンル詐欺だ!」
とお怒りのアナタ、まだ「この項」の怖い部分にお気づきになっておられませんね?
ホラ、なんとなく炭水化物を食べたくなってきていませんか?
……もう深夜なのに……。