人には人のルールがあるもの
キッチンからぼこぼこと沸騰する音が聞こえてきて、隣の猫背に声をかける。
「沸いてるよ」
返事はない。自分が火にかけたくせに。ゲームに夢中な美しい横顔を一瞥し、その膝に体重をかけてソファから立ち上がった。あーこら、と文句を背中に受けつつその柔らかい声にひどく安心感を覚える。
火を止めて鍋の蓋を開ける。湯気で眼鏡が曇った。白くなった視界がクリアになっていくのがなんだか惜しくて、レンズの端で静かに居場所を無くしていく水蒸気を目で追っていた。
水分の減った鍋の中で豆腐が顔を出している。3日だったか4日目なのか、連日の豆腐のみそ汁に君が飽きて料理してくれないかという目論見だ。一昨日のは味が薄かった。昨日のはだしの素を入れすぎた。たかがみそ汁をいつまで経ってもうまく作れない自分に対して君は何でもそつなくこなす。そんな君に負けたくなくて、私も一人で立ってみたくて、少しも寂しくないようなふりをして毎日、君の帰りを待っている。
「馬鹿だなあ」
呟きと共にお椀に注いでやった。言葉は空気に溶けてしゅわっと蒸発してしまう。
「今夜、雪だって」
発せられた方を向くと、ゲーム画面から目を逸らさないままの君はもう興味の対象を変えていた。そう。と私も興味なさげに漏らす。
ご飯をテーブルに並べて君の隣に座った、さっきよりも少し距離を開けて。栗色の伸びた前髪から覗く長い睫毛を横から眺める。こっちを向いてくれない方がどきどきしないで済むからいい。まっすぐ通った鼻筋も、一文字に結んだ口角がたまに得意げに上がるのも、美術館に保管されている絵画のようにきれいで、触れるか触れられないかの隔たりに私は溺れている。
「楽しい?」
視線の先を変えずに君が尋ねた。
「なにが」
「人がゲームしてんの見るのおもしろい?」
「うん」
頷くと、間髪入れずに横顔が言葉を紡いだ。
「無視すんなよ」
「なにが」
低くなった声色に動揺したことを悟られまいと、意識的に優しくはっきりと返事する。怒らないで。君の考えていることはわからない。私のことを「はな、自分のルール多すぎて俺にはわからん」と言うけれど、私もいつだって君のことわからないよ。
「今夜、雪だって」
ついさっきのセリフを繰り返した。
「雪好きだからすごい楽しみだよ」
「ちがう、外寒いんだって」
「そうなん」
今度は返事に一拍開いた。窓の方に体を向けた。初雪を一緒に迎えられたらいいな、と思う。君に嫌われるのが怖くて深く入り込まないように自制しながら、頭の中でたくさん選択肢を用意して、会話するたびにゲームが進んでいくみたいだ。君がゲームに熱中する以上に私はこのゲームにのめり込んでいる。もう這い出せないくらい君に依存している。
一瞬お尻が沈む感覚がした後ふわりと浮いた。いつの間にかゲームを止め、移動してぴたりとくっついてきた君の熱が私の体をこわばらせる。再び気付かれないように平静を装おうとした私の手をぎゅっと掴んだ。
「俺のこと好き?」
突飛な問いかけに思わず目を丸くして君を見る。私よりも大きな双眸がまっすぐこっちを捉えていた。ぐるぐると脳内をめぐる選択肢がどんどん膨らんでいって、それらがぶつかって全部分散してしまう。
うん。頷いたけれどそのせいで君の反応が見えなくなってしまった。ソファの上で重ねられた君の手の短い爪を見つめていた。
「俺、はなのこと好きだよ」
その手が隙間を無くすように握る力を強くしたのを感じて、節のある指と浮き出た血管に目を向けながら、自分の弱さを再認してしまう。
「ご飯食べようか、冷めちゃう」
「みそ汁冷めたんじゃない?」
もう1回沸騰させようか、と聞くと、いーのいーのと返ってきた。おまけに頭をぽんとされる。みそ汁からはまだ湯気が出ていた。
「俺のルールなだけだから沸騰させるのは」
はなの料理好きだよ。と続ける。
「今日のみそ汁はどう?」
問うと、お椀から顔を覗かせた。あ、美味しくない顔をしている。
「味噌もだしも入れすぎてる」
「全然うまくいかないね」
豆腐を箸に乗せて口に運んだ。舌の上で柔い塊が潰れる。あったかい。
「はなは何も心配しなくていいのよ」
卵焼きを箸で切っている君と目が合う。丸い目の奥が何を考えているのか、私には見当もつかないけれど、君が投げてきた台詞をそのまま返してやる。
「今夜雪だってね」
風は吹かない。家の中は暖房が効いていて、私たちは2人で温かいご飯を囲んでいる。
「雪は好きだよ。はなが好きな雪だ」
閉じたカーテンの向こうはどんななのだろう。見えないことを想像するのも、正解のわからない君の問いを考えるのも、そういう一見生産性の無さそうな時間が私を心地よくさせる。
「降るといいね」
君が言った。たぶん君は私が不器用なのも自信が持てないのも含めて、そういう下手くそな生き方をわかっている。君から与えられたものでじわじわと首を締められるように、私は生きている。君が与えてくれた全ての言葉やぬくもりが、私の心に無遠慮に入ってきて、針金できつく私を縫いとめる。
雪が降ったらちゃんと君に好きだと伝えよう。
まだみそ汁も上手く作れないけれど、君が想ってくれるように君のことを守りたいって思うんだ。