エレガントな狂気
ここは思い切って、勢い任せで聞いてみる。
「あの、それより熊は?」
『……くま』
ただのオウム返し。ピンときてない様子だ。
「そう俺、熊に襲われたんですよ!」
前のめりで訴える。がしかし、
『……よくそれだけ外傷なしで居られましたね』
相手は片眉を上げたような感じの前髪で、疑わしげだ。
「本当なんだって! こう、二〇メーターくらいで矢撃って、全然効かなくて……。それでちょっと手違いで毒で自爆して……」
『そうですか。矢が当たったのなら、それで逃げたのでしょう』
まあ……そうかもしれない。むしろそうでないと、このレイヤーが熊を追っ払ってくれたことになる。それよりはよほど現実的だ。
いやでも、もしこの格好なら熊も見ただけで逃げたかもな……。あ、でもそれだとこいつは熊を見ていることになるか。いや熊だけ先にこいつに気づいて逃げた――、
ていうか……あれ? ……そうだよ! こいつの声!
あの天使だと思った声は、このレイヤーの声だったんだ! なんか複雑っ!
「あ、あの! その……俺って、あんたが運んで来てくれたんですか?」
『六子です』
「え」
無限に続きそうな間。
「……あー、ロッコ、さん、が」
『そうです。最初から、そう言ってます。あまり内圧を上げさせないで』
「内圧?」
『主に蒸気圧です』
しまった。触れない方がよかった。火傷した。世界観に。
「え、じゃああんた、じゃなくロッコさんが、ひとりで運んだ……?」
他に誰か居た? とストレートに聞くよりはこうした方が無難だ。さて何人居るだろう。
『ええもちろん。体積の割には重かったですね』
うわ、シラを切られた。なんだこいつ。
「またまたぁ……」
『……なに、その反応』
いきなり圧が増した。表情はずっと一定なのだが、前髪がかるく〈V〉の字になったので怒ってるっぽい目元に見えないこともない。ものすごい演出だ。うわ、頬の管から湯気まで出た……。
ほんっとすげえなぁ。ユニバとかTDLとかの水準だなこのつくり込み。逆にバカだな。
と、さすがにあまり怒らせるのはよくない。
「いや……だって、そんな力持ちには見えないよ。ここまで担いで来たってこと?」
『そう』
絶対違う意味のほうで担がれてる。
「でも俺五〇キロはあるよ……」
『衣服所持品込みで五七キロかな』
「それを、肩に担いで……?」
『いや違う』
「え……あ、じゃあ背負って?」
『いや、こう……こんな感じ……お姫様だっこ?』
お姫様だっこ! どんな嘘だ! なめすぎだろ!
「いやいやいやいや……」
『なんだ信じてない?』
「んー……ちょっと、さすがに……」
いい加減にしといてほしい。そろそろこっちも人間なりに内圧上がってくるわ。
『じゃあ立って』
――と、いきなりロッコは腰を上げて、すっと立ち上がる。その動きと並行して、組まれていた脚が解れて伸ばされゴドンと板を踏んだ。
身体の軸のブレなさは素晴らしい。レイヤーもここまで極めてくるとプリマドンナかトップモデルみたいな体幹になるのか。ただ者じゃないな……。
って感心している場合じゃない。
「……えっ」
しかしどう返していいかわからない。
『まだ立てない?』
「いや、立てると思うけど……なんで?」
危険だ。本能がそう告げている。というか単になんか怖い。
『じゃあ立って。片腕で持ち上げるから』
無茶言い出したなこいつ。
「いや、いいです」
『遠慮しないで』
「いや……。あの一応……どう持ち上げるって?」
片腕で、となるとイメージが湧かない。布団干すみたいに、だらんとなるのか……?
『こう……だらんと、片手で頸部を掴み上げる』
モロ首吊り状態じゃねえか!
「死ぬわ!」
『そんな……やってみないとわからないよ』
手をマジシャンのように開いては握りながら言う。そのエレガントな狂気。
「いやですマジで。せめてもっと安全なフォームで……」
っていうかそもそも持ち上げられたくなんかない。なに言ってんだ俺。なんだこの茶番。
『それじゃあ頭をこう、わしっと……アイアンクローならどうかな?』
しかもこいつまだノリ続けてやがる……しつこいな。
「それも痛いでしょ」
テンションゼロのつっこみ。身内や仲間には決して使わない禁断の最終兵器だ。
さすがに、効いた。
空気もろともロッコは凍結。だんだん、こちらにも罪悪感がチクチクと襲ってくる。
……いや、むしろこちらのダメージの方がでかくないか? ものすごい静寂の重圧……!
おい、なんだこれは。今にも命のやりとりが始まりそうな……。
『痛くしないから』
うわ! こんな間を置いてそれかよ!
「いや……」
ゴドン――と一歩、近づいてきた……! すげえ重い足音。
『もし痛かったら、痛いって言って? そしたら、すぐ楽にしてあげるから』
どういうことなの? ヤバい意味にしか聞こえないんだけど。
「いや怖いですなんですかちょっと……」
板に手を突いて後ずさる。ゴドッ――ゴドッ――と迫りくる文字通りの金属の爪。
背に、柵が当たる。
ああ……!
「ちょ待ってあと無言やめてちょっと怖いですごめんなさいほんとイヤちょっ止め――」
目の前に手のひらが――ああ、鷲掴まれる……! きつく目を閉じ――
上昇。
――身体が浮き上がり、ふわりと止まった。エレベーターの到着時のような感覚。
「――ひぅっ」
全開の目で見ると、ロッコの胸から上が異様に近い。
『ほら、軽々』
お姫様だっこが――炸裂していた。
……今まで、どんな間接技や投げ技をかけられても、こんなことはなかった。
身体は、ノーダメージだ。
だが……いや、だからこそ、精神的な衝撃が希釈されずにダイレクトに響く。
ただただ……恐ろしい。
地に足がつかないばかりではない、不安定感。魂の底が抜けたかのような、虚脱。
心が――虚空に吊り下げられた心が、このお姫様だっこで砕かれた。
砕けた心の残骸が、散って、降る。
かつて自尊心だったものが、闇へと墜落していく。
代わってマグマの如く突き上げてくる激情――羞恥心。
恥だ。
今、この状態が、そのまま恥のモニュメントだ。
目に浮かぶ――恥と一字だけ刻まれた台座の上に立つ、お姫様だっこの銅像……。
『驚いた?』
と、柔らかなアーチを描く前髪のロッコ。
『素直にお姫様だっこさせろと言えば渋られると思ったので、ちょっと騙しました』
言わないでほしい――。お姫様だっこと言わないでほしい。
『これで信じてもらえたでしょう。こうして、お姫様だっこで運んで来たんです』
身体が、顔が熱い……。
「あ、あのもう――」
自分でもびっくりするほど小さい震え声だった。
「――降ろして、ください」
『え? もうしばらくこのまま保持させてもらえれば、持久力も充分だと証明できるのに』
「充分ですっ……もう、充分……!」
『なぜそんなに……。ああそうか、リュウは今、照れているという状態?』
聞きますか、そういうことを。
「ほんと勘弁して……こんな……もう」
『そんなに、照れるような状況かな……』
「だってこんなとこ、もし誰かに見られたら――」
――目、
目が、合った。
ロッコとではない。
二階のデッキの柵に、隠れるようにしてこちらを見下ろしている目とだ。
「――あ」
と、魂の底が抜けたような声が出た。
「ぅあ、えっあ……ど、どうも……」
と困惑の極地といった、たぶん年下の、女の子。
「どうも……」
それだけ返し、とても絶えきれずに目を逸らす。そしてそっと、静かに両手で顔を覆う。
『周ー、これ、リュウというんだそうですよ』
「え……あー、うん、聞いてた」
『ではそろそろ、もう、いいですか?』
「……ん? なにが?」
『森へ返して来ても』
「えぇ!」
『え……? もうちょっと近くで見てからにします?』
「いやこっち持って来なくていいからっ」
『そうですか。確かに、ちょっと臭気がありますし。では、もう森に返しちゃいますよ?』
「いやいやいやいや! それは酷すぎるって……助けてあげようよ。中で休ませてさ」
『えー? なんでですか』
「いやっ、だって可哀想じゃん! 今そんな……ねえ? そんなふうな……状態だし」
この間――石臼で挽くように、心の破片がさらに微細に粉砕されていくのを感じていた。