最高圧
大事な場面に、一体どれくらい遅れたのか。ヒーローとしても男としても最悪だ。
ログハウスの確かな光を見て、視界の揺らぎがどれほどのものか、ようやくわかった。何とか意識だけは、その視覚の頼りなさに惑わされないよう、頬をひっぱたいて律する。
全てが終わっているかもしれない――悪い方に。
いや……まだ間に合っているはずだ! 今は、そう信じるしかない!
デッキにもダイニングにも、もう誰も居ないようだった。少なくともそこは静かだ。
クルマはまだある。その平面ガラスに手を突いてもたれながら、中を見る。空っぽだ。
目で見る距離の割に、ずいぶん裏口のドアが遠い。
その途中、道具棚の側に、白っぽい――カーペットを丸めたものを見つける。そうかロッコがガラス片付けるって言ってたな――武器にするか、いや邪魔だ。
とかすかに、近い位置にある、屋内の階段を下りていく足音……!
鍵が開いている事を、そして何より奴ではないことを祈りつつ、そっとドアを引き開ける。
開いた――。
廊下の先、角の左側へと消える――着ぐるみの端!
見間違いじゃない! 居た! てか中入ってんじゃねえぞクソ!
「この……」
奥歯がギリっと鳴って焦る。バレないように――しかし急げ!
足音を殺しながら角まで進む。――と、重厚なドアの鳴る音が聞こえていた。がしかし、待ち伏せへの警戒心を三割残し、屈んで低い位置から角の向こうを素早く覗く。
閉まりゆくメタリックなドアの隙間に、例の着ぐるみの端が滑り込んで行くのを見た。
そして重い音を立ててドアが閉まる――ガチャン、と鍵も!
「くそ……! 立てこもったか?」
口では悔しがるが、そこまで悪い流れではない。しかし……なぜわざわざ、あんな出入りの重い部屋に? 篭城でもするのか、いや、窓から逃げる気か……!
外壁を見て確認しようと腰を浮かせて、止まる。
――待てよ、あの中で隣の部屋へ繋がっていたりするかもしれない。もう、このフロア全体に意識を向けるべきだ。仮に誰かを連れて外に出るなら無音というわけにもいかないだろうから、ここで注意していればわかる。
だが……わからない。恐らくロッコの防衛を破ってまで、そんなところで……。一体何をするつもりだ? つくづくわけわからん奴……。
しばらく息を殺して建物全体の音を探るが、静かだ。かすかに、例の部屋から動く音があるような気も……。
あのゴツいドアの部屋に、皆か誰かが囚われている可能性が高い……のか。いや、
「今の内に、一応他も探して見――っ!」
と――かすかに、中からロッコの高い声が聞こえたような――!
「んにゃろ……やっぱそこか……!」
綺麗にキレた。
素早く外へ――道具棚の前で立ち止まる。
「これだ、これなら……」
思わずにやけてしまった。
超速かつ消音で手を動かし、必要なものを引っ掴んで下ろして並べ、まずドラム式のデカイ延長コードの先を屋外用のコンセントに差して半回転、カチッとロックさせる。コードを繋げた電動のものとエンジン式のものを片腕で抱え、出したコードをまとめドラムごと持って屋内へ戻る。角で一呼吸待ち、ドラムはそこに置いていく。
今度はドアの横まで来た。このドアは恐らく破れない。だが、それなら……。
丸太の年輪が積み上がっているところが仕切り壁だろう。その目算で、ちゃんと部屋の中に繋がる辺りの壁に狙いをつける。
「よし……」
電動のチェーンソーを左手に持ち、右手のチェーンソーのエンジンスターターである紐を口にくわえ、歯の隙間から深呼吸。
……頼むぞ。
くわえた紐を一気に引っ張り――
ブォオオン――ッ!
轟く爆音――振動は続く――よし! エンジン掛かった!
左の電動式もトリガーを引いてスタート!
「――うおぉぉぉおおっ!!」
爆音二機に負けじと叫び、暴れたがるチェーンソーを握力ひとつでそれぞれ屈服させる。
そして肩幅ほどに開いて構え――同時に突く!
――鉄のドアが破れなくても……丸太の壁なら、叩き斬っちまえばいい!
高速で回転する刃が木の粉を散らし、瞬時に廊下は木紛の吹雪が吹き荒れる景色となった。
先の円いチェーンソーのブレードが、丸太の壁を貫く手応え――貫通!
「――ふぅう……っ!」
今度は押し下げるように力を乗せる。満身創痍で全力運動――頭が真っ白になりかける――がしかし、集中を切らすわけにはいかない、刃を真っ直ぐ下へ進ませつつ、ちらちらドアにも目を光らせる。もし廊下へ出てくるそぶりを見せたら、すぐ引き抜いてそのまま斬り込む!
二本、三本、腰の高さまで斬った。刃の通った隙間から部屋の中を覗くが、しかし木の粉が舞って良く見えない。電気は点いているようだ。――と、着ぐるみが見えた!
「――竜くん! 竜くん!」
「――っ!」
とその時――信じ難いことに、階段の手摺から身を乗り出すアサヒの姿を、木粉の嵐の向こうに見た。その後ろに周も。
「――ぅおっと!」
手元が狂って刃が暴れた――危ない。ってそんなことより――!
良かった! 良かった! 二人とも無事だった!
木の粉が目に入った。悪い事に両目同時だ……。だめだ、ちゃんとドアも注意しないと。
「やめ――竜くん――」
「二人とも部屋行ってろ!」
膝の高さまで斬った! 動かしたままチェーンソーを引き抜き、壁を思い切り、
蹴り抜く!
ガゴッゴドド――ゴゴン……ッ!
壁として積まれていた丸太がバラバラに崩れ、重い音をたてて転がる。
「開通……! ――って」
眼を見開く。木の粉の群れが流動し、ゆるゆると舞い落ちて視界が晴れていく。
部屋の中には、着ぐるみ野郎と、その足下には、
白いエプロン――ロッコの……。
何かが、弾けた。
「おい……てめぇ……!」
チェーンソーをダウジングのように構えながら、ぬるっと真っ直ぐ部屋に入る。
視線の移動ではなく、視界で把握する……ロッコは見える範囲に居ない。クローゼットは開いていて、中はわずかな服と熊だけ。
ベッドもない、作業場だとしても寂しいほど物の少ない部屋だった。
目立つのは、一見オイルヒーターのように縦の隙間を並べている、四角い渦を巻いたパイプだ。その端は真っ直ぐ天井へと伸びて、恐らく上の部屋と繋がっている。そして、低い位置には、フタの閉じた小さなラッパのようなものがくっついていた……恐らく、通話機。
「ロッコどこやった……!」
だらりと両腕を下げる。チェーンソーが床に転がる丸太にぶつかり、短く踊らせた。
返事は無かった。
初めて明るいところで対面する、ふざけた着ぐるみの表情……本来なら子供にも大人気の罪の無い笑顔だが、今は、地獄の底に埋め殺してやりたいほど憎たらしい。
と、怯えたように着ぐるみは数歩後ずさり、突然消え――
横っ飛び――ドアに取りついて引き開けている――速っ、どんな瞬発力だ!
「ま――待てクソごらぁ!」
チェーンソーを放って――エプロンに当たらないように――。と丸太に足を取られてもつれつつ、とにかく廊下へ出た着ぐるみを追う!
「きゃっ――! て……」
まずいアサヒまだ居たのか!
廊下へ出た瞬間、アサヒへと向かって走る着ぐるみの背中に向かって一瞬、立場も何もかも忘れてひたすら心の底から懇願した。
「頼む――!」
止めてくれ――! と、言う間もなく、
「え……なんで?」
着ぐるみは玄関の方へと急に折れて、ポカンとしたアサヒの顔が見えた。
混乱。安堵。その爆発的混合。
わけもわからず走って階段に近づくと、周の顔も見えた――同じく不思議そうな。しかし、
「二人とも、とにかく部屋に!」
すぐ玄関へ向く。頭の中に混ざる疑念――なんだ? 一瞬あの着ぐるみ、二人に顔を向けて――片手を顔の前に持っていって……?
「竜さんでもやっぱ――」
「頼むから! 行ってて!」
周の声を遮って叫び、外へと飛び出す。
――大丈夫、今度こそ絶対――とは、心の中で念じて伝えるだけだった。
さっきまでの……森から続く不調ぶりが嘘のように、今は体感覚が澄み切ってその存在を感じないほど、軽快に、自然に躍動していた。
そうか……きっと心理的な抵抗が毒のように働いて、身体を鈍らせていたのだろう。
森から戻って来る時、ここは井戸の口に思えた。何よりも近寄り難い闇があった。
また、取り返しのつかない喪失が、ここで……。
そんな恐怖心が、強く、心理的な抵抗として働いていたのだろう。
だが今は――そこからの開放――そしてその反動だ。
まぁ、何だっていい。動けるのなら何だって……。今は、とにかく着ぐるみの捕獲だ。考えるのはその後でいい。
追っているのは、絶望であり希望。広く深い漆黒の中に、小さく鋭く光る、わずかな希望。
今、それが見えていた。
今度こそ、掴んでみせる。
……前を行くその相手に、さっき負けたばかりだということも――また、負けるイメージというものさえも、全く存在していなかった。
「――待てロッコどこだって聞いてんだよっっ!」
立ち止まり、息をつく。
勢いよくキレて全力稼動しっぱなしでこうして外へ出て、また、不意打ちのような不可解な行動を目の当たりにしていた。
「待てって言ったっけか……俺」
着ぐるみは、頷いたように見えた。半分くらいは錯覚であってほしい。
ダイニングからの光が、そのでっぷりとした姿を薄暗く浮かび上がらせている。
「だからって……それで止まるかよ」
くまっしー……キャラ通りのトリックスターだな。いい加減、殺気揺らぐわ……。
全然嘘だった。殺気しかない。
「おい、ロッコ――あのメタリックな女の子はどうした? どこやった?」
構える――それはポーズのことではない、主に内部の調整だ。息を整え、身体の爆発的な負荷に備える。
「教えてくれ。それで無事を確認したら、俺は見逃す」
相手からは、むしろ微笑んでいるようにさえ見えているだろうか――客観視を越えて、意識は空間にまで広げ、掌握する。
着ぐるみは、ほんのり首を傾げた――ように見えた。
「最後だ。言え」
くいっ、と、来いと挑発するように手を動かした着ぐるみ。
「この……!」
どうにか爆発を抑え――呼吸。
――呼吸――呼吸。
水平に跳躍――初打は脛へ突き降ろす蹴り、ステップで躱される――フェイント効かず。
小さく跳んで旋転――後ろ回し蹴りを腰元で止める相手のふざけた左手――反応鬼か。
片足着地に合わせてサイドステップ、ついでの左フックもガードされる。
固ってぇ! けどさすがに遅い――このまま踊って翻弄するか……いや、
ベタ足で正面から押す戦法へシフト。
真っ向勝負!
とすぐさま相手の突き――空気が貫かれる音! やっぱ速いかも。
全く――デカイから躱すのも大変だし、だぶだぶだから予備動作もほとんど見えない。
案外着ぐるみって強いな。まぁ……さすがに素に比べたら弱体化してるだろうが。
そうこいつ――もし素だったら負けるかもな……強いぞ。どんな身体ってか筋力してんだ。
固ぇしバネ異常だし……でもなんだ、以外と格闘は不慣れっぽい……まだ若い――か?
って――こいつ着ぐるみでなんでこんな視野広いんだ……ぐっ、今の絶対死角だったろ!
こちらの決定打は辛くも必ず逃れてくる。余裕は無い――どころか、地力では恐らく負けているだろう。……しかし、
そんなことは関係ない。
もう、手遅れだとしても。勝っても何も戻らないとしても……。
諦めない。掴むまで手を伸ばして、最後まで離さない。
こいつを倒す。必ず。
「――ここだっ!」
相手の突きを躱して――だぶついた布を絡め取る。
柔道のように引き込み、体勢を崩した隙に潜り込んで、横から低く当て身!
『ぐっ……』
相手の上がった脚を押して送りつつ素早く反転、背後をとって、
腰の裏へ渾身の掌底――突き降ろし! それで痺れたところを大振りの回し蹴り――
とどめだ! 後ろから頸部へブーツが襲いかかり――
「っ――なっ!」
感触が違う――ガードしやがった!
それも――中で? マジか……!?
しかし相手は横様へ吹っ飛んで――バキッと柵を突き破った。
勝負あり……くまっしーは横向きに伏せる格好のまま、動かない。
その時――全身からあふれるほど強くこみ上げてくるのは、達成感でも優越感でもなく、
むしろ反対――失意と、無力感だった。
「……弱いな、俺」
滑稽なほど震えた声。
両目から零れた大きな涙が頬を滑った。
今さら……。本当に、今さらだ……。
「――こんな……」
理由がなければ何も出来ない――こんなことになるまで、この程度の力も出せないのか。
涙が止まらない。
足りない――これだけでは償えない、とでも言うように、次々と頬を伝い落ちる……。
情けない。情けない! 勝てるなら最初から勝てよ!
また……もしまた、取り返しがつかなかったら――一体どうする!
「ごめん――ロッコ」
と、くまっしーが腕を立てて、背を向ける人魚姫のようなポーズになった。
……そう、しかし――
何か……どうにも心中を乱す黒い靄を払うために、すぐに近寄り手を伸ばす。
うっすら白いオーラが立ち上っている着ぐるみのデカイ後頭部を掴んで、
バリ――ッ!
引きちぎり、ぐいっとパーカーのフードのように下げた。
その引っ張られた勢いで仰向けに倒れ、現れた中の顔が、惚けたように空を見上げる。
『ぁ――――』
広がり、消える白い蒸気状のオーラ。
着ぐるみの手が、中から現れたその顔――ロッコの顔に、触れる。
『うぁあああっ――――!』
「ふぇぇええ――――!」
『破いたぁぁ――――!』
「ロッコぉ――――!」
『――死っ!』
とロッコは両の逆手で地面を突き、跳ね上がるようにしてこちらへ蹴りを――速っ――




