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蒸気機関少女  作者: コスミ
五章 もういいよ
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もう二度と


 暗い視界。

 目は開いているのか、見えているのか、そもそも……生きているのか。

 またか……。

 またこの――ぐらぐら混濁した感じか……何回目だ?


 わたしのほうが――……

 そう言った、彼女の目。

 何回目だ……? 急に――こんな時に思い出すか……。


 ――闇の中から見上げる目。

 その彼女の表情を忘れない。

 二つ年上の、スタイルのいい女の子だった。子供心に、芯のある綺麗さだと感じていた。

 彼女のことが好きだった。たぶん、今でも。

 その時が来るまでは、淡く透明な想いのままそっと胸の中で最高の宝物として大切にしていくつもりだった。あるいは、叶わずに風化していく過程さえ美しいだろう、と予感していた。

 二人で山を登って、旧家のある近くを歩いていた。

 元は畑だったのか、平らでひときわ草が茂っているエリアがあったり、何代前の人が植えたのか、大きく育った栗の樹があったり。

「暑いね」

「うん」

 彼女の声に応える時、どんな些細で短いやりとりでも、いつも頭の中が一杯になった。だから最初は、彼女と居ると自分がバカになったのではないかと恐れに似た戸惑いを覚えていた。

「ひかげのほうに行こう」

 そう言ったのは俺だ。決して忘れない。

「うん、行こう」

 彼女は明るく笑って――その表情はいつも鮮明に……皮肉な対比として脳裏に浮かぶ。

 古い井戸の口が、何年前かの土砂崩れ半ば埋もれていたと後から聞いた。

 フタの役を成していた板材は朽ちて雑草に紛れ、土と見分けがつかなくなっていた。

 落とし穴。イタズラかな――と苦い笑いが込み上げてくる一瞬。

 彼女の身体がどこまでも沈んでいく光景が、その深さを増すにつれてスローになった。

 直後――俯せになって、土と腐った木の臭いを顔のすぐ前に感じていた。

 飛びついて伸ばした手は、間に合った。

 間に合ったんだ。――俺は、なのに……!

 地上に引っ掛けていた彼女の片足は、それを支えていた木材が割れて諸共に中へ落ちた。

 悲鳴の低い反響音。急激に増した重量感。肩がギュボッと音を立てて肘が痺れた。

 闇の中から見上げる彼女。

 こちらの背後にある光を、何より恐ろしいものを見るようなその目に灯していた。

 どんな景色だったろう。彼女のその目が見ていた景色……。

 あ、あの時――身体が痺れていく、あの時……。

『おーい――だいじょぶ?』

 時間が錯綜し、声が重なる。

「だいじょうぶ?」

 井戸の中から彼女はそう言った。

 もう、落ち着いた表情だった。しかしそれは繕った顔だとすぐに見抜けた。

 ようやく木材が落ちた音。水はあるらしいが、跳ねて壁にも当たる音――たぶん浅い。

「そっちこそ……!」

 両手で掴むことはできていない。自分の身体を支えるため、左手は井戸のフチで突っ張っている。その手を脚と交代させようと身じろぎするが、難しい。それに動くと彼女に土が落ち掛かっていくので、諦めた。彼女は内側に掴むところを探しながら、やがて脚を伸ばし、内側に突っ張って身体をその場に固定し始めた。

 運動の得意なところが彼女を好きな理由のひとつだった。すぐ腕の引っ張られる感覚がマシになる。正直、これは一分も保たないと思っていたので助かった。

「だいじょうぶ、もう離して」 

 彼女はもう、突っ張る自分の足を見ていた。

「離していいよ」

 と、もう一度。今度はこちらの目を見ながら優しく、強く。

「……そんな」

 突き放された気がした。手を繋いでいるのに、遠い。遠ざかる。

「だいじょうぶ、急いでだれか呼んで来て……」

 力を尽くしている身体から発せられている声だ。余裕はない。離したくない。

「落ちちゃうよ……」

 何もかもが震えているようだった。

「だいじょうぶだって――」

 苦しそうな笑顔。この笑顔を、いつまでも覚えている。

「わたしのほうが力強いんだから……」

 力の抜けた手から、彼女は、離れていった。

「ほら、だいじょうぶでしょ――急いで、お願い」

 声が遠ざかる。突っ張って身体を支えている彼女から、井戸から、離れた。

 走り出す。何か、彼女に声をかけなきゃ――と数メートル駈けたところで気づく。

 しかし、喉がつかえて何も言えなかった。

 さらに何メートルも走ったところで、ようやく辺りに悲鳴をまき散らした。

 ――しばらく後、知らない人の家で、じっと小さくなって聞いた。

 意識の定まらない彼女が井戸の底から引き上げられたと。

 そのまま、いつまでも俯いて、そこで時間が永遠に止まってしまったように感じていた。


 走馬灯というほどじゃない。ただ頻繁に意識へ上がってきてはそれだけで頭を全て満たしてしまうほど、強く、濃く、深く染みついた記憶だった。そこには必ず、息が詰まるような感覚も付随している。

 何回目だ? この感覚。

 あと、今日こうして意識落ちるの……。

 ほんっと……笑っちゃうくらいだ。今日だけで何回目だよ……。

 えっと、最初が毒で、次がロッコか……それで――え、

 って――今回のは、なんで……。なんだ……何か、やばいような――

 胸を突き上げる焦燥感……そして、閃くように思い出す。

 ――そうだ! まずい!

 早く戻らないと――って、

「うっ……クソ!」

 縛られている! 細い幹に、後ろ手で――ぐっ……細い紐が容赦なく食い込む。

 背中で幹に寄りかかりながら、ズリズリと立ち上がる。足下に違和感――右足の靴紐が解けて……いや、ごっそり無い。そうかこの縛ってる紐……くっそ!

 固く締まっている……結び目はどこだ?

「クッソ……おい! どこに居る着ぐるみ!?」

 あの着ぐるみ野郎――クソやばい奴だ色んな意味で! 一切迷い無く襲って来たぞ! あんな好戦的な奴がなぜか非武装って……まさか、プロか? そうだよ確か――対人制圧目的の時は、強い奴ほど逆に素手だって聞いたことがある……セガールとかそうだもんな。

 ――あぁもうロッコのバカ! あんなもん勝てるかよ!

「どこだ! 出て来い!」

 まずい、まずい、クソっ! 近くに居ないのか? 居てくれよ……でないと……くっ、足止めすらできないのか俺は!

「くそ……くそ……っ!」

 なんだよ最悪だ、俺――役立たず以下だろこんなんじゃ……。

 身体の奥底から力が抜けていくような感覚。と、


 わたしのほうが力強いんだから……。


 頭が真っ白になった。

 息を吐く。腕に力を込める。

 この腕と手を、あの日からこれまで、どれほど虐げてきたか。

 努力でもトレーニングでもない。ただの日課であり、俺の腕はそのためにだけ存在しているようなものだった。ただただ、ひたすら無感情に鍛え続けてきた。

「もう二度と、あんなこと女の人に言わせない……!」

 少しずつ、千切れる音。手首の筋ではないことを祈る。

 身体の力を全て集める。紐の弱い部分を探り、そこに力が集中するように手首を捻る。

 ブツッ――と、両腕が真横に吹っ飛ぶように広がった。そのまま身体から離れて飛んで行ってしまうのではないかというような勢いと痛み……! 

「っ――っしゃあ! どうだクソ紐が……!」

 と目眩……血がどこかへ行って足下がふらつく。が、とにかく進む、地面に手を突き、幹にすがりつき、膝を奮い立たせ、とにかくなりふり構わず進む。進む。

 獣道よりも進み辛い、木々の世界を進んでいく。しかし今は、この邪魔なはずの幹に味方されていた。もたれ、ぶつかり、抱きつき、ぐらぐらと覚束ない身体を支える。

 舗装路では、立ってもいられないだろう。

「はぁ――独りで生きるは――獣道、か……」

 しかし独りでは、そもそも進む気も起きないだろう。

 ……じゃあ、この道は、一体なんだ?

 いや、ここは、ただの森か……。

 そうだ……どうってことない、ただの森だ。

 右足から、紐を失っていたブーツが脱げた。むしろ脱げて良かった、少しだけ軽くなった。

 しかし左足も脱ごうとは思えない。そんな暇も余裕もない。

「ロッコ――!」

 頼む……どうかみんな無事で……。

 まだ見えない、まだ着かない。焦りが急速に募っていく。胸が張り裂けそうなほど、一瞬で満ちていく焦燥感――そうして胸から溢れた分は、無理矢理絞り出す声へと変換する。

「くそ……ばかロッコ……頼むぞ本当にっ!」

 あれほど余裕たっぷりだったロッコ。しかし、あの相手の動きを見た今では、どうしようもなく不安が渦巻く。万が一……もし、負けていたら……。

「――!」

 幻覚であって欲しかった。

 朦朧とした視界――その遠くで、木々の隙間に、小さく、二階のデッキへと放り込まれるような軌道を描いた、黒い細めの人型のシルエット。

 ダイニングからの逆光で、その人型は、確かに、影というだけでなく、光を受けた部分もまた黒く……見えた。

「きゃ――っ!」

「――ちょっとロッコ……!」

 ほんのかすかに届く、引きつったアサヒの悲鳴と、周の声。

 そう……デッキには他に二人居た。今くっついて、ひとつのシルエットになった。

 御苑生姉妹……なんで部屋に居ない!? なんて迂闊な……無防備すぎる!

「ぐっ――」

 しかし胸中での叱責は、そのまま自分へと跳ね返ってきて刺さる。

 誰より迂闊で無防備だったのは――他でもない、俺だ……!

 バカ野郎……! またこんな――取り返しつかねえぞ!

「ロッコ――!」

 頭の中で黒い爆発が起きて、全ては溶け合わさった。

 もうどんな視界か、どんな体勢かもわからない。泥が進むように、煙が進むように……何でもいい、ただ進むだけの存在になって進んでいく。

 そこにどんな暗い絶望が待ち受けていようと、もう二度と、逃げることだけはできない。



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