脱力
*
カーペット上にガラスを集めて包む音。
六子は、そのカーペットを袋状にして掴み上げた。
「あー、やな音ー」
と入室して来た旭が、眉をひそめながら小刻みに首を振る。その後ろから周もそろそろとついてきていた。ちゃんとスリッパを履いている。
『六子もそう思います』
振り向いたまま直立不動の六子へ、旭は携帯を掲げつつ、
「灯と連絡ついたよ。周にも話した。あ、六子も聞いてた?」
『はい。「近くに居るなら六子も聞くように」と、灯の声が聞こえたので』
「うわすごっ、さすが。――そっかそういや通話中はガラス片付ける音止んでたね」
『ええ、その時はちょうど細かいのを掃き集めてました』
旭は口元を斜めにした。ガラスが無いかと座面を確かめてから椅子に腰掛ける。
「じゃ今後も、聞ける範囲内は全部把握しといて。聞かれたくない時は、そう言うから」
『わかりました』
「周も座りな?」
隣の椅子を勧められた周は、しかしその背もたれを掴んだところで止まる。注意がまったく別の所へ向いている様子だった。
「ねぇロッコ……それより今、竜さんは大丈夫なの?」
『竜は、負けたみたいですね』
「えっ……!」
「ウソ早くない?」
旭が身を乗り出して、さらに何か言おうと口を動かしたが、声は続かなかった。
「本当? 怪我は?」
周が、珍しく強い語調でロッコに詰め寄る。
『動きからすると、すぐに意識を断たれて、それだけのようです。怪我というなら特に何も』
「気絶させられただけってこと?」
『ええ。ちゃんと闘えば、もっとお互い消耗すると思ったのですが……残念です』
「そうなんだ……でも大丈夫かな竜さん。気絶するのは慣れてそうだけど……」
「なんでこんなすぐ負けたかな? 相手の正体に驚いてる隙を突かれたとか?」
『そうかもしれません。もし正面から闘えば――筋力や集中力、反射速度などの純粋な能力比で言って、竜がわずかに上だと思ったのですが。まぁ、状況への対応力と、何より練度が相手と比べて圧倒的に不足でしたから、総合的には、こんなすぐやられても不思議ではないです』
御苑生姉妹は同時に驚愕の表情に変わり、旭だけがようやく口をきいた。
「え、ちょっと六子さ……ウソだったの? あのさっきの、竜くんなら勝てるっての」
『嘘……? いや、過度な期待でした』
「期待って……なんで?」
『なんとなく、です』
「うわぁ……」
旭は天井を仰いで、額に手をのせた。周も呆れたように脱力する。
「その人も強い人だそうだけど……ボク、すっかり信じちゃってたよ竜さん勝てるって……」
「私もー……ったく六子やってくれるぜ。ウソとまではいかなくても、ワザとなんでしょ?」
『ええ、まあ――できれば、あの人と闘う手間を省きたかったというのはあります』
「ちょっとロッコ……」
「まあ合理的な判断っつか、順当なマッチメイクだけどさ……もし竜くん勝ってたら立派に一人前だってことになっただろうし」
「あさひねぇまで……竜さんがかわいそうだよ」
『周、それは終始一貫してそうです』
「にしてもビビったなー、なんでガラス割ったんだろう。演出?」
『ちょうど近くまで来ましたので、六子が本人から聞いてみます……』
と、カーペットを持ったまま階段へと歩き出す。
旭はため息混じりに手をひらひらさせ、
「気をつけてねー、……やりすぎないように」
「ダメだよロッコ、あんまり怪我させちゃ」
と次いで周も、心配そうに念を押した。
『すみません、保証しかねます。今回も、そこまで手を抜ける余裕はなさそうですから』
言って、六子は階下へ消えていった。
やがて周が、不安げに旭の肩に触れる。
「……大丈夫かな。だってロッコさっきの歌で、一次制限とかいうの、外れてるんでしょ?」
「あぁ、そういう強さっていうか運動能力とかはそんな変わんなくて、どっちかって言うと、賢くなるような方向なの。だからまあ、逆に危ない面もあるんだけど」
「えっ危ない? 相手の人が?」
「んにゃ、両方。特に六子は、自分の身の安全を絶対優先するように固定されてたんだけど、今そこが自由になったから、つまり危ない闘い方もできるようになったってこと」
「危ない闘い方って……」
「たとえばあれよ、肉を切らせて骨を断つ! みたいな」
「や、そんな怖いことになったら嫌だよ……」
「何にせよ、貴重な六子の運動試験……んにゃ貴重なのは、むしろ相手か。まさに試し切り」
物騒なアクションを交えて話す旭を見て、周は口を尖らせる。
「もう……怖いって」
「にしても六子がいないと、ちょっと寒いね」
「窓、開いてるから……」
「あっ、それもあったか」
短く間を空け、周は首を捻った。
「あったか? 暖かいの?」
「んにゃ、あったかいって意味じゃなくてだね……」
「ふふ……知ってるよ」
*
六子は裏口から出て、ガラスを包んだカーペットを道具棚の側に置いた。
そしてクルマの横を進み、ダイニングからの光が落ちる一帯へ足を踏み入れた。
待ち構えていた相手の姿は、そうした上からの順光で、はっきり確認出来た。
相手を円の中心点にして、六子は一定の距離をもったまま歩き続ける。
『驚いた……』
「何に?」
不敵な、渋い声だった。
決して悪い印象を与えるような声質ではないが、その見た目との組み合わせでは、酷い不協和音に感じさせてしまうだろう。
『まさか、そんな格好だったなんて……』
「その様子だと、どうやらこの姿――」
大人気ゆるキャラ、くまっしーの着ぐるみを着た男が、ぐりっと上体を捻り、
「――気に入ったようだな!」
びしっ、と六子へ向けてポーズを決めた。身体を捻って腰に手を当て、あってはならないほどの凹みとくびれを見せつける――くまっしーの代表的なポージングのひとつだった。
やや気圧されたように、六子は足を止めた。
『むぅ……熊に似ている……けど、どこか違う。熊よりも断然――』
「しかしこっちこそ驚いたぞ! まさかあいつを送って寄越すとはな……まったく、どういうことだ! 説明しろ!」
憤慨も露に、ぶるんぶるんと身体を揺らすくまっしー。
『竜が手柄を立てたそうだったので、ちょうどいいから行かせてみただけ』
「まったく参ったぞ! こっちは六子さんが来るとばかり思ってたからほいほい近づいちゃって、気づいたらもう今にもバレそうな距離だったから泣く泣く絞め落としちゃったんだぞ!」
『あっそう。ところでなんでガラス割ったんですか?』
「な……もうこの話終わり? ガラスは……なんか、ただ投げる時に力が入り過ぎたんだよ」
『ふぅん、へたくそ。とにかく弁償だから』
「あ、はい……。あの、こっちも聞きたいんだけど、あいつ、何も知らないのか?」
『何も、って?』
「相手がオレだって事も知らないようだったし……」
『ああ、それは教えてないから』
「え……なんで?」
『あなたが妙に重装備だから、そのまま竜が相手に気づかないままノリとか勢いで闘ってくれたら面白いなー、と思って』
「ひ――ひどっ! そんな、闘うわけないだろう! こんな格好でまともに闘ったらまず負けるし、少なくとも六子さんとリベンジマッチする体力がなくなるし……もう!」
『だったら説得して闘わないようにすれば良かったのに。半分くらいそうなると思ってた』
「それも考えたけど、なんかあいつ相手が誰かも知らないみたいだしイチから事情説明すんの面倒だなーとか思いながら、とりあえず目潰ししてみたら意外と効き過ぎちゃって、まぁ、あとは流れでキュッとやっちゃったんだよ!」
『あっそう。……にしても、なんでそうまでして急いで六子と闘いたいの?』
「急いで……? まぁそれは結果的にそういう勢いになっただけだが……しかし、なぜ闘いたいかと聞かれたら答えはこうだ。男というのはな、時として自分を試さずにはいられない――そういう生き物なのさ!」
『あっそう』
「それ止めてくれないか……」
『あと、別に勢いでキュッとしなくても、逃げれば良かったと思う』
「逃げられるか! こんな格好だぞ、股下を見ろ! すぐ捕まるわ!」
『だからバレないように、そーっと』
「だから! ちょっとでも動いたら、あいつ気づくんだって! そういう敏感な年頃なの!」
『だったらそこまで近づかなきゃ良かったのに……』
「だからこっちは六子さんだと思ってたから……って六子さん、さてはワザと言ってるな?」
『そんなことより、名前……教えてくれませんか』
「あぁ、オレまだ名乗ってなかったか……オレは――」
『いえ、あなたではなく、その着ぐるみの名前です』
「――あ、そっち?」
微妙な風が吹いた。対峙する両者を、真横から照らす光。
と、ちょうどその光源の方――ダイニングから、デッキへと出てきた御苑生姉妹が、対峙する両者を視界に捉えた。
「うぇ……何だっけあれ」
と旭が眉をひそめて聞き、
「あ、くまっしーだ……」
周がちょっと嬉しそうにつぶやく。
「くまっしー、だ」
男が渋い声で言って、
『くまっしー……』
惚けたように反復する六子。
「……うん、予想以上に手応えアリだな。そんなに気に入った?」
ぐりんと首を傾げると同時に、しゅばっと交差した足の前後を入れ替えるくまっしー。
『そんな……こと、ありません……』
六子は湯気を出しながら、じろっと睨みつけた。
「ぐっ! ツンデレ攻撃か……やるな!」
胸を押さえて素早く後ずさるくまっしー。
観覧者の御苑生姉妹は、このあたりから、ずっと遠くを見る目になっていた。
「そんな攻撃があったとはな……。相変わらず手強い――が、しかーし!」
びしっ――と、数字の8にも似た、どことなく悩ましいポーズを決める。
「どうだ六子さん、それほどまで気に入った、このくまっしーが相手では、到底本気の力は出せまい……!」
『うぅ……汚い手を……!』
「汚い? ふっふふふ……なんとでも言え! 罵れ! そんなものはただのご褒美だ! さあ……今こそリベンジさせてもらうぞ……森で寝かされている、あいつの分もな!」
『あなたがやったんでしょ……。はぁ……正直六子は闘いたくないんですが……』
「この着ぐるみが欲しかったら、闘う事だ」
『では、そろそろもういいですか? ――仕留めても』
「効果覿面だな! ふふふ……しかしそう簡単にいくかな……?」
ゆら――と、くまっしーはふざけたポーズから脱力した直立の姿勢へと移った。
『当然。その格好なら、機動力はガタ落ちでしょうし』
空気の裂ける音。
六子は、予備動作もなく懐へ跳び込んだ。
『ほら遅い』
ズドッ――と、地面を陥没させて急静止した六子の掌底での突きが、くまっしーの胴体真ん中にメリ込んでいた。と、しかし、
「……ふふふ――」
半ば吹っ飛ばされながらも素早く身を引いて笑うくまっしー。ほぼ効いていない様子だ。
「――機動力は仕方ない。だが、失うものもあれば得るものもある、ということさ……」
とその時、だらんとしていたくまっしーの両腕が、またうねうねと動き出した。
『中でガードしたのか……』
「気色わる……」
旭がぽつりとつぶやいた。
「威力自体も甘かったが、中身だけにダメージがいくような攻撃方法だとわかっていれば読むのは容易い。このくまっしー、汚したり傷つけたくはないだろう?」
『――くっ』
「ほどほどに本気で来い。そんなフリフリなエプロンは外して」
『はぁ? やだよ、大事な衣装なんだから』
「そして出来ればそれをくれ。オレと嫁への土産にする。単に外すところも見たいしな……」
『むぅ、どうやら……無傷で倒すのは難しいのかもしれない』
「無視か……やるな! しかし、いいのか? このくまっしーに傷をつけても」
『――いや、違う』
六子は前髪を上げて視界を広げつつ、赤く煌めく瞳を曝すと、
『無傷を諦めるのは、六子のことです』
再びくまっしーへと向かって跳んだ。




