夜の森の中へ
俺は、一体何についてパニクっているんだ……。こんな時に!
しかし一歩進むごとに、頭は猛り狂ったように回転する――背中からの感触に押されて。
……周と初めて目が合った瞬間のこと――あの時は、一目見て女の子だと思った。だからこそ、お姫様だっこされていた俺の姿を目撃されたという恥ずかしさはひとしおだった。恥の炎が激しく燃え上がった。
しかし、周のその格好は女装だった。それを知って、かつてない種類の動揺を味わいながらも、お暇様だっこの目撃者としては女の子よりは男の子であった方がずいぶんダメージは緩和されるな――と、どこかありがたく感じてもいた。トータルして心理的には助かっていた。
あぁ……なのに……次々と思い浮かぶ周のシーン――。
走馬灯――これはもはや走馬灯のメカニズムではないのか。
「六子……」
と歩きながらアサヒが首だけ振り向いて言った。
見ると――青い目のロッコが、先ほどからまったく変わりない姿勢で固まっている。前髪はさらに少なくなっていた。あと三分の一ほどか……。
「アサヒさん、何でこんな……」
ドアを引き開けるアサヒへ向けて言いかけて、言葉も胸も詰まる――もしかしたら、特殊部隊クラスの攻撃を受けてるんじゃないのか? もしそうなら……。だめだ止めろ、悲観的すぎる。でも、一体何がどうなって……。
「わからない」
と、力無い言葉だが、真っ直ぐに目が合うだけで、すこし励まされた。
アサヒは素早い動きのまま先に入室していく。すぐに電気が点いた。
ベッドの上に周の服が載っていたので、あまり奥まで入らずにまず周を下ろす。
「あ、ありがとうございました……」
なんとなく頬を赤らめながら礼を言う周。萎縮したように身体を細くしている。
……もう、性別については確かめるまでもないな。とにかくわかったのは……あれだ、おんぶはダメだ、ということか……。うぅだめだ深く考えるな――はいはいパニックパニック。
「いえ、どういたしまして――ごめんなさい」
また謝ってしまった。
「な、なんで謝るんですか……しかも敬語で……」
周は弱々しく抗議の声を上げるが、緊迫した空気に霧消していく。悪いが無視だ、許せ。
「誰か入って来ないですかね? あとロッコは今どうなってんですか?」
前者は特に緊急性が高い。ロッコについては、少なくとも歌を聞き終えるまであの状態なのではないかと推測できる。にしてもこのタイミングの一致って……?
アサヒは携帯を頬に当てながら、
「灯にコール中、望み薄だけど。誰かって――窓から?」
口早に言う。――クルマの中でも思ったが、彼女たちにとってアカリという言葉は呪文のように効き目があった。その発声の仕方といい、耳にする瞬間のかすかな弛緩に似た安堵感といい、よほど頼られている人なのだろう。……あんな歌詞を作る人だけど。
「はい窓から――いや、他からでも、ですね」
二人の姿、この部屋の窓など防御しやすさのチェック、ダイニングのロッコ、その向こうに散ったガラス、と忙しく視線を振る。
誰かガラスを踏めば音でわかるし、たぶんロッコが反応すると思う――飛んで来たアレには反応したから。とはいえそれは確実でもないか……。
「んにゃどうだろうね。侵入すんならバレないようにするでしょ普通」
――そうか。さすがアサヒさん口調はさらに速いが落ち着いてるな。
こんな派手にガラスぶち破って……その狙いは――そう、相手の気持ちになって考えろ。
――やはり、まずロッコ絡みだろう。それ以外にこんな事あってたまるか。
ではロッコをどうする? 破壊? 奪う?
いや――どちらかなんて考える必要なし、どのみち許せない。
「――でロッコは今いわゆる読み込み中っつか聴き込み中か、最低限必要な事以外は機能が制限されてる状態」
「あれ聞き終わるまでですか?」
思わず口を挟んでしまう。バカ――その分コンマ何秒ロスだ。アサヒは薄く口を開けたまま待って、俺の言い終わりにピタリと被せつつ頷く。
「んで終わったら機能復帰。記憶も戻る」
ロッコの前髪は、かなり少なくなっている。
「この部屋鍵かかりますね?」
返事を待たずにドアを掴む、ちらとアサヒの頷くのを確認して、
「じゃ閉めててください俺ロッコに聞いてきますから」
ほとんど吐き捨てるような格好でドアを閉めて一歩、止まって、ガラス片を足の裏から取ってポケットに仕舞った。小さいのは無視して、足音をさせずにロッコへと歩み寄る。
と、ダイニングエリアに入る前に止まる。一応、射線に入らないようにしないとな……。さっきみたいに窓から何か飛んで来るかもしれない。最悪――銃弾とか。
となるとロッコの側まで行くのは控えるべきか……。直線距離で五メートル、しかしテーブルの角を挟んでいるため数字上よりすこし遠く感じる。
歌はもうすぐ終わる。このまま待つのもいいか……ちょうど御苑生姉妹の部屋とロッコとの中間点くらいだし、どちらにも数歩で跳んで行ける。そう……お金持ちなら、周を誘拐しに来たという可能性も考えられる。何にせよ放っては置けない。
前髪は、あと何本だ?
もどかしい――気味が悪いほど遅い時間の進み方だ。
まだ強い煙の臭い。落ち着いてきた聴覚に染みる歌声。バカな歌詞。ロッコの目。
――もし、この歌が終わってもロッコはこのまま動かなかったら……。それか、動いて喋るようになっても、もう今までのあいつとは違うあいつになってしまっていたら……。
なんだこれ。まったく――よくわからない不安だ。そんなこと心配してる場合か?
……まぁ、ちょっとは、そういう場合かも知れない。
「ったく、ちゃんと起きろよ……ロッコ……!」
最後の前髪の一本が上がっていくのを、思わず強く見つめてしまう。そして全て上がって、
カシュッ――と、
『――承認……』
前髪が全て一度に下りて、ロッコの白い額を隠した。
『蒸気機関(SLシステム)漸次制限解除、不働態より準不働態へ……』
瞳が点滅、数回――と、もう光らない。
突然――すっと動く。姿勢が真っ直ぐになった。
『ふぅ……良い歌だった』
「な、なにぃ……?」
思わず突っ込んでしまった……ひどい虚脱感だ。状況わかってんのか?
『やっぱり六子は声も綺麗だ』
「おい――大丈夫か!? イカれたのか?」
『それ、竜にだけは言われたくない……』
と瞬時に睨まれる。深々と下げた前髪のエッジの影から、心底見下すように……。
……腹が立つと同時に、ほんのすこし安堵してしまったのがなおさら悔しい。こいつ……憎たらしいほどロッコのままだ。もうすこし変わってても良かったのに……。
「ぐ――まぁいい今はそれどころじゃない。この状況わかるか?」
『状況……まぁ、だいたい』
「余裕だな――ってか余裕すぎるだろ。そんなとこにつっ立ってないでこっち来いよ……!」
『な、なんで……』
「いやなんでって、こちらこそなんでだ――その湯気は」
『竜、なんでそんなに圧が上がってるの』
「こんな時に上がらなかったらおかしいだろ……! いいから来い! こっちで話そう」
『むぅ――わかったよ。あ、レコードプレーヤー、一応キッチンに避難させとこ……』
なんでだ! と叫びかけたが、ロッコの動きは緊急時に相応しく、素早く滑らかだったので見過ごすことにした。
計算された足運びで、無駄無くキッチンを経由してこちらへ近づき、ゴドッと止まる。
「ちょっ――もう一歩こっち入って」
『な、なんだよもう……』
「とにかく今誰かに発煙筒撃ち込まれて――ってかお前キャッチしてたろ、覚えてるか?」
『うん――お前とか言うな』
「んなこと言ってる場合かって……!」
『あ、今もしかして焦ってるの? 竜』
「はぁ? んなもんハイパーテンパってますけど?」
『なんだ……今、そんな焦るような状況じゃないよ。だいじょぶ』
なだめるようなトーンが神経を逆撫でしまくるが、歯を食いしばって無理矢理聞き入れる。
「……じゃあ、どういう状況?」
『さっきのアレを放ってきた人は、まだ遠くで待機中。放ったあとすこし離れて、今六〇メートルくらいかな』
「な、なんでそんなこと……」
『人間大の生き物は今のところ、半径一キロ以内だとその一人だけ――つまり単独かな』
「いや、なんだよそれ。そういやクルマでも言ってたけど――レーダーか?」
『そんな感じ。もっと広域を調べようか? たぶん意味ないけど』
軽いな、軽すぎる……。がしかし、相手は一人だってわかっただけで僥倖だ。その上距離をとっている――なら逃げるのも容易かもしれない。早くクルマで――いや、待て、それは相手も見越してるんじゃないのか……? 道で待ち伏せ……最悪だと爆破とか……。
「それって、爆弾とか、そういうのはわかるか?」
『爆弾? どこに……? 無いと思うけど』
「思う、なんて曖昧じゃ困るな……道に仕掛けられてたらクルマごと全員アウトだからな……いや、それかクルマ自体に仕掛けてあるとか」
『クルマ……? あぁ、逃げるつもり? そんなことする必要は無いよ』
「いやなんで?」
「ウソなんで?」
と声を重ねたのは、背後でドアを細く開けて顔を出しているアサヒだった。鍵閉めてろって言ったのに――この人も実は緊張感ないのか……。
「アサヒさん、いつから――」
「最初から! 六子の勇姿は全て見たぜ」
親指を立てて誇らしげなアサヒ……。もういいや、とにかくロッコへ向き直る。
「なんで逃げなくていいって?」
『そういう――そんな危ない相手じゃない』
「いや危ないだろ! アレだぞ? あんなことになって……」
『六子は、戦力的な意味で言ってるの。たとえば竜でも一人で勝てるんじゃないかな』
ドク――と一拍、全身に熱いものが走った。
「は……? なんだよそれ」
『あと六子は、旭と周を守るために、ここを動くわけにはいかない』
「はぁ……。あー、そういうこと言うか。はははっ……いや、笑っちゃいけないけどな。でも――なんでそんな相手の戦力なんてわかるんだよ」
『六子だから』
すごい即答。強烈にふてぶてしい――ちょっとクラッとする。
「ふざけた話だ……もう、やけくそ信じるけどさ。あ、そうだ俺の弓とかは……外だっけ?」
『いや、六子の部屋にある』
「じゃ行こう――案内してくれ」
どっちの方向にあるのかと首を振っていると、ロッコは軽く手を上げて制した。
『あんな武器は持って行かないほうがいい。相手を刺激しちゃうし』
「いやっ刺激すんのはわかるけど、でも武器なしでいいって……どういうことだよ」
『相手は丸腰だから』
「う……おい……マジか」
相手が丸腰だって事もわけわからんけど、ロッコのレーダーも反則的なほど異常な感度らしい。めちゃくちゃだ……。
「うそだろ、丸腰って……てか、よくそんなことまでわかるな」
『うん。でもまあ小さいナイフくらいなら持ってるかもしれない』
「どういうことだ……? そんなんで何しに来たんだよそいつ」
『知らない。竜が聞いて来なよ』
と――目を見ながら、また身体が熱くなるようなことを言う。
「ちょっとそれ竜くん危なくない? どんな奴かわからないのに……」
と背後からアサヒが口を挟む。ちらとそちらへ振り返って、
「なら、どんな奴か見て来ますよ」
そしてまたロッコを正面から見据える。
「確認するぞ。敵は一人、闘えば俺でも勝てる」
ロッコがゆっくりと頷くのを見て、続ける。
「ロッコはここで二人を守る……それで絶対、安全だな?」
『当然』
と今度は声も返ってきた。必要以上に頼もしくて腹立たしいほどだ。
「それで、敵はまともな武器を持っていない。位置は今……どこだ?」
ロッコは割れた窓の方向へ片手を広げた。人でも紹介するかのように気軽な仕草だった。
『ずっと変わらず。あっちの方向へ六〇メートル――道の横、森に入ったとこだね』
「動き、なし……? 不気味だな――まぁどういうつもりか聞けばいいけど」
『うん、まあ適当に気をつけて』
とロッコは平和な感じで見送りの挨拶。思わずそのまま歩き出そうと身体が動いてしまう。
「ちょっと待て――今時間ないからアレだけど、えっと……」
『なに? 時間ないならすぐ言えよ』
「あの、なんでそんな、はっきり俺が勝てるって――その根拠は?」
『根拠……? 六子がそう言ってる、っていうだけじゃ不足かな』
一瞬、意味を掴むまでタイムラグがあったが、揺るぎなく自信満々なのは伝わっていた。
こいつ……一体どれほど……。――ため息が、妙に震えた。
「まぁ、なるべく穏便に行きたいな。あと、さ――ロッコ、記憶とか、今どう?」
『記憶は……思ったより面白いよ。後で詳しく話そうか』
「面白い、って……」
『竜――』
と、強く名前を呼ばれた。そして気圧されそうな視線。
『――六子と、良いタイミングで会えたね』
「なんだ……それ」
『なんでもない――今のところは、ね』
「わけわかんねぇ……もう行く」
胸が熱すぎて、その場に居られなかった。逃げるように一歩進みかけると、
「ちょとそっちガラスが――こっちにも階段あるよ竜くん!」
「あ、ども……」
なんだか締まらないのだった。
裸足のまま玄関から外へ出て、急いで自分の服に着替えた。汚れたり動いたりするには、断然こっちの方がいい。全体的にまだ生乾き――特にブーツはずいぶん湿っぽい状態だったが、仕方ない。さすがに、軽く怪我までしている裸足では、機動力がいまいちだし格闘になったら分が悪い。
「あーもう紐めんど臭いな……!」
外されていた靴紐を戻す人生最速タイムを目指すチャレンジは、不満の残る結果となった。
素早く立って、数回、片足ずつ跳ねる。踏み込む感覚はまずまず。チクチクと嫌な痛みはすぐに慣れた――ということにする。
「よし……思ったより時間食っちゃったな、相手まだ動いてないといいけど――」
星が輝き始めたナイトブルーの空の下、森は黒々として重そうに沈んで見えた。
『おい』
と、後方の頭上から呼びかける声。見るとロッコがデッキに出てこちらを見下ろしていた。
『まだ動いてないよ』
腕で方向を示しながら教えてくれた。それはありがたいけど、いつからそこに……?
「あ、そう。いつから……まぁいいや」
『では六子は、ガラスを片付けてるから。竜早く行って来て』
軽く言ってくれる。買い出しに行くパシリじゃないんだから……。
「あぁ、すぐに戻る――万一危なくなったら、そこ頼む」
『うん』
頷き、明るい部屋へ戻りかけるロッコ。その姿から目を逸らし、森に向かって歩き出す。
細く固い舗装路を踏みしめて進む。
――一体、相手はどういうつもりなのか。イタズラ? そんな平和なことだろうか……なんとなくだが、もっと強い能動的な意思がありそうだ。
そして、どういうソースから来た? ……その方向から考えると、どうにもアカリという言葉が浮かぶ。こうもわけのわからない事態だから、共通性を感じてしまうのかもしれない。
不確定、未確認、というような共通性だ。
とにかく、わからない――その不気味さだけが頭の中で煙のように膨らみ、広がっていく。
恐怖――一瞬だけ、身体がその信号を発した。思わず苦笑い。チクリとした足の裏の痛みが錯覚を引き起こしたようだ。
「そろそろ六〇メートル、か……」
自分の頭部の内側にだけ届く小声でつぶやいた。聴覚は、今にも風に紛れ込むかも知れない相手の放つ音だけを探している。
足音を殺しながら、道から外れて森に入った。
視界は限りなく頼りない。すぐ手を触れられる隣の幹の裏側さえ疑わしい。
だからこそ、耳を澄ませていた。そこへさらに、皮膚の全てをセンサーとして参加させるような感覚だ。
気配――空気の振動――音は、全方位を視ることができる。決して光に劣る存在ではない。
――こういう感覚方面の鍛錬は、どちらかと言えば好きだし得意だった。しかし暗い中での格闘訓練となると……あまり数もこなしておらず、不得手な方ではある。
「あのぉー――」
と声を放ち、じっと反応を待つ。
出来れば、話し合いで終われば良い。しかし返事はない……数歩、さらに奥へ進む。
「誰かー、誰かいますかー――!」
暗い中で闘うなんて――なんだか綺麗じゃない。そんな状況になってしまうこと自体が。
そういう言い訳を、考え出したことがあった。つい今も考えてしまっている。
闘いに対して、そこまで潔癖でもないクセに……。
気配――近い音、四時方向、カチッ――
振り向いた瞬間に刺された――白い、強い光。
「う――」
音はスイッチの――懐中電灯か! ネガのような暗い視界が一転ホワイトアウト、瞳孔が一気に絞られ今は真っ暗――もうしばらく用を成さないだろう。
安物じゃなくて本格的な懐中電灯……強烈だなクソ! 顔向けて点けんなよそんなもん! しかもそう、点灯のタイミングも絶妙に不運だった。
ちょうどこちらが反応して振り向いた瞬間に――待て、もしかして狙って?
光を放つ瞬間に見えた相手のシルエットが脳裏に焼き付いている。デカイ――何だか、ふざけた印象があった。まさか、重装甲歩兵か?
――いや、もっとなめらかなアウトラインだった。でなきゃ――そんなミリタリー全開な相手だったらもう蜂の巣でもおかしくない、ってのは大げさか。
絶望的に暗い。手近な幹にすがりついて、相手を正面に捉える。朧げながら見えた――やはり、デカイ、というより……まるっこい――着ぐるみ?
「ちょっ、なん――」
音――何かが落ちて、直後、
「っ――!」
膝に衝撃。体勢が崩れ――まずい、この的確な攻め――懐中電灯を落として注意を逸らし、体勢を崩す痛打……何だよ、マジだぞこの相手。
油断する余裕ないな――なんて気を引き締める間もなく、
「がっ……!」
俯せに地面へ押し倒され、先に肺が引き締まる。
次いですぐ首に太いものが巻きつく感触が襲って――――




