4
この日の目覚めは珍しかった。僕は朝に弱い。朝の合図でもある鳥の鳴き声を無視し、いつも通り寝台の上で藻掻きながら浅い眠りを繰り返していた時、扉からノックが聞こえた。ゴースだろうか、何か用事でもあるのかなと思いながら寝ぼけた頭のままで扉を開いた。
「おはよ、アイ……って、うわあ。朝弱いのってホントだったんだね……」
「ああ、なんだグレースか。珍しいね。部屋まで来るなんて。どうしたの?」
寝癖がついた頭を手櫛で軽くとかしながら聞いた。早朝とまではいかずとも日が昇ってからまだそう経っていない。にも関わらずグレースは普段通りの元気の良さである。そこは僕も見習わなければいけないだろう。
「いや、大した事じゃないんだけど。昨日、靴届けてくれたでしょ? だから今日はそのお礼にどうかな、って。ゴースに聞いたら今日は良いって言ってくれたし」
「ああ……その事か。別に気を使わなくてもいいのに」
「私がしたいから良いのっ。それで、どうかな? もしアイが良いならこれから出かけない?」
「構わないよ、って言うか、僕がお願いする側なんだけど。ああ、でも少しだけ待ってもらえる? 準備しなくちゃいけないから」
「ん、わかった。じゃあ下で待ってるね」
「了解。十分くらいで済むと思うから」
扉を閉めて、彼女が軽快に階段降りる音を聞いてから行動を開始した。まさかこんな事になるとは想っていなかったので勿論、何の準備もしていない。部屋に備え付けてある洗面台で身なりを確認。改めてだらしないと思いつつ冷たい水で顔を思いっきり叩いた。目覚めの悪いは僕はこうでもしないと眼が覚めないのだ。
すっかり枝毛になってしまった歯ブラシを口に加えつつ、寝間着から普段着へと着替え、脱いだ服を籠へと投げ捨てる。ここまでおよそ二分。
再び鏡へ向かい歯磨きを続行。その間にも片手で寝癖を直している。それが終わったら今度は薄手の上着を羽織った。気温は春先とはいえ朝方と夕方は少し冷える。
最期にガイさんに作ってもらった革製の鞄を肩にかけ、部屋全体を見渡した。
「忘れ物は……ないね、っと」
最期の確認を終え、ドアノブを捻り外へ出る。一階はゴースの工房になっているので、おそらくグレースはその一角にいる筈だ。
木造の軋む階段を踏みしめ、身を屈めながら彼女の姿を確認する。
「待たせたね。行こうか」
「わっ、相変わらず準備は早いねー。あの様子だと、もうちょっとかかると思ってたけど」
「人を待たせる訳にはいかないからね。急いだんだ」
「そういうのは君の良い所だけど、もうちょっと早起きした方がいいよ」
「善処するよ」
「もうっ。そうやっていつも流す!」
「まあまあ。それで、今日はどこに?」
「うん。ちょっとね。東に行きたいんだけど、良いかな?」
「今日は君に任せるよ」
「決まり! それじゃあ行こっか!」
「じゃあ、ゴース。悪いんだけど……」
「構わない。たまには羽を伸ばしてくると良い」
「うん、ごめん。夕方までは帰るから」
跳ねるように外を出ていくグレースを見ながら背後のゴースに一言。低い声音と切れ長の双眸が優しく返事をしたのを確認し、僕も彼女の後を追った。
〆
この時間に外を歩いた事が中々なかったせいか、朝の空気というものは新鮮だと感じた。
とは言っても、お店はもう開いている時間帯。東側では徐々に活気が溢れてきている。彼女とと共にここへ来たのは幾度目かだが、まだまだ見た事のないお店も沢山ある程広く、種類も多い。
今回はその東側の一角。生地や糸などの繊維品を扱うお店に来ていた。
「んー……」
似たような色(僕には白と薄い黄色にしか見えない)の生地を横に並べて視線を映しながら見比べているグレースを見ていた。筒に巻かれている、切る前のバームクーヘンみたいなものだ。あまりに真剣な表情だったのでどっちも同じに見えるなあ、なんて事は勿論言えない。そう言えば前に聞いた話では、男性よりも女性の方が色彩感覚が優れているとか何とか。
「どっちにしようかなー」
「どうしたんだい?」
「んーとね、今度服を作るんだ。ほら、さっき通ってきた所に洋服屋さんあったよね? あそこの店主の人に作り方を教わりに行くんだけど、生地は自分の好きな色を選んで良い、って言われたから」
「ああ、なるほど。それで材料を見繕っていると」
「そそ。それでどうしようかなーと思って今悩んでたんだけど……」
そして彼女は再び二種類の生地に視線を落とした。適当な事を言うのは止めとこうと思って助言は控えていた僕だったが、
「アイはどっちが良いと思う?」
――来たか。
「これは君が着る服、だよね?」
「そうだよー」
だとすると彼女に似合う色、という事になる。
ちらりとグレースを見てみる。海と空を混ぜたような、鮮やかな蒼色の毛髪と瞳。顔立ちは大人びているとは言えないだろう。歳相応というよりかは幼さが若干目立つ。そういう意味ではこの淡い黄色の方が似合うのかもしれないが……個人的に、この綺麗な蒼色に余計なものを含ませたくはない。とするのなら、
「僕はこっちの方が良いと思う」
手にとったのは、白い生地。よく見れば薄っすらと花柄の模様が浮かび上がっていた。
とは言ってもこれはあくまで僕の意見。彼女がどちらを選ぶのかは彼女自身に任せるつもりだった。
「んー……うん、わかった! これにしよ!」
「へ? いいの?」
「うん。君が選んでくれたのなら。それに私もこっちがいいかなあ、なんて持ってたしね」
それじゃあ買ってくるね、なんて言って布を抱きかかえて颯爽と会計へと向かうグレース。やっぱり僕なりに真面目に考えて良かった。
それから暫く彼女の機嫌はすこぶる良かった。それはもう、いつも以上に。その後はグレースが評判のお店があるという事で昼食をとったり、時計と靴を届けたお礼だと言って僕に財布を買ってくれた。最初にゴースから貰ったものだから段々破けてきたし、丁度良かったけどそんなに気にしなくても良いのに。
そして時間は過ぎ去り――気づけば島は夕暮れに照らされる時刻になっていた。
「一日中君といたのは初めてだねー」
人々を縫うように聞こえてきた喧騒も、今では小さくなっている。西側の街道、橋の欄干で両手でバランスを取りながら跳ねるよう歩く彼女はそう呟いた。
「そうだね。いつもは何だかんだ言ってお昼からが多かったから」
それに回数こそ多いが、それ程長い時間を共にできた事はなかった。そのせいか今日だけでも彼女の事をかなり知る事ができたと思う。
おっとっと、と言いながらふらつく彼女を見て、危ないから降りなよと言ったけど彼女はスリルがあるからこそ良いんだと言って止めようとしない。
「確かに刺激はないだろうね」
恐れるものなど何もないと言わんばかりに、グレースは足元の悪い欄干でスキップをする。
「それが不満かい?」
「……そんな事は、ないと思う。私は今に満足してるんだ。でも、それじゃいけないのかもしれないな、って」
「僕は満足している。棚から牡丹餅だったけど、結果的には。それにそんな意味は必要ないと教えてくれたのは君だろう?」
「うん、そう……だよね」
妥協と諦めをただ繰り返しただけの僕には、彼女が何に悩んでいるのか察する事はできない。それでも、神妙な面持ちで顔を伏せている彼女を見たら、これでいいじゃないかとはとても言えなかった。
でも、そうだとすればグレースは何が欲しかったのだろう。
僕は“ここ”にいて、“彼女”がいればそれで良いと思っていた。彼女はそれでは不満なのだろうか。それを悪いと言うつもりないないけれど、僕にはそれが不思議で仕方がなかった。
「でもきっと、君のそれはきっと良い事だよ。進む事を止めてしまったら、それが本当の終わりだ。今に満足しない向上心は“ここ”では大切な事だろうしね」
橋の最後まで来て欄干の途絶えたグレースに、僕は手を差し伸べた。
「段差に気をつけて」
我ながら紳士的な対応ができたのでは、と思ったけど彼女は僕の掌を見てぽかんとしていた。これは何か間違えたかもしれない。
「……ぷっ、ふふふ。らしくないね」
「うるさいな、僕だって恥ずかしいのを我慢してやってるんだよ」
「じゃあやらなきゃ良いのに。……でも、ありがと」
僕を手を握ってぴょんと降りたグレースはこちらを見て、いつも通りの笑顔を向ける。
「ここに来てからもう結構経つけど、すっかり慣れてきたねー」
「男子三日会わざれば刮目して見よ、って言うよ」
「ふふ、ほんと。頼もしくなったよ。少し寂しいけどね」
夕日を背に、彼女は満足気に微笑んだ。
この瞬間がいつまでも続けば良いと願った。勝者の賛美も、敗者の慰みもいらない。ただそれだけがあれば良いと。本当はこの時に気づいていれば彼女を……僕らを苦しませずにはいられたのかもしれない。
それでも、遠回りをしたからこそ見られたものもある。今はそう思えるし、そう思いたい。彼女と共に歩んだあの季節は決して無駄なものじゃなかったのだと胸を張って言うために。
これはそんな僕らが過ごした四季折々の日々。
何物にも代えがたい奇跡の欠片だった。