私は灰色でいいから。
何もかもが中途半端で未熟な人がいる。
私だ。
何においても日和見主義で無価値な人がいる。
私だ。
黒にも白にもなりきれない、染まれない人。
私だ。
そう、そうやって生きてきた。
つまり私は怖いんだ。
自分の限界を知るのも、
努力が水の泡になるのも、
誰かに嫌われるのも。
大人になった。
なっても、ずっと変わらない。
自分で壁を作っておいて、
他人から壁を作られると故障する。
誰かを特別にする勇気もないのに、
誰かに特別にされたいなんて考えている。
自分からは話しかけることもできないのに、
話しかけられないと悲しむ。
こんな私を誰が、
選んでくれるというのだろう。
夜になる。
外を歩いていた。
群衆を見ると、様々な人が歩いている。
一人、二人、三人。
怖くないのだろうか。
一人でいるのも、
誰かといるのも。
一人の孤独も、
集団の中の孤独も、
もしかして私だけが抱えていて、
この感情は誰にも理解されないのか。
違うと言い聞かせる。
考えすぎると気味の悪い、
まるで胸の中から虫が湧き出るような気分になる。
交差点の前で立ち止まった。
信号は赤だった。
目の前には、
私と同じように信号を待つ人がいた。
誰かと電話している人。
恋人らしき人と手を繋いでいる人。
イヤホンをつけている人。
俯いている人。
笑っている人。
無表情な人。
それぞれがそれぞれの人生を持っていて、
それぞれがそれぞれの色を持っているように見えた。
赤。
青。
白。
黒。
黄色。
透明。
私だけが、灰色だった。
私だけが、何もないように見えた。
そう思った瞬間だった。
信号が、赤のまま止まった。
いや、違う。
止まったのは信号だけではなかった。
車も。
人も。
風も。
ビルの明かりも。
コンビニの自動ドアも。
誰かの笑顔も。
誰かの涙も。
全部が全部、止まっていた。
音が消えた。
世界から、
何か大切な線だけを抜き取ったみたいに、
すべてが静かだった。
え?
声を出した。
自分の声だけが、
妙に大きく響いた。
私は周りを見渡す。
誰も動かない。
誰も瞬きしない。
誰も私を見ない。
いつもならそれを望んでいたはずなのに、
誰にも見られない世界は、
思っていたよりも怖かった。
その時、足元で何かが動いた。
猫だった。
痩せてもいない。
太ってもいない。
綺麗でも汚くもない。
どこにでもいそうで、
どこにもいなさそうな猫だった。
猫は私を見上げた。
そして、
まるで最初からそうする予定だったように、
横断歩道を渡り始めた。
信号は赤のままだった。
車は止まっている。
人も止まっている。
猫だけが、
当然のように歩いていく。
私は少し迷って、
それから猫の後を追った。
赤信号を渡るなんて、
大したことではないのかもしれない。
それでも私にとっては、
小さな犯罪みたいだった。
横断歩道の白い線を踏む。
一歩。
二歩。
三歩。
誰にも怒られない。
誰にも見られない。
誰にも責められない。
それなのに、
胸の奥はひどくざわついていた。
猫は振り返らなかった。
私は猫についていった。
止まった街を歩いた。
コンビニの前には、
おにぎりを手に取ったまま止まっている人がいた。
その人の指は、
鮭と昆布のあいだで迷っていた。
くだらないことだと思った。
けれど、
その迷いの形が、少しだけ私に似ていた。
駅前には、
誰かに電話をかけようとしている人がいた。
画面には、
発信ボタンの前で止まった指があった。
かけたかったのだろうか。
かけたくなかったのだろうか。
会いたかったのだろうか。
会うのが怖かったのだろうか。
分からない。
だけど、
その人の顔は少しだけ苦しそうだった。
私はその人を見て、
勝手に思った。
この人も、
何かを選ぶのが怖かったのかもしれない。
公園には、
ベンチに座っている女の人がいた。
片手に缶コーヒー。
もう片方の手にはスマートフォン。
画面には、短い文章が打たれていた。
ごめん。
それだけだった。
送る前に止まったのか。
消す前に止まったのか。
それも分からない。
私は画面から目を逸らした。
他人の心なんて分からない。
分かったふりをした瞬間に、
それは暴力になる気がした。
それでも。
それでも私は、
初めて少しだけ思った。
私だけではないのかもしれない。
何かになれないまま、
何かを選べないまま、
何かを怖がったまま、
それでも歩いている人がいるのかもしれない。
みんな色を持っているように見えた。
ちゃんと赤く、
ちゃんと青く、
ちゃんと白く、
ちゃんと黒く、
生きているように見えた。
でも本当は、
街の明かりがそう見せていただけなのかもしれない。
夜の中では、
誰もが少しずつ灰色なのかもしれない。
猫は公園の噴水の前で止まった。
水も止まっていた。
跳ね上がった水滴が、
空中に浮いたままだった。
私はそれを見つめた。
落ちることもできず、
戻ることもできず、
空中で固まっている水滴。
それが、
ひどく自分みたいだった。
「あの」
猫に話しかけた。
猫は返事をしなかった。
「私は」
言いかけて、
言葉が喉の奥で絡まった。
何を言えばいいのか分からなかった。
私は悲しい。
私は怖い。
私は寂しい。
私は誰かに選ばれたい。
私は誰かを選ぶのが怖い。
私は何者にもなれない。
私は変わりたい。
私は変わるのが怖い。
言葉はいくらでもあった。
ありすぎて、
どれも本当ではない気がした。
猫は噴水の縁に飛び乗った。
毛が、
夜の中で少しだけ光っていた。
白でも黒でもない。
汚れているわけでも、
濁っているわけでもない。
ただ、灰色だった。
私はその猫を見て、
ふと、おかしなことを思った。
この猫は、
自分が灰色であることを、
悩んだりするのだろうか。
黒猫になれなかった。
白猫になれなかった。
きれいな模様にもなれなかった。
そんなふうに、
自分を責めたりするのだろうか。
たぶん、しない。
猫は猫として、
ただそこにいる。
そこにいることに、
許可とか権利とか必要ないみたいに。
私は少し笑った。
笑ったと言っても、
誰かに見せられるようなものではなかった。
口元が少しだけ歪んだだけ。
それでも、
その笑いは私の中から出てきた。
誰かに選ばれたからでも、
誰かに褒められたからでもない。
ただ、
灰色の猫が灰色のままそこにいたから。
それだけだった。
猫は噴水から降りた。
そして、また歩き出した。
私は追いかけようとした。
けれど、
今度は足が動かなかった。
猫は一度だけ振り返った。
その目は、
私を誘っているようにも、
置いていこうとしているようにも見えなかった。
ただ、見ていた。
私はそこで分かった。
この猫は、
私を救いに来たわけではない。
何かを教えに来たわけでもない。
きっと、ただ歩いていただけだ。
私が勝手についていって、
私が勝手に考えて、
私が勝手に少しだけ分かった気になっているだけだ。
でも、それでよかった。
誰かに救われることばかり考えていた。
誰かが私を見つけてくれて、
誰かが私を選んでくれて、
誰かが私に意味を与えてくれて。
そんな都合のいい奇跡を、
心のどこかでずっと待っていた。
だけど、
奇跡が起きても、
私は私の足でしか歩けない。
誰かが手を差し伸べてくれても、
それを掴むのは私だ。
誰かが名前を呼んでくれても、
返事をするのは私だ。
誰かが私を好きだと言ってくれても、
それを信じるかどうかは私だ。
怖い。
やっぱり怖い。
怖くなくなるわけではない。
何色にもなれない自分を認めるのも。
何かを選ぶのも。
選ばれなかった時に傷つくのも。
それでもまた歩くのも。
全部怖い。
猫は路地の向こうへ消えた。
同時に、
風が戻った。
噴水の水滴が落ちた。
車の音がした。
誰かが笑った。
信号が青になった。
街が、
何事もなかったみたいに動き出した。
私は公園の真ん中に立っていた。
誰も私を見ていない。
それはいつもと同じだった。
だけど、
少しだけ違っていた。
私はポケットからスマートフォンを取り出した。
画面には、
ずっと送れないままの文章が残っていた。
元気?
たったそれだけの文章だった。
くだらない。
重くもない。
軽くもない。
意味があるようで、ないような言葉。
でも私には、
それを送ることがずっと怖かった。
変に思われるかもしれない。
迷惑かもしれない。
返事が来ないかもしれない。
返事が来たら来たで、
私はまた何かを間違えるかもしれない。
そうやって、
私は何度も消してきた。
私は画面を見つめた。
指が震えていた。
震えていることが、
恥ずかしかった。
けれど、
その震えを止めようとは思わなかった。
怖いままでいい。
震えたままでいい。
灰色のままでいい。
私は、
送信ボタンを押した。
すぐに後悔した。
胸が苦しくなった。
逃げ出したくなった。
スマートフォンを投げ捨てたくなった。
だけど、
私はそこに立っていた。
何も起きなかった。
世界は終わらなかった。
誰かが私を笑うこともなかった。
急に私が変わることもなかった。
私は相変わらず私のままだった。
中途半端で、
未熟で、
臆病で、
灰色で。
それでも、
送った。
ただそれだけのことだった。
たったそれだけのことが、
私には必要だった。
私は空を見上げた。
夜明け前の空は、
黒でも白でもなかった。
灰色だった。
いつだって分かっていたつもりだった。
けれども、やっと本当の意味で分かった気がする。
私に必要だったのは、私の中でぐるぐると繰り返す恐怖を身につけることだった。
見ないようにしたり、考えないようにしたり、そうしたって何も変わらない。
簡単に人は変わらない。
それでも、変わろうとする勇気を持つことがどれだけ大切か。
どれだけ、必要なことなのか、身に染みた。




