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私は灰色でいいから。

作者:
掲載日:2026/06/14

何もかもが中途半端で未熟な人がいる。

私だ。


何においても日和見主義で無価値な人がいる。

私だ。


黒にも白にもなりきれない、染まれない人。

私だ。


そう、そうやって生きてきた。


つまり私は怖いんだ。


自分の限界を知るのも、

努力が水の泡になるのも、

誰かに嫌われるのも。


大人になった。


なっても、ずっと変わらない。


自分で壁を作っておいて、

他人から壁を作られると故障する。


誰かを特別にする勇気もないのに、

誰かに特別にされたいなんて考えている。


自分からは話しかけることもできないのに、

話しかけられないと悲しむ。


こんな私を誰が、

選んでくれるというのだろう。


夜になる。

外を歩いていた。


群衆を見ると、様々な人が歩いている。

一人、二人、三人。


怖くないのだろうか。


一人でいるのも、

誰かといるのも。


一人の孤独も、

集団の中の孤独も、

もしかして私だけが抱えていて、

この感情は誰にも理解されないのか。


違うと言い聞かせる。


考えすぎると気味の悪い、

まるで胸の中から虫が湧き出るような気分になる。


交差点の前で立ち止まった。


信号は赤だった。


目の前には、

私と同じように信号を待つ人がいた。


誰かと電話している人。

恋人らしき人と手を繋いでいる人。

イヤホンをつけている人。

俯いている人。

笑っている人。

無表情な人。


それぞれがそれぞれの人生を持っていて、

それぞれがそれぞれの色を持っているように見えた。


赤。

青。

白。

黒。

黄色。

透明。


私だけが、灰色だった。

私だけが、何もないように見えた。


そう思った瞬間だった。


信号が、赤のまま止まった。


いや、違う。


止まったのは信号だけではなかった。


車も。

人も。

風も。

ビルの明かりも。

コンビニの自動ドアも。

誰かの笑顔も。

誰かの涙も。


全部が全部、止まっていた。


音が消えた。


世界から、

何か大切な線だけを抜き取ったみたいに、

すべてが静かだった。


え?


声を出した。


自分の声だけが、

妙に大きく響いた。


私は周りを見渡す。


誰も動かない。

誰も瞬きしない。

誰も私を見ない。


いつもならそれを望んでいたはずなのに、

誰にも見られない世界は、

思っていたよりも怖かった。


その時、足元で何かが動いた。


猫だった。


痩せてもいない。

太ってもいない。

綺麗でも汚くもない。


どこにでもいそうで、

どこにもいなさそうな猫だった。


猫は私を見上げた。


そして、

まるで最初からそうする予定だったように、

横断歩道を渡り始めた。


信号は赤のままだった。


車は止まっている。

人も止まっている。


猫だけが、

当然のように歩いていく。


私は少し迷って、

それから猫の後を追った。


赤信号を渡るなんて、

大したことではないのかもしれない。


それでも私にとっては、

小さな犯罪みたいだった。


横断歩道の白い線を踏む。


一歩。

二歩。

三歩。


誰にも怒られない。

誰にも見られない。

誰にも責められない。


それなのに、

胸の奥はひどくざわついていた。


猫は振り返らなかった。


私は猫についていった。


止まった街を歩いた。


コンビニの前には、

おにぎりを手に取ったまま止まっている人がいた。


その人の指は、

鮭と昆布のあいだで迷っていた。


くだらないことだと思った。


けれど、

その迷いの形が、少しだけ私に似ていた。


駅前には、

誰かに電話をかけようとしている人がいた。


画面には、

発信ボタンの前で止まった指があった。


かけたかったのだろうか。

かけたくなかったのだろうか。


会いたかったのだろうか。

会うのが怖かったのだろうか。


分からない。


だけど、

その人の顔は少しだけ苦しそうだった。


私はその人を見て、

勝手に思った。


この人も、

何かを選ぶのが怖かったのかもしれない。


公園には、

ベンチに座っている女の人がいた。


片手に缶コーヒー。

もう片方の手にはスマートフォン。


画面には、短い文章が打たれていた。


ごめん。


それだけだった。


送る前に止まったのか。

消す前に止まったのか。


それも分からない。


私は画面から目を逸らした。


他人の心なんて分からない。

分かったふりをした瞬間に、

それは暴力になる気がした。


それでも。


それでも私は、

初めて少しだけ思った。


私だけではないのかもしれない。


何かになれないまま、

何かを選べないまま、

何かを怖がったまま、

それでも歩いている人がいるのかもしれない。


みんな色を持っているように見えた。


ちゃんと赤く、

ちゃんと青く、

ちゃんと白く、

ちゃんと黒く、

生きているように見えた。


でも本当は、

街の明かりがそう見せていただけなのかもしれない。


夜の中では、

誰もが少しずつ灰色なのかもしれない。


猫は公園の噴水の前で止まった。


水も止まっていた。


跳ね上がった水滴が、

空中に浮いたままだった。


私はそれを見つめた。


落ちることもできず、

戻ることもできず、

空中で固まっている水滴。


それが、

ひどく自分みたいだった。


「あの」


猫に話しかけた。


猫は返事をしなかった。


「私は」


言いかけて、

言葉が喉の奥で絡まった。


何を言えばいいのか分からなかった。


私は悲しい。

私は怖い。

私は寂しい。

私は誰かに選ばれたい。

私は誰かを選ぶのが怖い。

私は何者にもなれない。

私は変わりたい。

私は変わるのが怖い。


言葉はいくらでもあった。


ありすぎて、

どれも本当ではない気がした。


猫は噴水の縁に飛び乗った。


毛が、

夜の中で少しだけ光っていた。


白でも黒でもない。


汚れているわけでも、

濁っているわけでもない。


ただ、灰色だった。


私はその猫を見て、

ふと、おかしなことを思った。


この猫は、

自分が灰色であることを、

悩んだりするのだろうか。


黒猫になれなかった。

白猫になれなかった。

きれいな模様にもなれなかった。


そんなふうに、

自分を責めたりするのだろうか。


たぶん、しない。


猫は猫として、

ただそこにいる。


そこにいることに、

許可とか権利とか必要ないみたいに。


私は少し笑った。


笑ったと言っても、

誰かに見せられるようなものではなかった。


口元が少しだけ歪んだだけ。


それでも、

その笑いは私の中から出てきた。


誰かに選ばれたからでも、

誰かに褒められたからでもない。


ただ、

灰色の猫が灰色のままそこにいたから。


それだけだった。


猫は噴水から降りた。


そして、また歩き出した。


私は追いかけようとした。


けれど、

今度は足が動かなかった。


猫は一度だけ振り返った。


その目は、

私を誘っているようにも、

置いていこうとしているようにも見えなかった。


ただ、見ていた。


私はそこで分かった。


この猫は、

私を救いに来たわけではない。


何かを教えに来たわけでもない。


きっと、ただ歩いていただけだ。


私が勝手についていって、

私が勝手に考えて、

私が勝手に少しだけ分かった気になっているだけだ。


でも、それでよかった。


誰かに救われることばかり考えていた。


誰かが私を見つけてくれて、

誰かが私を選んでくれて、

誰かが私に意味を与えてくれて。


そんな都合のいい奇跡を、

心のどこかでずっと待っていた。


だけど、

奇跡が起きても、

私は私の足でしか歩けない。


誰かが手を差し伸べてくれても、

それを掴むのは私だ。


誰かが名前を呼んでくれても、

返事をするのは私だ。


誰かが私を好きだと言ってくれても、

それを信じるかどうかは私だ。


怖い。


やっぱり怖い。


怖くなくなるわけではない。


何色にもなれない自分を認めるのも。

何かを選ぶのも。

選ばれなかった時に傷つくのも。

それでもまた歩くのも。


全部怖い。


猫は路地の向こうへ消えた。


同時に、

風が戻った。


噴水の水滴が落ちた。


車の音がした。


誰かが笑った。


信号が青になった。


街が、

何事もなかったみたいに動き出した。


私は公園の真ん中に立っていた。


誰も私を見ていない。


それはいつもと同じだった。


だけど、

少しだけ違っていた。


私はポケットからスマートフォンを取り出した。


画面には、

ずっと送れないままの文章が残っていた。


元気?


たったそれだけの文章だった。


くだらない。

重くもない。

軽くもない。

意味があるようで、ないような言葉。


でも私には、

それを送ることがずっと怖かった。


変に思われるかもしれない。

迷惑かもしれない。

返事が来ないかもしれない。

返事が来たら来たで、

私はまた何かを間違えるかもしれない。


そうやって、

私は何度も消してきた。


私は画面を見つめた。


指が震えていた。


震えていることが、

恥ずかしかった。


けれど、

その震えを止めようとは思わなかった。


怖いままでいい。


震えたままでいい。


灰色のままでいい。


私は、

送信ボタンを押した。


すぐに後悔した。


胸が苦しくなった。

逃げ出したくなった。

スマートフォンを投げ捨てたくなった。


だけど、

私はそこに立っていた。


何も起きなかった。


世界は終わらなかった。

誰かが私を笑うこともなかった。

急に私が変わることもなかった。


私は相変わらず私のままだった。


中途半端で、

未熟で、

臆病で、

灰色で。


それでも、

送った。


ただそれだけのことだった。


たったそれだけのことが、

私には必要だった。


私は空を見上げた。


夜明け前の空は、

黒でも白でもなかった。


灰色だった。


いつだって分かっていたつもりだった。

けれども、やっと本当の意味で分かった気がする。


私に必要だったのは、私の中でぐるぐると繰り返す恐怖を身につけることだった。


見ないようにしたり、考えないようにしたり、そうしたって何も変わらない。


簡単に人は変わらない。


それでも、変わろうとする勇気を持つことがどれだけ大切か。


どれだけ、必要なことなのか、身に染みた。

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