夫「妻の義務は子を孕む事だ」
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「端的に言うが、君の仕事は帳簿をつけたり外向きの政治に口を出したりする事ではない。何より優先されるべき事は子を孕み、跡継ぎを無事に産む事なんだ。領分を犯さないで欲しいな。君の義務と責任を果たしなさい」
夫──カールレオンは私に向かってそんな事を言いました。
いきなりではありません。
勿論それなりの経緯というものがあります。
それは──
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私の夫はカールレオン・サルマン侯爵といいます。年は三十五歳。先代国王陛下の従兄弟筋に当たる名門中の名門の若き当主です。亜麻色の髪に灰の瞳の、どこか冷たい印象の男性。
本来ならばこうして婚約する事はありえない事でした。
というのも、サルマン侯爵家は先ほども言いましたが名門中の名門。対して私の生家──ボルジア伯爵家は目下零落中です。お金がなく、代々の家臣団に支払う給金の捻出にも苦労している有様です。仕方なくとばかりに王家に対して借財をしていますが、その返済すら非常に厳しい状況で……。
政略結婚はそういった状況を改善するために企図されることもありますが、それにしたところで限度はあります。サルマン侯爵家からすれば、縁もゆかりもないボルジア伯爵家に手を差し伸べる義理も義務もありません。
だのに──。
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ここへ嫁いできてから一か月ほど経つと、父から手紙が来ました。
『先の権利譲渡の詐欺により、我が家は王家からの借入により命脈を繋いでいた事は、お前も承知の通りである。しかしこの借入は金利こそ低いものの返済不履行の場合は伯爵位剥奪という最終条項が付されており、父はこの数年、夜も眠れぬ日々を送っていた。だが先日サルマン侯爵閣下よりご紹介を賜った商人ベルダン・ゴリ氏との取引が成立し、これによりかねて滞留していた領内産品の販路が一気に開けた次第である。閣下は更に、王家への返済について侯爵家が一時的な保証人となる事も示唆して下さっている。お前の犠牲の上に我が家は立ち直るのだ。父はそれが──』
そこで便箋の文字は一度乱れていました。
続きは『──父はそれが、心苦しい』で締めくくられています。
私は手紙を握り締めたまま、暫く動けませんでした。
──『すまぬ、ダイアナ。儂が到らぬばかりに、みすみすお前をサルマン侯爵家になど……』
私に対して頭を下げるお父様の姿を思い出したものです。あの時のお父様は余りにも痛々しく、私は否と言う事ができませんでした。いえ、言うつもりもありませんでしたが。私も貴族の家に生まれた者として責務を果たさねばならないという想いがありますから。
ただ、お父様があのように慨嘆されていたにはやはり理由があります。
と言いますのも、サルマン侯爵──カールレオン・サルマン様は何といいますか相当に気難しい事で知られ、名門であるにも関わらず婚姻がまとまらないのです。口さがない言い方をしてしまえば、いわくつきだと言う事です。
具体的に何が「いわくつき」なのか。
これがまた、面倒な話なのです。
カールレオン様には、つい三月ほど前まで奥方様がいらっしゃいました。クラリッサ・サルマン様。ヴォルケンハイム伯爵家の聡明な御令嬢で、お輿入れから二年。それなりに睦まじい御夫婦だった、とは噂で聞きました。
それが──ある日突然、離縁。
理由はある詐欺師の罠にかかってサルマン侯爵家に莫大な損害を出したという事のようです。それなりにと言いますか、サルマン侯爵家の三年分の収入に相当する金額が、ひと月で消えたとか。
すごい金額です。
それからのカールレオン様は何と申しますか──塞ぎ込まれたわけではなく、寧ろ家業に没頭され、ただ女性に対しての口がきつくなったらしいのです。曰く『家のことに口を出すな』『感情で動くな』『私の判断に従え』。
なるほど、御尤も。
御尤もなのですが、貴族令嬢相手にこれを連発されては縁談がまとまるはずがありません。
数件の縁談は持ち上がったようです。いずれも先方から『あのお方は無理』と辞退の返事。サルマン侯爵家ともあろう家がこの体たらくでは、王家としても面目が立ちません。
そこで動かれたのが、王国宰相ダッジ様。
『ボルジア家は王家への借財返済に苦慮している。サルマン家は次の妻が決まらない。両家を結べば一石二鳥である』──と。
理屈は通っていますが、思うところがないわけではありません。
お父様が頭を下げて謝ってきたのも、要するにこの「いわくつき」のお相手にみすみす私を差し出すしかなかった、という負い目があったのです。
ですが私は──ええ、強がりではなく──別にそれを恨んだりはしていませんでした。貴族令嬢として生まれたからには、家のために働く責務は受け入れるべきものです。
ただ、不安はありました。
『あのお方は無理』──そう先方から辞退されるような夫が、果たしてどんな御方なのか。
私もなるべくサルマン侯爵家の力になれるようにお力添えが出来れば、と思っていたのですが──。
◆◆◆
やることなすことが全て否定される日々でした。
私が試みたのはまず、家の帳簿を確認する事です。
と言いますのも、隣国エーアイ王国では貴婦人が家の帳簿をつけ、その家業を支えるという風潮が流行っているそうなのです。エーアイ王国はまだ建国三百年歴史がやや浅く、しかしその分勢いがある新興国家です。旧い制度、複雑な慣例などにこだわる事なく、変化を恐れない気風だと聞いています。
そのエーアイ王国で流行っている慣習だと言う事で、私も数字についてそれなりに学んで参りました。その成果を、と思っていたわけです。
他にもエーアイ王国で流行っているという先進的な思想と言いますか、普通貴族の妻はそんな事はしないと思われている様な事にも取り組んでいこうと考えていました。
ですが──。
「端的に言うが、君の仕事は帳簿をつけたり外向きの政治に口を出したりする事ではない。何より優先されるべき事は子を孕み、跡継ぎを無事に産む事なんだ。領分を犯さないで欲しいな。君の義務と責任を果たしなさい」
と、言われてしまいました。
ただ孕む事のみを求められる──それが貴族令嬢の生き方なのだと言われればそれまでですが、少なくとも私の母はお父様にその様な扱いはされていなかったように思えます。
時間が経つにつれ、私の中にぐつりと煮えたぎる様な怒りが湧いてきます。
しかし──。
◆◆◆
「おかしいわね……」
私は思わず口に出して言ってしまいました。
そう、おかしいのです。
何がおかしいかと言えば、一言で言えば扱いでしょうか。
私はきっと、この家では酷い扱いをされるのだろうなと思っていたのです。それこそ、まあ、口に出す事すら憚られる様な色々な事をただ一方的にされるだけの地獄のような生活だと思っていました。
ですが実際に私はこのサルマン侯爵家で、少なくとも私の知識の限り、認識の限りに於いてまったく不満も不足もない扱いをされているのです。
初夜、そしてそれから何度となくしてきた子を為すための行為も、カールレオン様が私を気遣ってくださっている事がよくわかります。
夜伽の作法というものを、私は嫁ぐ前に母から手解きを受けて参りました。痛みを耐え声を漏らさず、夫の意のままに身を委ねるべし──と。
行為には苦痛を伴うのが常であり、しかしそれは正常な事だから我慢をしなければならないと学んできました。
ところがカールレオン様はそういった作法とは関わりなく、私の身体の方を気遣ってくださるのです。痛みはないか息は乱れていないか、と一つ一つ確かめながら進めていらっしゃるのです。最初こそ痛み、そして道具のように扱われるのだという嫌悪感があったのですが、そういったものも段々と薄れていっているのが自分でもわかります。
──言葉と振る舞いが、てんで噛み合っていらっしゃらないわ……
私は何度もそう思ったものです。
そして、事はただそれだけでは終わりません。
サルマン侯爵家の名で行なう慈善事業の一切が任されたのです。
孤児院への寄付の差配、教会への奉納の取りまとめ、領内の貧しき者への施しの下準備──それが嫁いで間もなく、私の机の上に教区司教からの招待状が幾通も積まれていたのです。
「あの……これは私が決めてよろしいのですか?」
「左様でございます。旦那様より、奥様のご裁量に一切をお任せせよと。ただ、分からない部分はおありだと思いますので、その際は質問をするよう申しつかっております」
家政婦長は恭しく頭を下げました。
教会との関係を厚くし、孤児院に然るべき寄付を行ない、領民の信を集める。これは要するに、サルマン侯爵家の名声を高めるお仕事です。
『子を孕め、それ以外はするな』と言い放たれた御方が、領主夫人としての対外活動を私にそっくり任せていらっしゃる。
辻褄が合いません。
このままよくわからないままに話が進んでしまうというのはとても落ち着かない──そう思った私はある晩、カールレオン様に直接尋ねる事にしました。
◆◆◆
「要は私にも君にも、そして家臣たちにもそれぞれの役割があると言う事だ」
質問をした私に、カールレオン様はそう仰いました。
「サルマン侯爵家の財務、領内産品の取引、貴族間の駆け引き、家政の差配や使用人の管理、教会との付き合いや領民感情の慰撫──」
カールレオン様の灰の瞳がこちらを向きました。
「数え上げればキリがないが、それぞれに領分というものがある。これらの領分を意図的に踏み越えるというのなら、それこそ抜本的な改革をしなければならない。間に合わせ的に『君は数字に強いから当家の財務を任せよう』とはできないのだ。それをすれば今までうまくいっていた部分がうまくいかなかったりする」
カールレオン様は短く息を吐いて続けます。
「君が何に影響されているかは知らないが、自身の領分を今一度考えてみて欲しい」
「──私は少し、誤解をしていたのかもしれません」
ただ、と私はカールレオン様を睨みます。まあ正確には睨んだふりをします。
「カールレオン様も義務と責任を果たしていないのではありませんか?」
「私がどんな責任をどう果たしていないのか教えてくれ」
「夫としての責任を、です」
そう言った時のカールレオン様の表情は今まで見た事がないような表情をしていて、思わず笑ってしまいそうになりました。
「カールレオン様は私の夫です。そして貴族でもあります。ここで一つ、我がナーロウ王国の貴族規範というものを思い出していただきたく存じます。この国の貴族規範は、その骨子を教会の教えに負っております。その教えに従えば、夫婦は神の御前で一対と為された伴侶であって、互いを支え合う責を分かち持つ間柄とされます。夫の責とは妻を慈しみ家門と領を護る事。妻の責とは夫を支え家政を整え子を成す事。そしてその双方が共に祈り共に徳を示す──これが教会の説くところの『貴族の夫婦』でございます。故に夫が妻を顧みず、単に孕ませるだけの道具として扱うのなら、それは教会の教えに反する所業となります。そして教会の教えに反するという事は、即ち貴族の規範に背くという事です」
私はそこで一度、息を継ぎました。
「貴族の夫婦は領民の手本たれ──これもまた教えの一つでございます。睦まじき夫婦の姿を領民にお示しする事もまた、貴族としての責に他なりません。それを果たさぬ夫が果たして妻にのみ責を求められましょうか?」
正直、内心は「言ってしまった」という思いで一杯でした。ただ、カールレオン様がもし本当に私を孕ませるだけの存在して見ていたならば、こんな事は言わなかったでしょう。私は家の──ボルジア伯爵家の為に文字通り犠牲となっていたでしょう。なぜなら、そのような人に対して何をどう説いたとて無駄だからです。
しかしどうにもカールレオン様は私をそう見ていらっしゃらない様子。ならば、私たちの間に何か重大な齟齬がある──それが為に今私はこうして混乱を抱えている、そう思えるのです。
◆◆◆
カールレオン様は僅かに口元を緩められました。それは笑みと呼ぶには余りにも微かな変化でしたが、確かに笑みではありました。
「私は君を孕ませるだけの存在として見てなどいない」
カールレオン様は灰の瞳を窓の外へ移されました。
「私には前の妻がいた。クラリッサという。聡明で誠実で、そしてサルマン侯爵家を心から想ってくれる女性だった。私はそれを尊重した。彼女が望むままに領分を越える事を黙認したのだ。家政のみならず財務にも、商人との交渉にも口を出させた。その結果は──君も噂で聞いている通りだよ」
商人を装った詐欺師の件でしょう。
「責めるべきは領分を越えさせた私自身だ。だが彼女はそれを己の罪と引き受け、自ら離縁を望んだ。私は止めたが『この家に居る資格がない』と言って去った」
カールレオン様の声が一段低く落ちました。
「以来、私は領分というものに対して臆病になった」
「──だから、あの様な言い方を……」
私の問いとも言えぬ問いに、カールレオン様は頷きます。
「私は間違った事を言っていたかね?」
私は「いいえ」と首を振ります。
実際、カールレオン様は間違っていません。少なくとも、私の認識に於いては。子を成す事こそが私の何よりの使命であることは間違っていないのですから。ただ、ああいった言い方に、私は自分の存在価値を毀損されてしまったと感じたのも事実です。それはきっと、私の貴族としての精神の在り方がまだ未熟だからなのでしょう。まだ甘えがあるからそんな事を思うのです。
ナーロウ王国にはかつて「貴族は国の部品たれ」と言い残した国王がいました。この王はその思想の過激さからかなりの批判を受けたそうですが、その割り切った思想は国の根本をより盤石なものとし、その国王の次の世代には王国はこれまでで最も発展したそうです。私の甘えはきっと、その国王の価値観からすれば余り宜しくないものなのでしょうね。
ただ──。
「カールレオン様には貴族たるものかくあるべし、という信念があると私にも分かります。だからこれから言う事は、カールレオン様の価値観にそぐわないものかもしれません。なぜなら、今から言う事は貴族の妻としてあるまじき甘えだからです」
「言いなさい」
「私は……もう少しだけ優しい言い方をされたかった、と思ってしまいました。カールレオン様は私の夫です。これから幾久しく共に在り続ける相手です。そういう相手からああいった渇いた言い方をされる事は辛く感じます」
「そうか……そうだな、すまない」
「私の甘えを苦々しくお思いになりますか?」
ややあって、カールレオン様は「いや」と否定なさいました。それから──
「妻の甘えを受け入れぬ夫は夫たるべき資格はないと思っている」
そう言ってカールレオン様は立ち上がり、私の手を取って──甲に口づけを落としました。
それから先の事──例えば今夜これからどうなるのかとか、私たちの暮らしはどうなるのかとかは敢えて書かずとも宜しいでしょう。
と言いますのも、良かった事、嬉しかった事、幸せである事を他者に延々と語るのは、淑女としてはしたない事であると貴族規範にあるからです。
(了)




