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婚約破棄で追放されましたが、前世が社畜だったので元婚約者の後悔が見えません

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/09

「エリーゼ、婚約は破棄だ。君を辺境に追放する」


 王太子エドヴァルトの声が、広間に響き渡る。


 貴族たちがざわめく中、私――エリーゼ・ノイマンは、内心で飛び上がるほど喜んでいた。


「やった! ありがとうございます!」


「……は?」


 エドヴァルトが目を見開く。周囲の貴族たちも凍りついたように静まり返った。


 しまった。つい本音が出てしまった。


「いえ、その……エドヴァルト様のお心遣いに、感謝申し上げます」


 慌てて取り繕うが、もう遅い。


 隣に立つ聖女アメリアが、優しげな笑みを浮かべながら言った。


「まあ、エリーゼ様。お辛いでしょうに、気丈に振る舞われて……」


 辛い? 全然辛くない。むしろ最高だ。


 だって、これでやっと自由になれる。


 夜会も、社交辞令も、接客スマイルも、もう必要ない。


「エリーゼ様は、辺境のボロ屋敷に送られるそうですわ。可哀想に……」


 貴族の女性たちが囁き合う。


 ボロ屋敷? 上等じゃない。


 誰も私に期待しない場所。誰も私を必要としない場所。


 つまり、残業も休日出勤もない場所。


(前世で過労死したんだから、今世くらいゆっくりさせて)


 私は心の中で、そう叫んだ。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 婚約破棄の宴から三日後。私は荷物をまとめながら、この五年間を振り返っていた。


 五年前、私は王太子エドヴァルトと婚約した。


 ノイマン伯爵家の三女である私が、王太子妃候補に選ばれたのは、家柄と教養のバランスが良かったかららしい。


 最初は悪くないと思っていた。


 だが、すぐに気づいた。


 王太子妃候補の生活は、前世の私が働いていた大手広告代理店と同じくらいハードだということに。


「エリーゼ、もっと笑顔で」


 夜会で三時間立ちっぱなしで社交辞令を述べ続けていると、エドヴァルトがそう囁いてきた。


(笑顔、笑顔、笑顔……)


 前世で接客業をやらされていた時と同じだ。


 口角を上げて、目も笑って、声のトーンを上げて。


「エリーゼ、貴族夫人たちともっと親しくするように」


(営業、営業、営業……)


 これも前世と同じ。


 相手の機嫌を取って、話を合わせて、自分を殺して。


「エリーゼ、週に三回は夜会に出席してもらう」


(残業、残業、残業……)


 週三回の夜会。一回につき四時間。


 それに加えて、昼間は王太子妃教育。


 刺繍、音楽、舞踏、歴史、政治、外交……。


(前世では週120時間労働。月の残業時間は200時間超え)


(それに比べればマシだと思ってたけど、やっぱり疲れる)


(人間、一度自由を知ったら、もう戻れないんだ)


 そして一年前、決定的な出来事が起きた。


 聖女アメリアの出現だ。


「エドヴァルト様、素敵ですわ!」


 明るく、屈託なく笑うアメリア。


 彼女は私と正反対だった。


 社交辞令が得意で、誰にでも優しく、常に笑顔で。


(まるで、営業成績トップの同僚みたい)


(きっと、接客スマイルが得意なんだろうな)


 エドヴァルトの態度が変わったのは、その時からだ。


「エリーゼ、君は冷たいな」


「アメリアを見習ったらどうだ?」


「君といると、疲れる」


 ああ、そう。


 私も疲れてるんだけど。


 でも、それを言っても無駄だろう。


 前世でも、上司に「疲れた」なんて言えなかった。


 侍女が荷物をまとめながら、泣いている。


「お嬢様、こんな仕打ちがあっていいのでしょうか……」


「大丈夫よ。むしろ、これで良かったの」


「でも、辺境の地で、お一人で……」


「一人が一番楽なのよ」


 侍女は理解できないという顔をしている。


 まあ、普通の貴族令嬢なら、追放は屈辱だろう。


 でも私は、前世で過労死した社畜だ。


 自由時間こそが、何よりの宝物だと知っている。


「エリーゼ! 何をのんきに荷造りしているの!」


 姉のマルガレーテが部屋に入ってきた。


「王太子妃になれなかったなんて、家の恥よ!」


「すみませんね、姉上」


「謝って済む問題じゃないわ! あなたがもっと努力していれば……」


 もっと努力?


 私、十分努力したと思うんだけど。


「あなたが地味で、冷たくて、愛想がないから、こんなことになったのよ!」


(地味で冷たくて愛想がない)


(つまり、接客スマイルをしない、営業トークをしない、上司の機嫌を取らない)


(それって、そんなに悪いことなの?)


「姉上、私は辺境に行きます。もう二度と、王都には戻りません」


「当然よ! 恥さらし!」


 マルガレーテは怒鳴りながら部屋を出て行った。


 ふう。


 やっと静かになった。


(これで、家族からも解放される)


(もう、誰の期待にも応えなくていい)


(自由だ)


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 辺境の地に到着したのは、それから一週間後だった。


 噂通り、屋敷はボロかった。


 壁は剥がれ、窓は割れ、庭は荒れ放題。


「お嬢様……こんな場所で……」


 侍女が泣きそうになっている。


「最高じゃない」


「え?」


「一人暮らし、最高じゃない!」


 私は本気で言った。


 夜会もない。社交辞令もない。接客スマイルもない。


 誰も私に何も期待しない。


 誰も私を必要としない。


 つまり、完全な自由。


「お嬢様、お部屋もこんなに狭くて……」


「十分よ。むしろ広すぎるくらい」


 前世では、六畳一間のワンルームマンションに住んでいた。


 しかも、寝るためだけに帰る場所だった。


 ベッドとデスクで部屋はいっぱい。洗濯物は部屋干し。


 それに比べれば、この屋敷は宮殿だ。


「お嬢様、お食事も質素で……」


「十分よ。むしろ豪華すぎるくらい」


 前世では、コンビニ弁当かカップ麺だった。


 深夜のオフィスで、一人で黙々と食べる。


 それに比べれば、この質素な食事は御馳走だ。


 私は窓を開けて、深呼吸した。


 新鮮な空気。静かな環境。自由な時間。


(これが……天国)


(前世の私に教えてあげたい)


(過労死した先に、こんな幸せが待ってるって)


 その日から、私は自由を満喫した。


 朝は好きな時間に起きる。目覚まし時計なんて不要。


 昼間は本を読んだり、散歩したり、昼寝したり。誰にも文句を言われない。


 夜は早く寝る。深夜残業なんてない。


 夜会もない。社交辞令もない。接客スマイルもない。


「お嬢様、本当に大丈夫なのでしょうか……」


 侍女は心配そうだが、私は本気で幸せだった。


(前世で失った自由を、取り戻した)


(これ以上、何を望むというの?)


 そんな平和な日々が一ヶ月ほど続いた時、転機が訪れた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「失礼する」


 屋敷の門を叩いたのは、黒髪の男性だった。


 背が高く、鋭い目つきをしている。


「私は、ヴェスターヴァルト辺境伯爵、ラインハルト・フォン・ヴェスターヴァルトだ」


 ああ、この辺境の領主か。


「ノイマン家のエリーゼです。お初にお目にかかります」


「……君が、追放されたという令嬢か」


「はい、そうです」


 ラインハルトは、私を値踏みするような目で見た。


「追放されて、辛くないのか?」


「全然。むしろ感謝してます」


「……何?」


「自由時間、最高です」


 ラインハルトは、驚いたように目を見開いた。


「追放を……喜んでいる?」


「はい。夜会もない、社交辞令もない、接客スマイルもない。最高じゃないですか」


「接客……スマイル?」


「ああ、すみません。貴族らしい笑顔、という意味です」


 ラインハルトは、しばらく黙っていた。


 そして、ふっと笑った。


「面白い人だな、君は」


「よく言われます」


「実は、頼みがある」


「何でしょう?」


「領地の事務仕事が溜まっていて……手伝ってもらえないか?」


 事務仕事?


(ああ、懐かしい)


(前世では、Excel神と呼ばれていたっけ)


(VLOOKUP関数もピボットテーブルも使いこなしてた)


「いいですよ。でも、条件があります」


「条件?」


「定時で帰らせてください」


「定時……?」


「はい。朝九時から夕方五時まで。休憩一時間。残業なし」


 ラインハルトは、困惑した顔をした。


「それは……構わないが」


「では、お受けします」


 こうして、私は辺境伯爵の屋敷で事務仕事を手伝うことになった。


 最初は簡単な書類整理から始まった。


 だが、すぐに気づいた。


 この領地の事務処理、めちゃくちゃだ。


「ラインハルト様、この書類、重複してますよ」


「重複?」


「同じ内容の報告書が三通。無駄です」


「そうか……気づかなかった」


「それに、この帳簿、計算が合っていません」


「本当か!?」


「はい。多分、誰かが誤記したのでしょう」


 私は前世のスキルを総動員して、書類を整理していった。


 重複を削除し、誤記を修正し、帳簿を整えた。


 前世で培ったExcelスキルは、この世界では魔法のように見えるらしい。


「エリーゼ……君は……」


 ラインハルトが、呆然と私を見ている。


「三日で、これだけの仕事を?」


「はい。そんなに大変じゃなかったです」


「大変じゃ……ない?」


「前世……じゃなくて、前にもっと大変な仕事をしていたので」


(月200時間の残業に比べれば、これくらい余裕)


 ラインハルトは、しばらく黙っていた。


 そして、真剣な顔で言った。


「エリーゼ、君に正式に頼みたい」


「はい?」


「この領地の事務を、任せたい」


「いいですよ。でも、定時で帰らせてくださいね」


「……ああ、分かった」


 こうして、私は辺境領の事務官として働くことになった。


 と言っても、前世に比べれば圧倒的に楽だった。


 朝九時に出勤し、夕方五時に退勤する。


 残業なし。休日出勤なし。


(これが……普通の労働)


(前世の私、何やってたんだろう)


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 それから三ヶ月が経った。


 私はすっかり辺境での生活に馴染んでいた。


 朝、ラインハルトの屋敷で事務仕事をする。


 夕方、自分の屋敷に帰って、自由時間を楽しむ。


 シンプルで、平和で、幸せな日々。


「エリーゼ」


 ある日、ラインハルトが私を呼んだ。


「はい、何でしょう?」


「君に、聞きたいことがある」


「どうぞ」


「なぜ、君は追放を喜んでいるんだ?」


 ああ、やっぱりそこが気になるのか。


「前世……じゃなくて、前の生活が、辛かったからです」


「辛かった?」


「はい。夜会、社交辞令、接客スマイル……全部、疲れました」


「それは……王太子妃候補としての務めだろう?」


「でも、私には向いていませんでした」


 私は正直に話した。


「私、本当は人と話すのが得意じゃないんです」


「そうか」


「それに、笑顔を作るのも苦手です」


「だが、君は今、笑っているじゃないか」


「え?」


「君は今、自然に笑っている」


 そう言われて、私は自分の顔を触った。


 本当だ。笑っている。


「王太子妃候補の時は、いつも無理に笑顔を作っていました」


「でも今は、自然に笑える」


「それは……そうですね」


「なぜだ?」


「ここでは、無理をしなくていいからです」


「それに、あなたは私の仕事を認めてくれる」


「笑顔じゃなくて、能力を見てくれる」


 ラインハルトは、優しい目で私を見た。


「エリーゼ、俺と結婚してくれ」


「……は?」


 え、今、何て言った?


「結婚してくれ」


「な、なんで!?」


「君といると、肩の力が抜ける」


「それだけ!?」


「それに、君の事務能力が必要だ」


「理由がビジネスライクすぎませんか!?」


 ラインハルトは、少し困ったような顔をした。


 そして、真剣な目で言った。


「……君のことが、好きだ」


 心臓が跳ねた。


「俺は、君といると安心する」


「君の笑顔が見たい」


「君と一緒にいたい」


「だから、結婚してくれ」


 私は、しばらく黙っていた。


 結婚。


 前世では、考える暇もなかった。


 仕事が忙しすぎて、恋愛どころじゃなかった。


 28歳で死ぬまで、恋人すらいなかった。


「ラインハルト様、一つ質問があります」


「何だ?」


「結婚しても、定時で帰れますか?」


「……ああ」


「夜会は、月に一回まででいいですか?」


「……構わない」


「では、お受けします」


 ラインハルトは、嬉しそうに笑った。


「本当か!?」


「はい。あなたとなら、幸せになれる気がします」


 ラインハルトは私を抱きしめた。


 温かい。


 前世では感じたことのない、温もり。


(これが……愛?)


(前世で知らなかった感情)


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 それから一ヶ月後、私たちは結婚した。


 小さな式だったが、心温まるものだった。


 領民たちも祝福してくれた。


「エリーゼ様、お幸せに!」


「ラインハルト様、いい奥様をもらいましたね!」


 私は、心から笑っていた。


 無理な笑顔じゃない。


 本物の笑顔。


「エリーゼ」


 ラインハルトが私の手を取った。


「幸せか?」


「はい、とても」


「俺も幸せだ」


 結婚後も、私は事務仕事を続けた。


 朝九時から夕方五時まで。


 残業なし。休日出勤なし。


 そして、家に帰れば、ラインハルトが待っている。


「お帰り」


「ただいま」


 何気ない会話。


 でも、それが何より嬉しかった。


 前世では、「ただいま」を言う相手すらいなかった。


 ラインハルトは、私を溺愛した。


 常に側にいたがり、手を繋ぎたがり、抱きしめたがった。


「エリーゼ、愛してる」


「私も、愛してます」


(これが……幸せなのかな)


(前世の私が知らなかった、本当の幸せ)


 そんな平和な日々が半年ほど続いた時、事件が起きた。


 王都から、使者が来たのだ。


「エリーゼ様、王太子殿下からの手紙です」


 手紙?


 私は、嫌な予感がした。


 手紙を開くと、そこには王太子エドヴァルトの筆跡で、こう書かれていた。


『エリーゼ、戻ってきてくれ。俺が間違っていた』


 は?


「エリーゼ、どうした?」


 ラインハルトが心配そうに聞いてくる。


「王太子が、戻ってきてくれって」


「何!?」


「でも、断ります」


「本当か?」


「当然です。私、今すごく幸せなので」


 ラインハルトは、安堵したように笑った。


「そうか」


「はい」


 だが、それで終わらなかった。


 一週間後、王太子エドヴァルト本人が、辺境まで訪ねてきたのだ。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「エリーゼ」


 玄関に立っていたのは、見覚えのある金髪の男性だった。


 王太子エドヴァルト。


 私の元婚約者。


「エドヴァルト様……なぜここに?」


「君に会いに来た」


「お断りした手紙、読みませんでしたか?」


「読んだ。だが、直接話したかった」


 エドヴァルトは、真剣な顔をしていた。


 だが、私には彼の表情が遠くに見えた。


(ああ、もう私には関係ない人だ)


「エリーゼ、俺が間違っていた」


「はあ」


「君を追放したのは、間違いだった」


「そうですか」


「戻ってきてくれ」


「無理です」


「なぜだ!?」


「私、今すごく幸せなので」


 エドヴァルトは、驚いたように目を見開いた。


「幸せ……?」


「はい。ここでは、夜会もない、社交辞令もない、接客スマイルもない」


「それに、愛する夫もいます」


「夫……?」


「そうだ。俺の妻に何の用だ?」


 ラインハルトが、私の隣に立った。


 その腕が、私の腰に回される。


 エドヴァルトは、ショックを受けたような顔をした。


「エリーゼ、君は……」


「幸せです。本当に」


「あの冷たい君が、笑っている……?」


「冷たい?」


 私は、少しだけ怒りを覚えた。


「エドヴァルト様、あなたは私を『冷たい』と言いましたね」


「それは……」


「でも私、ただ疲れてただけなんです」


「疲れて……?」


「あなたと一緒にいると」


 エドヴァルトは、言葉を失った。


「私、あなたのために笑顔を作って、社交辞令を言って、接客スマイルをして」


「でも、それが辛かったんです」


「本当の私を見てくれなかった」


「エリーゼ……」


「だから、追放されて本当に良かった」


「そんな……」


「あなたには、聖女アメリアがいるじゃないですか」


「彼女は……違う」


「何が違うんですか?」


「彼女は……君じゃない」


 私は、ため息をついた。


「もう遅いです、エドヴァルト様」


「エリーゼ……」


「私には、ラインハルトがいます」


「彼が、私に自由をくれました」


「彼が、私を愛してくれました」


「彼が、本当の私を見てくれました」


「だから、私も彼を愛しています」


 ラインハルトが、私をぎゅっと抱きしめた。


「もう二度と、俺の妻に近づくな」


 ラインハルトの声は、冷たく鋭かった。


「エリーゼは、俺のものだ」


 エドヴァルトは、何も言えずに立ち尽くしていた。


 そして、やがて馬車に乗って去って行った。


 その背中は、どこか小さく見えた。


(ああ、やっと終わった)


(もう、あの人のことを考えなくていい)


 私は、ラインハルトの腕の中で、安堵のため息をついた。


「ラインハルト、ありがとう」


「礼を言うのは、こっちだ」


「え?」


「君が、俺を選んでくれて、ありがとう」


 ラインハルトは、私の額にキスをした。


「本当に、俺でいいのか?」


「いいに決まってるじゃないですか」


「あなたは、私に自由をくれた」


「あなたは、私を愛してくれた」


「あなたは、本当の私を見てくれた」


「だから、私もあなたを愛しています」


 ラインハルトは、嬉しそうに笑った。


「君に会えて、本当に良かった」


「私もです」


 二人で抱き合いながら、私は思った。


(追放されて、本当に良かった)


(前世で過労死して、本当に良かった)


(だって、そのおかげで、この幸せに辿り着けたんだから)


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 それから一年が経った。


 私は、辺境領で充実した生活を送っていた。


 事務仕事は相変わらず楽しく、ラインハルトとの生活は幸せだった。


 そして、私たちの間には、赤ん坊が生まれた。


「エリーゼ、大丈夫か?」


「大丈夫です。ちょっと疲れただけ」


「無理するな」


「無理なんてしてません。週120時間労働に比べれば、育児なんて天国です」


「……120時間?」


「あ、いえ、なんでもありません」


 ラインハルトは不思議そうな顔をしたが、追及はしなかった。


 赤ん坊を抱きながら、私は思った。


(前世の私、見てる?)


(あの時、過労死しなければ、この幸せはなかった)


(だから、ありがとう)


(諦めないで、最後まで働いてくれて)


 たまに、王都から噂が届く。


「王太子殿下と聖女様、不仲だそうですよ」


「王太子殿下、エリーゼ様のことをまだ……」


「エリーゼ様が羨ましい、という貴族令嬢が増えてるそうです」


 でも、私には関係ない。


 私は、ここで幸せだ。


 自由な時間があって、愛する夫がいて、可愛い子供がいる。


 定時で帰れて、残業もなくて、休日出勤もない。


 これ以上、何を望むというの?


「エリーゼ」


 ラインハルトが、私の隣に座った。


「愛してる」


「私も、愛してます」


「君と結婚できて、本当に良かった」


「私もです」


 窓の外では、夕日が沈んでいく。


 辺境の静かな夕暮れ。


 前世では、この時間もオフィスで働いていた。


 蛍光灯の下で、パソコンに向かって、誰もいないオフィスで一人。


 でも今は、愛する家族と一緒にいる。


 温かい部屋で、笑い声が響いて、幸せに包まれている。


「追放されて、本当に良かった」


 私は、心からそう思った。


 前世で失った自由を、この世界で取り戻した。


 前世で知らなかった愛を、この世界で見つけた。


 前世で味わえなかった幸せを、この世界で掴んだ。


 これが、私の――本当の人生。


 エリーゼ・フォン・ヴェスターヴァルトとしての、新しい人生。


 そして、幸せな人生。

読んでいただき、ありがとうございます。


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