ある同窓会
北の湖大学政経学部長、大松誠の名は、長く学内でも政財界でも通用する経済政策の権威として知られていた。
大松は20人に限られてるゼミ生の選抜試験のとき、必ず言った。
「わたしはマルキストではない。そういう人は、お互いに不幸だからやめましょう」
北の湖大学にはマルクス経済学の講義もゼミもなかった。
だから、市場に介入する経済政策のゼミに、マルクス経済学をやりたい学生が入ってくることを極度に警戒しているのである。
学者として卑怯な態度である。
しかもそのことを講義要項に書いてない。
北の湖大学政経学部では、一回願書を出してしまうと、2次募集しているゼミが少ない。
大松に排除された学生は、他のゼミに行くしかなかった。
その中には大松の教え子のゼミもあり、嫌なことを押し付けようという魂胆である。
最初の盗作が行われたのは、学部長就任の少し前のことだ。
アメリカの経済学者が書いた専門書を、共著の担当部分にほぼ丸写しし、英文を日本語に置き換えただけで、自著の一章とした。
参考文献とも記さず、原著者の名も出さなかった。
数年後、盗用は新聞にすっぱ抜かれた。
「北の湖大政経学部長、大松教授 米人学者論文を盗用」
曙新聞の社会面トップに見出しが踊り、それに全国紙が追随した。
記事には、原文と大松の章がほとんど一致していること、わずかな違いはあるものの、全体的に抄訳であるという国立大学教授のコメントが明記されていた。
教授会では大松は平然と頭を下げた。
「不徳の致すところです」
翌週、夕刊紙の取材で、大松はこう語った。
「経済学をやった人ならわかると思うが、皆が少しずつ分け合っている書いてる学問なんです」
まるで最初からそう信じていたかのように言い放った。
それが大松の方便だった。
恥を覆い隠すための理屈を、まるで高尚な学問論のように仕立てたのである。
大松は学部長を辞し、経済政策の授業は辞めたが、教授職には居座りゼミを続けた。
学生に対しては傲慢で、弱い者に冷たく、女子学生の前でも下卑た冗談を口にした。
それでも権威の前では誰も口を閉ざした。
70歳で定年を迎えたとき、大学は名誉教授の称号を打診したが、大松は辞退した。
あとで剥奪運動が起こるのを屈辱を恐れただけのエゴなのだ。
大松は右翼系の四流大学に招かれ、80歳で再び著書を出した。
題して『日本経済における政府の役割』。
盗作問題の傷を癒やすつもりだったのかもしれない。
大松は満足げに言った。
「わたしの理論は、どこの国でも通用する」
85歳で病に倒れ、90歳で死んだ。
ゼミ生たちは偲ぶ会を開き、ある者が提案した。
「先生の最後の本を英訳して、海外に紹介しましょう」
誰も異を唱えなかった。
英訳本が刊行されたのは翌年の秋だった。
だがまもなく、アメリカの大学教授から抗議が届いた。
「この本は、10年前、出版された私の著書と酷似している」
章立ても理論構成も、引用も、ほとんど一致していた。
大松の晩年の代表作は、再び別の学者の著作を盗んで書かれたものだった。
大松の死後、その盗作が英訳を通じて世界に暴かれたのである。
報道は海外から逆輸入される形で広がり、ゼミ同窓会は解散した。
「あんなやつのことは二度と思い出したくない」
皆が憤慨し、誰も大松の名を口にしなくなった。




