第九章 灯の消える音
夕暮れ。
麓の街へと続く、細く静かな山道を歩く。
もうじき街に着くはずだ。人混みに紛れて鉄道に乗れれば、逃げ切れるかもしれない。
わずかな希望が胸の奥で、ゆっくりと膨らんでいった。
日下部は、手を伸ばせば触れられる距離で歩くりんを横目に見る。
彼女は先ほど涙を見せたとは思えないほど、ただ前だけを見ていた。
――この子は、強い。
その温かな思いが胸に宿った瞬間だった。
乾いた破裂音が、空気を裂いた。
「……え?」
りんの小さな声と同時に、日下部の体が大きく弾かれた。
胸の奥で、熱いものが爆ぜる。
視界が白くはじけ、そのまま地面が傾いた。
――撃たれた。
理解したのは、足元の感覚が消える直前だった。
「日下部さんっ!!」
りんの悲鳴が響き、日下部の体は地面に叩きつけられる。
だが痛みは遅れてやってきた。
胸の奥、心臓があるはずの場所から、焼けつくような熱が走る。
息が吸えない。
肺が空気を拒むように縮んでいく。
(……やられたな)
視界の端に、りんが飛び込んできた。
両手で彼を抱き起こし、必死に名前を呼んでいる。
「日下部さん、だめ……だめだよ……! ねぇ、起きて……!」
彼女の顔は涙で歪み、震えていた。
「……りん……逃げろ……」
声は、自分のものとは思えないほどかすれていた。
だが、りんは激しく首を振る。
「嫌だっ……! 置いていかない!」
「いいから……」
言いかけた言葉は咳に変わり、血の鉄の味が舌に広がる。
胸の鼓動が乱れ、世界の速度がゆっくりと落ちていく。
(……まだだ。この子には、生きてほしい)
日下部は震える腕を伸ばした。
りんの顔に触れたかった。
もう一度だけ、その体温を確かめたかった。
だが、指先は空を掴んだだけだった。
「ふたりで……ふたりで生きようって言ったのに……! こんなの……嫌だよ……!」
その叫びが、胸を締めつける。
逃げ切れる保証など、最初からなかった。
りんは国家が喉から手が出るほど欲しがる存在だ。
逃亡を手助けした者がどう扱われるかも、分かっていた。
分かっていたはずなのに。
「……りん」
名前だけは、きちんと呼べた。
「……生き……て……」
りんの瞳が大きく揺れる。
「いやだ……! いっしょに遠くへ行くんじゃなかったの……!」
ああ。
そのはずだった。
山道の途中の岩場で、笑うりんを見つめながら、確かにそう誓った。
(……守りたかったな)
りんのこれからの人生を。
能力なんて関係ない、普通の生活を。
瞬い光を放つ朝日や美味しい食事を、誰に監視されるでもない家で、一緒に見て感じて、一緒に生きていきたかった。
胸の痛みが遠のくにつれ、静けさが満ちていく。
りんの声が、霧の向こうに消えていく。
手の感覚も、足の感覚も、もうなかった。
ただ――
りんの泣き顔だけが、そこにあった。
(泣くなよ……そんな顔……似てるだろ……)
その顔が亡くなった妹の表情と重なっていき、かすかに笑った。
もう、どちらが誰なのかさえ曖昧になっていく。
(……悪いな、りん)
約束を守れなかった。
一緒に未来を生きられなかった。
でも――
(君は……生きてくれ)
視界が、ゆっくり、ゆっくりと暗闇に沈んでいく。
最後に聞こえたのは、りんが自分の名を呼ぶ声だった。
「――――日下部さん!!」
春の山に、その悲鳴だけがいつまでも響き続けた。




