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第八章 これからの話

 草原を離れてしばらく山道を歩いたころだった。

 日下部は、追手の気配がまた濃くなっていることに気づいた。

 風向きが変わり、遠くで車両のエンジンが低く唸っている。


「……そろそろ警戒したほうがいいな」

「うん」


 りんは従順にうなずく。

 だがその指先は、さっき触れた草の感触を確かめるように、時折ぎゅっと握られていた。


 小さな岩場に腰を下ろし、水筒を回し飲みしていたときだった。

 りんがぽつりと口を開く。


「ねえ、日下部さん」

「どうした?」


「……どうして、わたしを助けたの?」


 期待でも、責めるでもなく。

 ただ、まっすぐに理由を求める声音だった。


 日下部は息を呑む。

 言葉を整えるために、短く空を仰いだ。


「……りんを見て、放っておける人間のほうがおかしいよ」


 りんは小さく眉を寄せる。


「でも……わたし、火を出すし。危ないし……国家のものなんでしょ?」


 その言い方があまりに寂しげで、胸の奥を刺した。


「危ないなんて思ったこと、一度もない。

 君は……人を怖がらせないように、いつも自分を抑えてた」


 りんは黙ったまま、膝の上で手を握りしめる。


 日下部は一度目を閉じ、それから静かに続けた。


「それに……俺には、妹がいたんだ」


 りんの肩が小さく揺れる。


「少しだけ、りんに似てた。

 ……空襲で起きた火事に巻き込まれて、亡くなった。

 俺はまだ子どもで……守れなかった」


「……」


「あの時もし、妹を守れるだけの力があったなら……迷わず手を伸ばしたんだろうなって。

 今でも夢に見るよ」


 りんは静かに息を呑んだ。


 日下部は、りんの横顔を見つめながら言った。


「でも——りんを助けたのは、妹を重ねたからだけじゃない」


 りんがゆっくりと顔を上げる。


「りんは……ただ、りんだからだよ」


「…………」


「あの研究所で、毎日耐えて。

 誰も恨まないで、驚いたり笑ったりしてさ。

 そんな人を……あんな場所に閉じ込めておくなんて、間違ってると思った」


 りんの目に涙が滲む。


「わたし……そんなふうに思ってもらえるなんて……」


 声が震え、言葉が途切れた。


 日下部はそっと視線を合わせる。


「だから助けたかった。……ただ、それだけだ」


 ふたりの間に静かな沈黙が落ちる。

 だがその静けさは、さっきまでとは違い、どこかあたたかかった。


 やがて、りんが問う。


「じゃあ……わたしたち、この先……どうなるの?」


 それは、彼を信じることを選んだ上での問いだった。

 “被験者”ではなく、ひとりの女の子として未来を聞く声音。


 日下部ははっきりと彼女を見据えた。


「——りん。ここからずっと離れた土地へ行こう」

「遠く……?」

「ああ。人里から離れたところで、ふたりで暮らすんだ」

「……ふたりで?」

「そうだ。能力のことは全部忘れて……普通に。

 毎日、起きて、飯を食って……夜になったら眠る。

 そんな生活をしよう」


 りんの瞳が大きく揺れた。


「……わたし、そんなの……初めて聞いた」

「普通の暮らしなんて、りんは一度もできなかったんだろ?」

「うん……でも……日下部さんとなら、きっと……」


 言葉を詰まらせたあと、りんはふっと微笑んだ。


「生きてみたい、かも」


 その一言が、山の冷たい空気のなかでやわらかく響いた。


 日下部の胸が熱くなる。

 彼が抱いたこの感情が、妹への贖罪なのか——

 それとも、ただ一人の少女を愛おしいと思う想いなのか。

 まだ分からない。


 だが確かに言えるのは。


「りんと生きたい」——その願いが、自分のなかに芽生えてしまったということだった。


「……行こう。どこまでも」

「うん」


挿絵(By みてみん)


 りんは涙を拭き、日下部の隣にすっと立つ。

 その横顔は、さっき草原で空を見上げた時よりも、強く、美しかった。


 追手の気配は近づいている。

 それでも——ふたりは未来を信じるように歩き出した。

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