第七章 約束の果て
りんが放った火は山の斜面を舐めるように広がり、捜索現場は混乱していた。
山を焼く巨大な炎と黒煙が、逃げる二人を巧みに隠してくれる。
追手の気配が一時的に遠ざかったのを確認し、日下部とりんは山道を外れ、人気のない小さな丘へ向かった。
そこだけぽっかりと木々が途切れ、春の草が一面に広がっている。
日差しは柔らかく、風はあたたかい。
「……りん、ちょっと寄り道しよう」
「寄り道?」
りんは首を傾げながらついてきた。
草原に足を踏み入れた瞬間——動きを止めた。
草が風に揺れ、光に透けてきらきらと輝く。
りんはしゃがみ込み、そっと草に触れた。
「……冷たくない。痛くもない。やわらかい」
その当たり前の感触に、目を丸くする。
「りんとした“草の上で空を見たい”って約束、この辺りならできるかなと思って、調べてたんだ。」
本当は、適当な理由で外出許可でも取って連れてこようと思ってたんだがな、と心の中で苦笑する。
りんの肩が小さく揺れた。
「……叶う保証なんてない約束だったのに、わざわざ調べておいてくれたの?」
「あんなに真剣な顔して言うから、なんとしても連れて行こうと思ってさ」
りんは照れたように笑い、そして——
草の上にそっと仰向けに寝転んだ。
日下部も横に並ぶ。
青い空が広がり、雲がゆっくり流れていく。
山の上の風が、ふたりの髪を撫でていく。
「……空って、こんなに広いんだ」
りんの声は、涙を噛みしめているように震えていた。
「研究所の窓から見るのとはぜんぜん違う……」
「そうだな。外の空気は、こんなに気持ちいい」
「ねえ、日下部さん」
「ん?」
「いまね、わたし、生まれてはじめて……ちゃんと生きてるって思った」
その言葉に、日下部の胸が痛む。
研究所で見せた無表情の奥に、どれだけの孤独が隠れていたのか。
その孤独が少しずつ溶け、雲のように形を変えていく。
しばらく、ふたりは無言で空を眺めた。
りんは、草を握りしめた手をそっと日下部の方へ伸ばし、ためらいがちに、小指が触れるくらいの距離で止まった。
りんからすれば、それが精一杯の“甘え”だった。
「……ありがとう。約束、叶えてくれて」
「俺の方こそ……ありがとうだよ」
「え、なんで?」
日下部は春の空を見上げ、静かに答えた。
「——こんな景色を、一緒に見てくれる人がいるなんて思わなかったから」
りんの表情がわずかに赤く染まる。
けれど、その意味を最後まで聞くことはしなかった。
いまはただ、草のやわらかさと、空の広さを胸に刻むだけでよかった。
追手の影が再び近づくまでの、ほんの一時——
ふたりが手にした、かけがえのない自由だった。




