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第六章 追跡の足音

 夜明けの箱根の山は、濃い霧に包まれていた。

 足元は白く霞み、空の端にはかすかに朝焼けの朱が差している。


 日下部は冷たい空気の中で息を整え、りんの手を握った。

 その手は、驚くほど温かい。

 まるで内側に火が宿っているかのようだった。


「大丈夫か、りん」

「うん。少し……息が上がってるけど、平気」


 りんは息を吐くたびに、指先がほのかに赤く光る。

——感情が昂ぶると、無意識に火が反応する。

 研究記録に、そう書かれていた。

 しかし今の彼女には、恐怖よりも自由の匂いが漂っていた。


◇ ◇ ◇


 発見されるリスクを避けるため、麓の街へ続く整備された最短ルートは使えない。

 二人は、かつて人が通った痕跡だけが残る獣道を、深夜から何時間も歩き続けていた。

 りんも日下部も、すでに疲労の色が濃い。


 山を下る途中、小さな廃屋が目に入った。

 日下部は、そこでひと息つくことを決める。


 内部は埃が舞い、使われなくなった囲炉裏がぽつんと残っている。

 湿気を含んだ床と、壁の隙間から忍び込む冷気が、長い空白の時間を物語っていた。


「少し休もう。ここなら見つからない」

「……うん」


 りんは床に座り込み、膝を抱えた。

 睡眠不足と疲労で、少し顔色が悪い。


 日下部は持ち出した乾パンを差し出す。

「こういうの、初めて食べる」

「美味くはないけど、腹には溜まる」

「ううん、十分美味しいよ。外で食べるの、初めてだから」


 彼女はひと口食べて目を細めた。

「……こんな味、知らなかった」


 その言葉に、日下部は胸が痛む。

 彼女が知っているのは、実験室の光と、焼ける匂いだけだった。

 それ以外の“生”を、どれだけ奪われてきたのか。


◇ ◇ ◇


 ふと、りんが顔を上げた。

「ねえ、日下部さん」

「ん?」

「……追って、くると思う?」

「間違いなく、来る」

「見つかったら、どうなるの?」

「俺は……処分される。君は、また戻される」


 りんは少しの間、黙っていた。

 やがて小さく呟く。

「じゃあ、もう戻りたくない」


 その声には、涙の代わりに熱が宿る。

 彼女の肩が、淡く光った。——危うい。


 日下部はそっと彼女の手を取る。

「りん。落ち着け。大丈夫だ」

「でも……怖いの。もしまたあそこに戻ったら、

 もう“わたし”がいなくなる気がする」

「絶対に戻さない。君が人として生きられる世界を見つけるって言っただろ」


 その言葉に、りんの火は静かに鎮まる。

 温度は下がり、掌だけをほんのり温める程度に変わった。


挿絵(By みてみん)

◇ ◇ ◇


 外で、遠くの山道から金属音が響く。

 カン、カン、と規則的に。

 日下部は息を呑み、りんの肩を押して囁く。

「……静かに。誰かいる」


 廃屋から顔だけを出して様子を伺うと、霧の向こうに懐中電灯の光が四つ確認できた。

 自衛隊員だ。銃を持ち、無線で連絡を取り合っている。


「捜索範囲を拡大。対象は被験体、火06号"火野りん"。

 発見次第、確保せよ。同行者がいる場合は強制排除を許可する」


 りんの肩が震えた。

 日下部は唇を噛みしめ、彼女の手を強く握る。

「走るぞ」

「どこへ?」

「どこでもいい、あの人たちの届かない場所へ」


◇ ◇ ◇


 二人は霧の中を駆け出す。

 足元の土が湿って滑る。

 風が強まり、木々の葉がざわめく。


 りんの呼吸が荒くなる。

「日下部さん……!」

「大丈夫だ、止まるな!」


 その瞬間、銃声が響く。

 乾いた一発が夜を裂き、土がはじけて山肌に弾丸が食い込む。

「くそっ、撃ってきた……!」


 りんが思わず振り返る。

 瞳の奥が赤く光った。

「やめろ、りん! 使うな!」

「でも——!」


 次の瞬間、りんの掌から白い炎が弾ける。

 空気が歪み、熱が地面を焦がす。

 遠くの木々が一斉に燃え上がる——箱根の森が火を噴いた。


◇ ◇ ◇


 追手の叫び声が遠ざかる中、しばらく走った後、りんはその場に膝をついた。

「ごめんなさい……止められなかった……!」

「いいんだ、今は逃げるんだ」

「でも……あの火、もう——」


 りんの手が震える。

 近くの火の勢いを止めようとしても、制御が効かない。

 長年の実験の反動が、今になって牙をむいているのだろう。


 日下部は彼女を抱き寄せる。

「りん、俺を見ろ。大丈夫だ。お前は、まだ生きてる」

「……ほんとに?」

「ああ。大丈夫。——どこまでも一緒に行こう。」


 その言葉に、りんは微かに笑った。


◇ ◇ ◇


 夜明け。

 山の向こうに炎の赤と朝日の橙が重なる。

 まるで、二人の逃亡を祝福するかのように、世界の端を照らしていた。

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