表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/11

第五章 決意の灯

 それは、約束を交わした日の、ほんの数週間後のことだった。


 日下部が研究所に来て三か月。

 山の緑は深く、箱根の空気は湿り気を帯びていた。

 そんな季節の変わり目でも、研究所の空気だけは日に日に冷たくなっていった。


◇ ◇ ◇


「……次の段階に入る」

 柊主任の声には、いつもの無機質な響きがあった。


「りんの火力制御は、既に臨界値に達している。

 次は、発火限界を試す」

「発火……限界?」

「そうだ。どこまで出力を上げられるか、そしてどの時点で生命維持が困難になるかを観測する」


 日下部の手が無意識に拳を握る。

「待ってください、それは……人体実験そのものじゃないですか」

「君は補助員だ、日下部君。指示に従え」


 柊主任の視線が、冷たい硝子のように突き刺さる。

「彼女は“被験体 火06号”だ。ただの人間ではない、“国家の資産”だ」

「国家の資産だからこそ、安全な範囲で慎重に観察すべきではないですか」

「安全と思われる範囲の実験はやり尽くしている。実験は既に次の段階に進むべきだ。上層部からも、早急に段階を進めるよう指示を受けている。悠長に安全な実験ばかり行う暇はない」

「ですが……」


 反論しようにも、言葉が続かない。

 ここは国立研究所。国益最優先で研究を進めるのは当然のこと。

 頭では理解できても、胸の奥は納得できず、もどかしい思いだけが募った。


◇ ◇ ◇


 夜。研究所の照明が落ちたあとも、日下部はデスクに向かい資料を見つめていた。

 目が離せなかったのは、自身が赴任する前に行われた、高火力出力実験の記録だ。


「被験体 火06号 発火時の自律抑制反応、この値を境に低下」


 ……つまり、この値以上の出力は、命を削るということだ。


 ページをめくる指が震える。紙と紙が擦れる音が、静電気のように弾ける。

 その音が、遠くで火花のように散った気がした。


——「外の風の匂い、もう一度、教えて」


 あの言葉が、耳の奥でふと蘇る。

 彼女が晴れた空の下、草原で笑う姿。

 だが、それは机上の書類の中には存在しなかった。


 朝になれば実験が始まる。

 これから先の実験で、彼女に命の保証はない。

 国家の資産として貴重とはいえ、レゾナントは続々と発見されていると所内の噂で聞く。

 となれば、彼女は捨て石として厳しい実験に使われる可能性が高い。

 国家の将来を考えれば、それが合理的——その事実を、日下部は理解できてしまっていた。


「……クソッ」


 拳で机を叩いた。

 乾いた音が夜の研究所に響き、すぐに静寂に吸い込まれる。


◇ ◇ ◇


 夜遅く。日下部はりんの居室の前に立った。

 何度もノックしようとして、手を下ろす。

 それでも結局、ノックの音を鳴らした。


「どうぞ」

 少し眠そうな声が返る。


 部屋に入ると、りんはベッドに腰かけていた。

 足元には、小さなノート。表紙には、火で焦がしたような痕がある。


「夜更かし、珍しいね」

「眠れなくて」

「……明日、何かあるの?」

「うん。主任が、次の実験をするって」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。


 りんは穏やかな笑みを浮かべながら言った。

「怖くはないよ。痛みにも、もう慣れたし」

「慣れていいものじゃない」

「じゃあ、どうしたらいいの?」


 その声が、あまりにまっすぐだった。

 日下部は言葉を失い、立ち尽くす。


 こんなにも純粋でまっすぐな少女を、国家の都合で利用するのが本当に正しいことだろうか。

 今や自分の中で、被験体以上の存在となった火野りんを見殺しにしたとして、自分を正当化できるだろうか。

 どれほど考えを巡らせても、答えは出てこない。


 最後に日下部の背中を押したのは、さまざまな想いの詰まった衝動だった。


「……りん、約束、覚えてるか?」

「うん。“外に出たら、草の上で空を見る”」

「そう。その約束、今から果たしに行こう!」


 りんの瞳が大きく開かれる。

「……え?」

「ここを出よう」

「……外に?」

「そうだ。君が人として生きられる世界を、見つける」


 束の間の沈黙の後、りんは小さく息を呑み、微笑んだ。

「また、勝手な人だね」

「かもな」

「でも、好き。——そういうところ」


 その瞬間、りんの掌で、わずかに火が灯った。

 今までで1番柔らかく、日下部の頬を撫でる春風のような熱だった。


◇ ◇ ◇


 夜更け。

 研究所の外れにある非常口のロックを解除し、りんの手を取り、二人は外へ踏み出す。


——冷たい風。

——草と土の匂い。


 りんが小さく笑った。

「本当に……あったんだね、この匂い」

「ほら、言っただろ。春は草と土の匂いだ」


 二人は暗闇の向こうへ、静かに駆け出した。

挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ