第五章 決意の灯
それは、約束を交わした日の、ほんの数週間後のことだった。
日下部が研究所に来て三か月。
山の緑は深く、箱根の空気は湿り気を帯びていた。
そんな季節の変わり目でも、研究所の空気だけは日に日に冷たくなっていった。
◇ ◇ ◇
「……次の段階に入る」
柊主任の声には、いつもの無機質な響きがあった。
「りんの火力制御は、既に臨界値に達している。
次は、発火限界を試す」
「発火……限界?」
「そうだ。どこまで出力を上げられるか、そしてどの時点で生命維持が困難になるかを観測する」
日下部の手が無意識に拳を握る。
「待ってください、それは……人体実験そのものじゃないですか」
「君は補助員だ、日下部君。指示に従え」
柊主任の視線が、冷たい硝子のように突き刺さる。
「彼女は“被験体 火06号”だ。ただの人間ではない、“国家の資産”だ」
「国家の資産だからこそ、安全な範囲で慎重に観察すべきではないですか」
「安全と思われる範囲の実験はやり尽くしている。実験は既に次の段階に進むべきだ。上層部からも、早急に段階を進めるよう指示を受けている。悠長に安全な実験ばかり行う暇はない」
「ですが……」
反論しようにも、言葉が続かない。
ここは国立研究所。国益最優先で研究を進めるのは当然のこと。
頭では理解できても、胸の奥は納得できず、もどかしい思いだけが募った。
◇ ◇ ◇
夜。研究所の照明が落ちたあとも、日下部はデスクに向かい資料を見つめていた。
目が離せなかったのは、自身が赴任する前に行われた、高火力出力実験の記録だ。
「被験体 火06号 発火時の自律抑制反応、この値を境に低下」
……つまり、この値以上の出力は、命を削るということだ。
ページをめくる指が震える。紙と紙が擦れる音が、静電気のように弾ける。
その音が、遠くで火花のように散った気がした。
——「外の風の匂い、もう一度、教えて」
あの言葉が、耳の奥でふと蘇る。
彼女が晴れた空の下、草原で笑う姿。
だが、それは机上の書類の中には存在しなかった。
朝になれば実験が始まる。
これから先の実験で、彼女に命の保証はない。
国家の資産として貴重とはいえ、レゾナントは続々と発見されていると所内の噂で聞く。
となれば、彼女は捨て石として厳しい実験に使われる可能性が高い。
国家の将来を考えれば、それが合理的——その事実を、日下部は理解できてしまっていた。
「……クソッ」
拳で机を叩いた。
乾いた音が夜の研究所に響き、すぐに静寂に吸い込まれる。
◇ ◇ ◇
夜遅く。日下部はりんの居室の前に立った。
何度もノックしようとして、手を下ろす。
それでも結局、ノックの音を鳴らした。
「どうぞ」
少し眠そうな声が返る。
部屋に入ると、りんはベッドに腰かけていた。
足元には、小さなノート。表紙には、火で焦がしたような痕がある。
「夜更かし、珍しいね」
「眠れなくて」
「……明日、何かあるの?」
「うん。主任が、次の実験をするって」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。
りんは穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「怖くはないよ。痛みにも、もう慣れたし」
「慣れていいものじゃない」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
その声が、あまりにまっすぐだった。
日下部は言葉を失い、立ち尽くす。
こんなにも純粋でまっすぐな少女を、国家の都合で利用するのが本当に正しいことだろうか。
今や自分の中で、被験体以上の存在となった火野りんを見殺しにしたとして、自分を正当化できるだろうか。
どれほど考えを巡らせても、答えは出てこない。
最後に日下部の背中を押したのは、さまざまな想いの詰まった衝動だった。
「……りん、約束、覚えてるか?」
「うん。“外に出たら、草の上で空を見る”」
「そう。その約束、今から果たしに行こう!」
りんの瞳が大きく開かれる。
「……え?」
「ここを出よう」
「……外に?」
「そうだ。君が人として生きられる世界を、見つける」
束の間の沈黙の後、りんは小さく息を呑み、微笑んだ。
「また、勝手な人だね」
「かもな」
「でも、好き。——そういうところ」
その瞬間、りんの掌で、わずかに火が灯った。
今までで1番柔らかく、日下部の頬を撫でる春風のような熱だった。
◇ ◇ ◇
夜更け。
研究所の外れにある非常口のロックを解除し、りんの手を取り、二人は外へ踏み出す。
——冷たい風。
——草と土の匂い。
りんが小さく笑った。
「本当に……あったんだね、この匂い」
「ほら、言っただろ。春は草と土の匂いだ」
二人は暗闇の向こうへ、静かに駆け出した。




