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第四章 約束

 研究所に春が訪れた。

 とはいえ、山奥の空気はまだ冷たく、夜には吐く息が白くなる。

 それでも、研究棟の窓の外には、少しずつ若葉が顔を出していた。


 日下部は、最近その窓際に立つのが好きになっていた。

 りんが小さく笑うようになってから、研究所全体を包んでいた冷たい空気が、少しだけ柔らかくなった気がするのだ。


◇ ◇ ◇


 その日、定期実験の合間に、柊主任が珍しく外出していた。

「午前中の記録だけまとめておいてくれ」と言い残して——つまり、午後の実験はなく、気兼ねする上司もいない。


 日下部は資料室で整理していた資料を閉じると、そっとりんの居室へ向かった。

 廊下の突き当たり、分厚い防火扉の前で、数秒だけ躊躇する。

 だが、ノックする音は自然と出ていた。


「どうぞ」

 静かな声が返る。


◇ ◇ ◇


 りんは窓際に座り、ノートに何かを書いていた。

 白い実験着ではなく、淡い灰色の室内着姿。

 研究所に来て以来、初めて——“普通の女の子”に見えた瞬間だった。


「勉強してるの?」

 日下部が尋ねると、りんは顔を上げて小さく笑う。


「文字を書くの、好きなの。消されないで残るから」

「……消されるって?」

「わたしたちの記録は、ほとんど全部入れ替わるの。担当者が変わるたびに。

 名前も、履歴も、好きだったこととかも。機密保持のためなんだってさ」


 その声は淡々としていたが、ノートの端に書かれた文字がわずかに震えていた。


——“りん”。


 それは、火野りんではなく、ただの“りん”。

 戦争孤児として保護された際に唯一確認できた、彼女にまつわる情報だ。

 頻繁に名前が変わる彼女の名前の中で、りんという名前だけは変わらず残っている。

 そのノートは、彼女の存在の証だった。



 しばらくの沈黙のあと、りんが窓の外を見つめながらぽつりと言う。


「外って、どんな匂いがするの?」

「匂い?」

「うん。外に出たこと、あんまり覚えてないの。

 小さいころに一度だけ出た覚えがあるけど、煙と灰の匂いしかなかった」


 日下部は少し考え、言葉を選ぶように答えた。


「春の外は、少し湿ってて、風が柔らかい。

 山なら、草の匂いと土の匂い、それから……火を使わないあたたかさ、かな」


 りんの目が、わずかに細まった。


「……いいな、それ」


 そして小さな声で続ける。


「もし外に出られたら、草の上に寝転がってみたい。

 火を出さないで、空を見上げてみたいの」


 その願いはあまりにもささやかで、それでいて彼女にとっては、きっと叶えることの方が難しい。


 日下部は静かにうなずいた。


「もし、そのときが来たら……俺が連れていくよ」


 りんは驚いたように彼を見つめ、ゆっくりと微笑んだ。


「約束、してくれる?」

「うん。約束する」


 その瞬間、りんの指先にかすかな光が灯った。

 火ではなく、蛍のように儚い光だった。


◇ ◇ ◇


 夕暮れ、日下部が居室を出ようとしたとき、りんが呼び止めた。


「ねえ」

「ん?」

「外の風の匂い、もう一度、教えて」


 日下部は少し笑って答える。


「春は草と土の匂い。夏は……火の匂いが混じる」

「火の?」

「うん。太陽の熱、アスファルトの焼ける匂い。

 ——でも、それは“生きてる匂い”なんだ」


 りんは静かに目を閉じた。

 その表情は、どこか安らかだった。


挿絵(By みてみん)

◇ ◇ ◇


 その夜、日下部は机の上に小さなメモを残した。


『外に出られたら、春の草の上で空を見ること』

『りんと一緒に』


 メモの端には、火の跡のような小さな焦げ。

 まるで、彼女の“火”が静かに印をつけたかのようだった。

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