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第三章 小さな灯火

 日下部が研究所に来てから、一週間が過ぎた。

 彼は毎日のように、観測室の奥にある——りんの居室へ足を運んでいた。


 研究補助という名のとおり、彼の仕事はりんの脈拍、体温、脳波を記録し、データとしてまとめること。

 数字だけを見ていれば、ただの作業だ。

 だが、その数字の向こうに“人の心”があると気づいてから、日下部はその作業を割り切れなくなっていた。


 毎日部屋に入ってきては他愛ない会話を投げかけ続ける日下部に、最初は戸惑っていたりんも、少しずつ会話をするようになっていた。


◇ ◇ ◇


 その日の実験は、精密な温度制御だった。

 りんは実験室の中央で、黙々と手のひらを開閉している。

 表情は静かだが、汗がこめかみを伝っていた。

 限界に近い制御を要求されているのが分かる。


 柊主任が、冷たく短く告げる。


「りん、あと五度だ」

「……はい」

「無理なら言え」

「大丈夫です」


 淡々としたやり取り。

 だが、りんの声には痛みに耐えるような硬さがあった。


 観察ガラス越しにその様子を見つめる日下部の胸に、微かな痛みが生まれる。


◇ ◇ ◇


 夜。

 残業でデータ処理室に残っていた日下部は、ようやく記録ファイルを閉じようとしていた。

 外はすでに暗く、山の冷えた空気が窓の隙間から流れ込んでくる。


 そのとき——背後で、足音。


 振り向くと、白い影が廊下に立っていた。

 りんだった。

 薄い夜の光の中で、白い実験着がふわりと輝きを返す。


「……どうしてここに?」

「消灯後の廊下くらい、歩いたっていいでしょ?」

 少しだけ冗談めかした声音。


「警備に見つかったら、また主任に叱られるよ」

「叱られるの、慣れてるから」


 りんはそう言って、日下部の隣の机に腰を下ろした。


「今日の実験で疲れているんじゃないか? 明日も別の実験があるし、早めに休んだ方が——」

「私、疲れやすいけど回復は早い方なの。それに、実験して寝るだけなんて、退屈でしょ?」


「……そっか」


 いつも通りの自然な口調だった。

 本当に疲れてはいないのだと分かり、日下部は少し安心した。


 短い沈黙が落ちる。

 窓の外から、虫の声がかすかに届いた。


 りんは机上の紙束を指でなぞりながら——ぽつりと言う。


「ねえ。どうして、わたしに優しくするの?」


 日下部は手を止めた。


「……優しくしてるつもりはないよ。研究者として、被験者の状態を毎日観察するのは当然の——」

「そういうの、何度も聞いた。でも、観察だけなら奥の部屋から見れば済むでしょ。

 そうじゃなくて……色々と気にかけて話しにきてくれたり、どうしてなのかなって」


 純粋な問いだった。

 その眼差しが、十数年前に命を落とした妹とほんの一瞬重なり、日下部は返答に迷う。


「別に……深い意味はないよ。強いて言えば、自分の都合かな。人として君と向き合うべきだと思ってる、というか」


「ふーん。自分の都合ね」


 りんは笑ったような、呆れたような曖昧な顔をして、窓の外に目を向けた。


「でも、“人として扱う”って言う人ほど、すぐにわたしを実験体に戻すんだよね。

 前に担当だった人もそうだった。みんな、勝手だよね。」


 その瞳は、どこか遠くを見ていた。

 光を宿さない、静かな湖のような目だった。


 再びの沈黙。

 日下部は言葉を探し、そして問う。


「……君はさ。もし火を出せなくなったら、どうする?」

「火を?」

「そう。火を出せなくなって、普通の人になって……普通に、生きられたら」


 りんはふっと笑った。

 切なさを含んだ、柔らかい笑みだった。


「火を出せなくなったら、わたしは“誰でもなくなる”。

 この国にとっても、わたしにとっても——意味がなくなるの」


 そう言うと、自分の手のひらをじっと見つめる。

 指先がわずかに赤く光り、すぐに消えた。


「でもね。不思議なの。

 火を出してるときだけ、生きてるって思えるの」


 日下部の胸が、きゅっと締めつけられた。

 彼女が火を出すことは——命令ではなく、“存在の証明”なのだと。


◇ ◇ ◇


 りんが立ち上がる。


「……ありがとう」

「何に?」

「今日、話してくれたこと。

 こうやって誰かと話すの……久しぶりだったから」


 扉の前で振り返り、りんは小さく微笑んだ。

 日下部が見た、初めての——“少女の顔”。


 扉が閉まったあとも、その笑みの温度は胸の奥に残り続けた。

 静かな夜の研究所で、それは小さな灯のように、静かに揺れていた。


挿絵(By みてみん)

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