第二章 種火
翌朝、箱根の山は深い霧に包まれていた。
施設の中庭に並ぶ鉄柵が、白い靄の向こうにぼんやりと溶けて見える。
日下部は白衣の袖を整えながら、胸の奥に落ち着かないざわめきを感じていた。
「レゾナント」——。その単語が、頭の中で何度も反響する。
人間でありながら、人間ではない存在。
柊主任が嘘をつく理由はない。それでも、実際に目にするまでは完全には信じられないでいた。
実験室へ向かうと、扉の前にはすでに柊主任が立っていた。
「……緊張しているようだね、日下部くん」
「正直、少しだけ。昨日は……あまりに現実味のない話を伺って、夢を見ているようでした」
「夢で済めばいいがな。——中へ入ろう」
◇ ◇ ◇
分厚い防火扉の向こうは、円形の実験室だった。
中央にはガラスに囲まれた小さな区画があり、その中に——りんがいた。
白衣に似た実験用の服をまとい、両手を静かに組んで立つ。
表情は無。けれど、その立ち姿には妙な安定感があった。
足元には温度計と圧力計、壁際には観測用の機器が整然と並ぶ。
柊が短く告げる。
「被験体・火06号。制御試験、開始」
室内の空気が張りつめ、呼吸の音だけがやけに大きく響く。
日下部の心拍も、知らぬ間に速まっていた。
りんがわずかにうなずく。
その瞬間、空気が震えた。
——シュウッ。
小さな火花の音。
りんの手のひらに、赤い点が灯る。
それは、空気が火を思い出したかのように震えながら、ゆっくりと花弁の形に広がっていく。
やがて彼女の掌からふわりと浮かび上がり、柔らかく、無音の炎となった。
「温度上昇、周囲+四十度」
柊がモニターを読み上げる。冷徹な数字とは裏腹に、その声にはわずかに称賛の色があった。
「心拍は安定、脳波も平常領域だ。制御は良好だな」
日下部は計器の数値を確認した。
理屈としては理解できる数値ばかりだ。
だが——その現象を生み出しているのが器具ではなく、人の手であるという事実を、どう扱えばいいのか分からなかった。
——これが、“レゾナント”。
初めて目の当たりにするレゾナントの力。
原理への興味も、人体への影響への関心も尽きない。
それでも日下部の視線は、いつの間にか彼女の横顔へと引き寄せられていた。
火を見つめるりんの瞳は、静かすぎるほど静かだった。
そこには感情の揺らぎがほとんどない——まるで、揺れることを許されていないかのように。
それでもほんの一瞬、火の明かりが彼女の頬を照らした時、微かに何かが揺れたように見えた。
涙——のような。
◇ ◇ ◇
実験が終わり、りんは火を消すと、黙って部屋を出ようとした。
柊が記録を取る間に、日下部はそっと彼女へ歩み寄る。
「すごかった……」
思わず漏れた言葉だった。
りんが足を止め、ゆっくり振り返る。
首を小さく傾け、問いかけた。
「……こわくないの?」
「こわい、というより……信じられないよ。人の手から火が生まれるなんて」
「信じられない方が、きっと正しいよ」
彼女は小さく笑った。
その笑みはぎこちなく、笑い方を忘れた人のようだった。
「火はね、あたたかいけど……必ず、何かを失わせるの」
「失わせる……?」
「うん。わたしも、ずっとそうやって生きてきたから」
日下部は言葉を失った。
火を消したあとも、彼女の手のひらは赤く染まっている。
それが“熱”なのか、“痛み”なのか、彼には分からなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
日下部は研究所の狭い宿舎のベッドに腰を下ろし、窓の外に目を向けた。
山の向こう、街の灯りがかすかに揺れている。
——火はあたたかいけど、必ず何かを失わせる。
その言葉が耳に残る。
失う、という感覚を、日下部は誰よりも知っていた。
——戦火の夜。
——焼け落ちる家。
——泣きながら手を伸ばした、妹の顔。
記憶の残滓が脳裏をかすめる。
なぜ自分がここに招かれたのか——その答えはまだ見えない。
だが、一つだけはっきりと分かった。
火野りんという存在は、これから自分の中で、きっと大きくなっていく




