表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/11

第二章 種火

 翌朝、箱根の山は深い霧に包まれていた。

 施設の中庭に並ぶ鉄柵が、白い靄の向こうにぼんやりと溶けて見える。


 日下部は白衣の袖を整えながら、胸の奥に落ち着かないざわめきを感じていた。

 「レゾナント」——。その単語が、頭の中で何度も反響する。

 人間でありながら、人間ではない存在。

 柊主任が嘘をつく理由はない。それでも、実際に目にするまでは完全には信じられないでいた。


 実験室へ向かうと、扉の前にはすでに柊主任が立っていた。


「……緊張しているようだね、日下部くん」

「正直、少しだけ。昨日は……あまりに現実味のない話を伺って、夢を見ているようでした」

「夢で済めばいいがな。——中へ入ろう」


◇ ◇ ◇


 分厚い防火扉の向こうは、円形の実験室だった。

 中央にはガラスに囲まれた小さな区画があり、その中に——りんがいた。


 白衣に似た実験用の服をまとい、両手を静かに組んで立つ。

 表情は無。けれど、その立ち姿には妙な安定感があった。

 足元には温度計と圧力計、壁際には観測用の機器が整然と並ぶ。


 柊が短く告げる。

「被験体・火06号。制御試験、開始」


 室内の空気が張りつめ、呼吸の音だけがやけに大きく響く。

 日下部の心拍も、知らぬ間に速まっていた。


 りんがわずかにうなずく。

 その瞬間、空気が震えた。


——シュウッ。


 小さな火花の音。

 りんの手のひらに、赤い点が灯る。

 それは、空気が火を思い出したかのように震えながら、ゆっくりと花弁の形に広がっていく。

 やがて彼女の掌からふわりと浮かび上がり、柔らかく、無音の炎となった。


「温度上昇、周囲+四十度」

 柊がモニターを読み上げる。冷徹な数字とは裏腹に、その声にはわずかに称賛の色があった。

「心拍は安定、脳波も平常領域だ。制御は良好だな」


 日下部は計器の数値を確認した。

 理屈としては理解できる数値ばかりだ。

 だが——その現象を生み出しているのが器具ではなく、人の手であるという事実を、どう扱えばいいのか分からなかった。


——これが、“レゾナント”。


 初めて目の当たりにするレゾナントの力。

 原理への興味も、人体への影響への関心も尽きない。

 それでも日下部の視線は、いつの間にか彼女の横顔へと引き寄せられていた。


 火を見つめるりんの瞳は、静かすぎるほど静かだった。

 そこには感情の揺らぎがほとんどない——まるで、揺れることを許されていないかのように。

 それでもほんの一瞬、火の明かりが彼女の頬を照らした時、微かに何かが揺れたように見えた。

 涙——のような。


◇ ◇ ◇


 実験が終わり、りんは火を消すと、黙って部屋を出ようとした。

 柊が記録を取る間に、日下部はそっと彼女へ歩み寄る。


「すごかった……」

 思わず漏れた言葉だった。


 りんが足を止め、ゆっくり振り返る。

 首を小さく傾け、問いかけた。


「……こわくないの?」


「こわい、というより……信じられないよ。人の手から火が生まれるなんて」

「信じられない方が、きっと正しいよ」


 彼女は小さく笑った。

 その笑みはぎこちなく、笑い方を忘れた人のようだった。


「火はね、あたたかいけど……必ず、何かを失わせるの」

「失わせる……?」

「うん。わたしも、ずっとそうやって生きてきたから」


 日下部は言葉を失った。

 火を消したあとも、彼女の手のひらは赤く染まっている。

 それが“熱”なのか、“痛み”なのか、彼には分からなかった。


挿絵(By みてみん)

◇ ◇ ◇


 その夜。

 日下部は研究所の狭い宿舎のベッドに腰を下ろし、窓の外に目を向けた。

 山の向こう、街の灯りがかすかに揺れている。


——火はあたたかいけど、必ず何かを失わせる。


 その言葉が耳に残る。

 失う、という感覚を、日下部は誰よりも知っていた。


——戦火の夜。

——焼け落ちる家。

——泣きながら手を伸ばした、妹の顔。


 記憶の残滓が脳裏をかすめる。


 なぜ自分がここに招かれたのか——その答えはまだ見えない。

 だが、一つだけはっきりと分かった。


 火野りんという存在は、これから自分の中で、きっと大きくなっていく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ