第十章 あなたのいない世界で
日下部さんの体は、腕の中であっけないほど軽かった。
ついさっきまで、一緒に歩いていたのに。
草の上で寝転がって、春の空を見て。
「これからの人生」を語ったばかりだったのに。
なのに。
胸に開いた赤い穴は、彼がもう戻らないことを静かに告げていた。
「……なんで……」
問いの続きはいらなかった。
返事が返ってくるはずがないからだ。
日下部さんの手は冷たくなり始めていた。
その冷たさが指先に伝わるたび、胸の奥がずきりと軋んだ。
遠くで、がさりと何かが動く音がする。
でも私は、そちらを見なかった。
視界の端で影がゆっくりと動く。
複数の足音が、慎重に、そして確実に近づいてくる。
木々の向こうで、誰かが手信号を送っていた。
(ああ……来るんだ)
頭のどこか、とても遠い感覚で、それだけを理解した。
自衛隊の人たち。
日下部さんを撃った人たち。
私をまた、元の場所に連れ戻しに来た人たち。
でも――心は微動だにしなかった。
そんなことは、どうでもよかった。
私はただ、彼の手を握り直した。
もう温もりを返さない、その手を。
涙を拭くことさえ忘れたまま、彼の顔を覗きこむ。
その横顔は、苦しそうではなく、どこか穏やかだった。
「いっしょに……生きようって……言ったのに……」
声が震える。
遠くへ行こう。
能力のことは忘れて、普通に暮らそう。
朝日を見て、夕飯の匂いを感じて、名前を呼び合って。
そんな未来を、初めて見せてくれた人だった。
なのに。
私だけ、こんな場所に置き去りにしないでほしかった。
胸の奥がぎゅっと縮み、呼吸が浅くなる。
私はそっと日下部さんの胸元に額を押しつけた。
血の匂いがする。
その奥には、研究室でいつも感じた、落ち着いた彼の匂いがまだ残っていた。
あの匂いが好きだった。
穏やかで、静かで、安心できて。
誰からも優しくされたことのなかった私にとって、それは救いのような温度だった。
瞼を閉じると、いくつもの場面が浮かぶ。
初めて会った時、遠くからでも私を「人」として見てくれた目。
実験で疲れた夜に交わした、他愛のない会話。
一緒に水を飲みながら語った、これからの話。
たった数ヶ月なのに、私の世界はもう、彼で満ちていた。
「……ひとりなんて……もう無理だよ……」
声が涙に溺れる。
戦争孤児として施設に入り、能力が発現してからは研究所の実験室で生きてきた。
朝も夜もデータに囲まれ、感情も希望も削られていった。
人を好きになることなんて、知らなかった。
そんな私に、
“生きたい未来”
をくれたのは日下部さんだった。
彼がいない未来なんて、考えられない。
ここでひとりで生きるくらいなら――
同じ場所へ行きたい。
その想いは、怒りでも暴走でもない。
湖のように凪ぎ、静かで深かった。
私は、彼の胸から顔を上げた。
頬に残る涙の跡をそのままに、彼の手を両手で包み込む。
「……すぐ行くからね」
誰に聞かせるでもない、最後の約束。
私はゆっくりと立ち上がる。
山の夜風が冷たい頬をなでた。
春の匂いがかすかに混じっていた。
私が初めて知った季節。
そして、彼が最後に見た季節。
その空気を胸いっぱいに吸い込み、目を閉じる。
体の奥で、熱が生まれはじめる。
でも暴れたりはしない。
怒りで放つ炎ではない。
――彼のもとへ行くための、静かな灯。
揺らがず、真っすぐで、澄んだ光。
焚き火のようにほのかで、
やがて山全体を包むほど大きくなる。
私の影が、赤く染まる。
「日下部さん……」
名前を呼んだ瞬間、体は光の中心へと溶けていった。
そして夜の箱根山は、
ひとりの少女の決意だけを残して、ゆっくりと燃え上がった。




