第一章 霧の山と火の少女
霧が深い。
冬の箱根はいつも静かだが、この日はとりわけ、息を吸うたび肺の奥がひやりと凍るようだった。
日下部 暖人、二十四歳。
東京大学大学院の二年生。
国立研究所への就職が内定しており、将来を嘱望され、卒業を前に極秘研究機関への臨時派遣が決まった。
国立研究所・箱根分室。
地図にもない施設。政府関係者ですら、その存在を知らない者がほとんどだという。
トラックの荷台で揺られながら、日下部は膝の上の封筒を見つめていた。
——国家機密につき、口外厳禁。
赤字で記された言葉は、家族にすら語ることを許さないという重みを帯びていた。
(いったい……何を研究しているんだ?)
初老の運転手が、振り返らずにぼそりと言う。
「お兄さん、今日からあそこで働くんだってな。……あんまり詳しいことは知らんが、ここは“とんでもない研究”をしてるってもっぱらの噂だ。悪いことは言わん、深入りするな」
返事をしようとしたが、喉が乾いて声にならなかった。
やがて霧の中から鉄の門が現れ、無骨な建物群が冷たい空の下に沈んでいく。
⸻
「日下部 暖人くんだね」
迎えに現れたのは四十代半ばほどの男。
白衣の胸元には“主任研究官・柊”の名札が見える。
彼は書類を見つつ歩き、手短に説明を始めた。
「君には、特殊な被験者のデータ採取を手伝ってもらう。危険は極力抑えるが、慎重に関わってほしい」
「……特殊、というのは?」
日下部の問いに、柊は歩調を緩めた。
蛍光灯の白い光が、彼の横顔を照らす。
「“レゾナント”という言葉を聞いたことがあるかね?」
「いいえ」
「簡単に言うと——この国が初めて遭遇した、“進化の証”だ」
柊は淡々と続ける。
数年前、戦後の混乱期に現れた“人智を超える現象を起こす人間”たち。
火を起こす者、風を操る者、水を呼ぶ者──。
国家は彼らを極秘裏に保護・隔離し、「レゾナント(共鳴者)」と名付けた。
「……つまり、僕の担当する被験体も?」
「ああ。その一人だ。“人間”であることは確かだが、君がこれまで知る人間とは少し違う」
柊は「実験棟」と記された扉の前で足を止めた。
「君の担当は“火06号”、通称“火野りん”。正式登録名は火06号だが、便宜上ここでは“りん”と呼んでいる」
そう言って扉を開き、日下部を中へ促した。
⸻
実験棟を巡った後、最後に案内されたのは最奥の観測室だった。
ガラス越しに隣室を一望できる造りだ。
そこに、一人の少女がいた。
年齢は高校生ほどだろうか。肩まで伸びた黒髪は艶やかで、小柄で華奢な体つきに、外に出る機会の少なさを思わせる白く細い手足がよく映えている。
少女は椅子に腰かけ、窓の外をじっと見つめている。
黒髪の一部が光を受け、かすかに赤く揺れた。
周囲の空気が、ほんのわずかに温く見える。
状況からして、彼女が“りん”に違いない。
国家が極秘に扱う能力者──その肩書きとは裏腹に、目の前の少女はただ物静かで、どこにでもいる年相応の子に見える。
けれど、その静けさの奥に、言葉にできない“熱”の気配が潜んでいた。
「彼女が火野りんだ」
柊が資料を渡す。
「……」
日下部は息を飲む。
「戦争孤児として保護施設に入ったが、火の制御能力が判明し、すぐに能力解析が始まった。今では自力で高温の火を生み出せる。ただし長年の実験の影響なのか、人としての感情が乏しくなってしまった」
ガラス越しに見る少女は、まるで炎の気配を閉じ込めた硝子細工のように静かで、脆く見えた。
「……彼女が“火”を出すところを見てみたいです」
自分の声が少し震えていた。
興味か、恐れか、自分でもわからない。
柊は軽くうなずく。
「明日の午前九時の実験に立ち会わせよう。——君もすぐにわかるさ。“あの火”がどんなものなのか」
そのとき、りんがこちらに気づき、ゆっくりと振り返った。
瞳が、日下部をまっすぐ射抜く。
無表情の奥に、ほんの一瞬だけ、微かな色が揺れた。
それが、のちに彼の人生を変える“はじまりの火”だった。




