第一章 chapter02
ようやく太陽が、怒りにも似た拳をおろし始めた9月の半ば。街にはどこか「やれやれ」という開放感が漂っている。しかし、今日も木賊のリズムは変わらない。朝八時、工場内にはすでに機械音が響いていた。職人たちが黙々と作業台に向かい、規則正しいリズムで工具の音を重ねる。作業場の空気は乾燥し、働く人間の息遣いが感じられる。その空気が、彩花には懐かしく、同時に少しだけ重く感じられた。
水色の作業着の背中を見つける。祖父、木賊浩志。77歳。創業者であり、今は相談役という肩書きだが、現場を離れるつもりは毛頭ないようだ。
「――これ、0・02ミリの公差、超えてるな」
工場1階、金属加工部では、チタン部品を手に、浩志がモニターの前のベテラン職人に声をかける。若い頃なら怒鳴っていた場面だが、今は口調こそ穏やかだった。ただ、その目の鋭さは昔と変わらない。職人も真剣な面持ちで、浩志の指摘に耳を傾ける。
「……あの頃から、少しずつだけど、進んできたな」
あの頃。国のお役所へ向かう父の背中を目で追った浅い春の日。あの日から桜は幾度か花をつけ、彩花は当時の希望通り、木賊工業の広報・営業部門で働いていた。
木賊工業は、職人の手作業と先端技術が共存する会社だ。50人ほどの社員が、金属加工のほか、主に医薬品や食品関連の特殊な製造装置を設計・製造している。特にマイクロリアクターと呼ばれる手のひらサイズの反応装置の需要がここ数年で急激に高まり、国内外の展示会にもしばしば出展するようになった。
それに伴い、工場もリニューアルした。2階、3階部分を白と明るいグリーンを重視した開放的なデザインに。特に2階にはショールームのように自社技術を展示し、訪問者が見学できるように整えている。3階には、シンプルなデザインでガラスを多様した理系大学のような研究室スペースも。
熱心なじいちゃんがいて、腕のいい技術者たちがいる。木賊の心臓部は変わっていない。いい意味でも、悪い意味でも。
確かな技術を持つ超ベテラン、彼らが紡いできた精密な加工技術の上に、木賊式のマイクロリアクターは生まれた。もともと木賊は、医療機器、航空機向けのチタン加工部品を作る町工場だった。その後、精密機械加工のノウハウを蓄積し、治が社長になったことをきっかけに、先端技術の開発も行うようになった。
現在、チタン加工は売上10%ではあるが、金属部門の技術と歴史そのものが、レーザー加工の精度とクリーンルームなどの品質管理体制構築の基盤となったのだ。だからこそ、相談役となった浩志は今もチタン加工部門に陣取り、職人たちを統率していた。
金属加工と先端技術の両輪で……。しかしその体制も、はや20年。木賊の世代交代は、踊り場に差し掛かっていた。小さな町工場での属人化した技術の伝承は、大手や中堅企業よりも実は深刻な問題なのだ。
「社の若返りの問題は田中さんに任せて、と。私みたいな社長の身内が考えても、あっちこっちでカドが立つ」
「あやさん」
タイミング良く後ろから声を掛けてきたのは、その田中優子だ。ブラウンコーデのビジネスカジュアルである彩花に対し、スーツを身に纏っていることから外部の人間であることが見て取れる。優子は外部コンサルタントとして「採用」「補助金申請などの資金繰り」「人材の循環」など木賊の経営をあらゆる面でサポートしてくれる、スペシャルな存在だった。
社内に「トクサ姓」が複数いること、おまけに社名も同じということで、彩花は「彩花さん」から、今はそれが崩れて「あやさん」と呼ばれている。自分より一回りと少し年齢は上のはずだが、世代の壁を超えて親しくしてくれる優子に、彩花も全幅の信頼を置いていた。
「来月のトクサ祭り、チラシが上がってきたんですって? 見たい見たい」
「はい! 2階のショールームにあります。下に100枚置いて、残り900枚を来週からポスティングです」
「町工場の文化祭なんて、よく考えたわねえ。何社もコンサルで回ってきたけど、こんな町工場は初めてよ」
「大学時代に学部祭っていうのがあって。各学部が近隣の企業や学校と連携してイベントをしてたんです。それがヒントで」
彩花の出身大学は、学園祭とは別に、多くの学部が独自の学部祭を開いていた。産学連携で野菜や独自ブランドのケーキを売る農学部、小中学生を招いて使用済み牛乳パックで和傘を作り、イルミネーション素材として都に寄付する工学部。神田キャンパスにある国際コミュニケーション学部では外国語屋台、映画で学ぶ英語講座で中高生の人気を集めていた。
「神保町の駅を越えてまだまっすぐいくとスターバックスがあって、実行委員のみんなでMacBook持ち込んで打ち合わせしたり」
「靖国通りの?」
「はい、あそこがうちの学部の第二の会議室でした。で、高校生相手のイベント打って学部の紹介もできるから『これ、企業広報と採用のプロモーションになるんじゃないか』とずっと思ってたんです」
「あなた、企業広報を軸足にしたコンサルになりなさい。あ、私がこんなこと言ってたら社長に怒られちゃう」
「まずは木賊の名前を少しでも多くの人に知ってもらわないと」
「そうね、上でトクサ祭りの打ち合わせ、しましょ。さっき篠原くんも上がっていったわ」
階段を横並びで登っていく二人。優子の手は、薄く滑らせるように階段の手すりに触れている。
「そうだ、あやさん、リトアニアの書類、順調?」
優子の笑顔はいつも明るい。数年前に彼女がコンサルタントとして加わって以来、木賊の輸出事業は加速した。リトアニア、韓国、そしてチェコ。木賊製マイクロリアクターの需要は、海外で静かに広がっている。
「優子さんのおかげで、道が開けてるよ」
彩花は微笑む。優子は書類を確認しながら軽く手を振る。
「チームワークの力よ。木賊の技術と価値が、世界に届いてるだけ」
ここ数年、世界的な緊張がニュースを賑わせ、経済安保の言葉が飛び交っている。優子がまるで独り言のように呟いた。
「国が技術を戦略資源って呼び始めたの。AI、バイオ、ナノテク――木賊のリアクターも、注目されてる」
「注目って…いい意味で、ですよね?」
優子はここで彩花の方を見て笑った。
「もちろん。木賊は模範企業なんだから」