第九章 東京地裁の災い chapter08
裁判が大詰めに向かう頃、1通の手紙が九印法律事務所のポストに届いた。手にしたひかるが見たところ、切手はなく、手で投函されたものだ。光に透かし、顔を近づける。
「……?」
味気のない白い封筒、中の手紙はどこにでもあるようなコピー用紙。しかしそこには驚くべきことが印字されていた。
——公安七課による実験報告書から『小さな改造を前提とする』という内容が削除されております。その場所は『前駆体生成可能。兵器転用できるレベルの化合物が生成される』と書かれた実験報告書のまとめ部分です。製品そのものの危険性を訴え、裁判を有利にするためでした。
野添管理官、早瀬警部より『自白強要』を肯定する発言が何度も何度もあったことは御承知のことと思います。『拷問は痛みよりも精神的に』という発言もありました。
そして経産省から来た青い封筒(出所不明)が有力情報として取り調べに使用されております。九印の先生方、どうかこの青い封筒を探してください——
「これ、信じていいんだろうか。姉さんはどう思う?」
「向こう優位で進んでる今、ひっかけにこないでしょう。それにいたずらとも思えない」
野添管理官、の文字列を人差し指でなぞる。
「こんな名前を知ってるの、内部の人間でしょ」
「確かに!」
「女の人ですね」
ポツリとひかるが言う。皆が怪訝そうに顔を向ける。思わず「あ、すみません」とひかるは小さくなったが、哲也に促されて話し始めた。
「ウェディングプランナーをしてたとき、お礼状とかたくさん頂いてたんですけど、女の人からのお手紙って、こう、気持ちが溢れてることが多くて。ここ。『何度も何度も』『どうか』って、感情が滲んでますよね。逆に男の人は硬い表現を好むので『複数回』『可能であれば』とか書くだろうな……って」
「なるほど、納得。とにかく彩花さんを呼んで打ち合わせをしよう」
翌日、九印事務所に呼び出された彩花は、匿名の手紙を見せられた。
「この内容が本当なら、逆転の一手になることは間違いない。間違いないのだけれど……」
彩花とひかるに向けて、葉桜が解説する。
「このままでは証拠に使うのは少し難しい。差出人不明で内容の真偽が問われるから」
「刑事裁判は証拠の採用に対して間口が狭い。それほど厳格化されているということです」
「女の人っぽいんだけどね」
「そう言われればそうですね……」
その数秒後、彩花が大きな声を出した。
「あ! 取り調べの時にいた女性……あの人だけは、ヘビみたいに迫ってくる早瀬警部を止めてくれていたような……」
「三原補佐官!」
全員で合唱した直後、哲也が電話に向かう。
「原宿警察経由で確認します。『参考人聴取の際の、女性職員の対応を確認したい』と言えば向こうも突っぱねられない」
哲は電話を手に取り、その場で手際よく連絡を取り始めた。
「それで……私に何か……」
原宿署の小さな会議室、3人の女性が集まっていた。三原沙耶香と九印葉桜、そして……藍原ひかるだ。「わたしも!?」と驚くひかるを引っ張り出したのは、葉桜だった。
「三原補佐官。木賊彩花さんの事情聴取について伺います」
そわそわしている沙耶香に対し、葉桜は静かに問いかける。
「早瀬警部の聴取は通常の手続きのものでしたか? 彩花さん本人は、脅しにも似た尋問だったと言っています。次回公判でそのことを証言します」
「早瀬警部は、多少、強く出たこともありましたが、特に問題はなかったかと……」
「部屋に窓もなく、飲食も制限され、トイレすら待ったをかけられ精神的に追い込まれた、と彼女は言っています」
「設備利用の都合上じゃないでしょうか」
「うそ!」
ひかるだった。
「世間にも警察にも見捨てられるってどれほど恐ろしいか。そんな中でも、ほんの少し、味方してくれる人がいるから、私たちはなんとか生きていられるんです。私は、あなたも味方の1人だと思ってます」
「この藍原が、手紙の差出人はあなただって最初に気づいたの」
「どうして……」
「ウエディングプランナーをしてたのよ。それで書き方が女性特有だって。彩花さんに確認したら、公安の中に1人だけ彼女に同情的な人物がいた。しかも女性の」
「変態みたいだから言わなかったけど、封筒からいい匂いもしました」
ひかるの鼻息が場の緊張を解く。もともと木賊に同情的だった沙耶香は、ここで警戒の鎧を脱いでしまった。
「あの聴取は本当にひどかった。私は出向組だし経験も浅いので止めることもできなくて……。法の網を掻い潜ろうとしたのは木賊工業じゃなく、あの人たちです」
「三原補佐官。弁護側の証人として出廷していただけませんか?」
「それはできません。ごめんなさい」
「なぜですか!? もしかしたら木賊工業は勝てるかもしれない。時間がないんです!」
「私が身を置いているのは公安部です。そもそも守秘義務に縛られて、話すことを許されない。でももっと怖いのは、家族の安全です」
「あ……」
この人にも家族がいるんだ……。キャリア官僚ではなく1人の社会人としての三原沙耶香を、ひかるは初めて認識した気がした。葉桜は沙耶香の答えを予想していたのだろう、それ以上、説得しようとすることはなかった。彩花の家族を助けるために沙耶香の家族の安全、その将来を犠牲にできるはずもない。葉桜は穏やかに話した。
「それで、この青い封筒というのは?」
葉桜が確認したかったのは、むしろこの存在だった。
「MTS法違反の可能性や木賊買収の正当性が詳しく書かれていたもので、野添管理官が〝これは都合がいい〟と飛びついたんです。アイビー工機から経産省に送られたのだろう、という見立てでした。内容について補充捜査をしなかったので、さすがに証拠には使わなかったようですが」
「まさかそんなものが……」
「それが経産省を動かすきっかけになりました。MTS法違反を必要以上に強く謳い『古い企業体質の木賊を管理能力の高い企業に吸収させるべき』と、技術的にも経営的にもとても具体的なことが書かれていました。海外輸出ルートも詳細に……。最終的に東京地検公安部に送られています。起訴に役立つ、と考えたのでしょう」
「起訴判断専用の素材、か。検察は『裁判で使用しない』ということでその存在を曖昧にしたのね」
「起訴からアイビーによる合併の正当化など、テレビ世論は青い封筒に書かれていた通りの動きになっています」
「貴重な情報をありがとうございます。三原補佐官、このお手紙とお話の内容を公判に使うことだけはお許しください。正式証拠ではなく疎明資料とします」
「それでしたら……お使いください」
手繰り寄せられそうで届かなかった最後の武器。これも司法の現実なのだ。帰り道、ひかるが尋ねた。
「疏明資料って、何ですか?」
「こういう情報があったと〝内容だけ〟を公開するってこと。裁判官に事実を疑わせるためにね。公式に名前が出なければ、公安だって外務省出向組の三原さんを飛ばすこともできないでしょう。それに青い封筒とやらを引きずり出す方法も考えなきゃ。その内容と検察内での扱われ方次第で、ひょっとしたらとんでもない武器になるかも」
ただし、ひかるが言うように時間がないのも事実。もし調書の争いでダメなら……。
「やるしかないか……」
葉桜の宣言。九印側は最終決戦・彩花の証人尋問に全てを賭ける。




