第一章 chapter01
前編 木賊工業編
少々お金にうるさい新しい風が木賊工業に吹き始めたのは、その翌春のこと。彩花は大学を卒業し、墨田区の小さな町工場に「営業兼広報」として入社している。以来3年、2階ショールームとガラス張りの小さなカフェエリアは、すっかり彩花のお気に入りだ。4階事務所ではなく、ここでコーヒーを飲みながら仕事をすることもある。今も、机には輸出書類の山。
「毎月新しい仕事が増えて、まだまだ慣れない……」
彩花はペンを走らせながら、スターバックスのキャラメルマキアートを思い出す。あの春、MTS法のニュースを読んだ日から、ビジネスというものを身近に感じ始めた。
彩花が入社して1年後の冬、法律が動き出した。機微技術管理法――通称MTS法。国家安全保障局が主導し、警察出身だとかいう局長が強い声で訴えたという。
「軍事転用の抜け道を塞ぐ」
経産省が運用を担うが、公安や検察との連携が強化された。
「今後の輸出は慎重にしていかんとな」
不意に現れたのは、浩志だった。その静かな声にどういう意味が込められていたのか……書類と向き合いっぱなしの彩花は、深く考えない。
「MTS法、第二条第一項…特定技術に該当せず……」
呪文のような文言を覚えたが、その重さは実感しきれなかった。
壁のモニターに映るTFCRの試作品。50μm流路、ナノリットルの試薬、±0・1°Cの温度制御。
「うちの技術は、命を救うためのもの。兵器なんかじゃない」
「彩花、書類ばかり見てると目が悪くなるぞ」
76歳の目は鋭い。彩花は座ったまま祖父にに向き直った。
「じいちゃん、MTS法って…厳しすぎない?」
浩志は何やら金属の塊を手の中で遊ばせながら呟く。
「法律は道具だ。機械も道具だ。使う側の心次第で、善にも悪にもなる」
彩花は頷くが、妙に浩志の言葉が、胸に刺さった。
夜、工場の1階から微かに作業音が聞こえてくる。彩花は書類を閉じ、窓の外を見た。街路樹の葉が、春の風に揺れる。木賊工業は、確かに海外への道を切り開いていた。だが、誰も知らない。それは今から3年後、三度目のトクサ祭りを終えた次の春。ある冷えた朝、靴音とともに試練が訪れることを。