序章 chapter02
朝、木賊家では、父と娘がリビングでコーヒーを飲んでいた。テレビにはワイドショーが流れ「……本日行われた審理では原告の元社員女性と被告である老舗ホテル側の主張が激しく対立、裁判は長期化の様相を呈し……」と、女性アナウンサーの声が聞こえてくる。このニュースにさほど興味を示さなかった父・治が娘・彩花に話しかけた。
「これから見聞も広まるし、やりたいことが見つかるかもしれない。だから他で就職したっていいんだぞ」
大学3年生の終わり頃、毎週のように交わされるお決まりの話題。「木賊工業志望」を社長である治に告げて以来、治からの話題はほとんどがこれだ。とはいえ、どこかうれしそうな父の顔を見るたび、彩花の意識は少しずつ固まっていく。それにインターンで数社のお世話になったものだが、創業者である祖父・浩志より熱心に働く「おじさん」たちを、ついぞ見ることはなかった。
「私はさ、木賊工業はこれからもっと成長すると思って、それで志望してるんだよ。社長が自分たちの能力を低く見積もってどうするのよ」
「ほんと、こうと決めたら動かんな、お前は。誰に似たんだ」
2人は言葉にせずに笑い合う。「じいちゃんだな」というのが、木賊家のお約束になっていた。
「もう行くんでしょ? 経産省の会議」
「ああ、10時には着いておきたい」
今日はいつもの作業着ではなくスーツ姿だ。そのため、彩花も父の予定がすぐに分かった。父はここ半年、経済産業省で行われてきた省令改正のためのヒアリングに協力してきたのだ。どうやらそれがいよいよ実を結ぶらしい。
「うちの薬用マイクロリアクターは国内シェアが6割だからな、輸出ガイドラインの改訂に協力する義務がある」
「覚えたよ。マイクロリアクターは超小型の実験器、スマホサイズの薬剤実験室。で、使われているのがポリジメチル……えーと、なんだっけ」
「ポリジメチルシロキサン、PDMSな。抗がん剤なんかを研究するための大事な製品だ。学生さん、弊社を目指すなら、どうぞ早めに覚えてくださいね」
「広報志望の文系には難しいのよ」
「とにかく我々の先端技術は、兵器転用させないための設計と制度が大事だ。お役所の方にもそこを夏からずっと伝えてきた。ま、半分くらいは理解されただろう」
「なるほどねえ」
国際コミュニケーション学部の彩花はよく分かっていない。が、頭のいい経産省の人たちは、もう少し分かるのだろう。そう、間もなく木賊ほか技術者たちの意見が反映された精密機器輸出に関する新省令が出るらしく、父はそのことで霞ヶ関に向かうのだ。
「私も今日は2限から。準備したら出るね。行ってらっしゃい」
一風変わっているかもしれないが、やはりどこにでもあるような家族の会話。彩花は玄関のドアを開けて父を見送った。
「うわー、寒いっ」
一瞬身震いしたが、彼女は父の背中を目で追い続けた。数年後には、あの背中を支えるんだ。いつか私の力で木賊工業をもっと大きく立派に。だから、私が一人前になるまで、じいちゃんにも現役でいてもらわなきゃ。
街路樹の桜の木が目に入る。まだまだ芽吹く気配はない。うん、まだ春は遠そうだ。
「でもあの木、花が少なくなってきたなあ。子供の時は枝が見えないほど咲いてたのに」
不安とまでは行かない心の揺れ。まあ心配には及ばない。そこに木はあるのだから。春が来れば、また花は咲くに決まっている。彩花にとっては、それは当たり前のことだった。