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第三章 画策 chapter04

「第 回皐月祭」と書かれた看板があちこちに建てられている。回数のところが空欄になっているのは、今後数年間使い回すからだろう。目的の大学に着いた2人の男は、工学部応用科学課を目指し、看板の矢印を辿って歩いていく。何人かの学生とすれ違うが、誰の気にも止められることのない、普通のサラリーマン、どこにでもいるおじさん、といった雰囲気だ。本郷キャンパスと呼ばれるエリアに林立する研究棟を抜け、七課の捜査員・城戸と片桐は、目的の研究室の扉を叩いた。

対応したのは、年の頃なら60代半ばといった風貌の教授・高野だった。薄い茶色のジャケットとスラックス姿。想像している化学者の身なりではなかったが、今どきはこんなものなのだろう。城戸と片桐は、快く中へと招き入れられた。彼らは「非公式なヒアリング」と称し、一般的な技術的側面の解説という名目で、木賊のマイクロリアクター「TFCR」とその仕様書から一部コピーしたものを携え、ここにやってきたのだ。

「マイクロリアクターですか。日本の加工技術は素晴らしいですよ」

高野教授は、捜査員たちが差し出したTFCRの構造図に目を凝らし、興味深げに頷いた。

「この流路の精密さ、温度制御の精度。中小企業の技術力としては驚くべきものがあります。特に素材となっている樹脂PDMS……ポリジメチルシロキサンをここまで使いこなしている点は、賞賛に値しますね」

城戸が切り出した。

「教授、率直に伺います。このリアクターで、例えば神経ガスのような危険な化学物質を生成することは可能なのでしょうか」

高野教授は少し顔を曇らせた。

「神経ガス、ですか。確かにこの特性からすれば、様々な種類の化学反応を効率的に行うことは可能です」

城戸と片桐の目に、期待の色が宿る。しかし教授の次の言葉で、その期待は急速にしぼんだ。

「あくまで理論上の話です。神経ガスのような高温度を必要とするものや、強酸性あるいは強アルカリ性の試薬を用いる場合、このPDMSという素材には致命的な弱点があります」

「弱点、と申されますと?」

片桐が前のめりになった。

「簡単な話ですよ。溶けるんです」

「溶ける? 材料の薬品で?」

「ええ、PDMSは有機ケイ素化合物で、非常に柔軟性があり、マイクロ流路の形成に適しています。しかし、強酸や強アルカリ、特定の有機溶媒に対しては急速に劣化したり、溶解したりする特性があるのです。神経ガス生成に必要な一部の反応条件では、このリアクターそのものが耐えられない可能性が高い。長時間耐えることは、まず不可能。つまり、装置が先に壊れてしまう」

捜査員たちの表情は動かない。

「では、製造は不可能だと?」

城戸が念を押すように尋ねた。教授は質問の重みを察し、言葉を慎重に選んだ

「『できない』とは断言しません。特定の条件下や装置の改造があれば、微量の生成は可能かもしれません。しかし、実用的な兵器生産には適さないでしょう。少なくとも、この仕様書どおりの設計のままでは。神経ガスのようなものを意図的に作るなら、別の素材——例えばガラスや金属を使った専用の装置の方が現実的です」

再び片桐が問う。

「可能性がゼロではない、ということですね?」

「これだけでは何とも。私は民生技術の専門家ですし、実機を見たわけではない。運用の条件次第では、神経ガスを合成することも可能かもしれませんが、この通りの素材だと長時間使用に耐えられない。部品リストに『フッ化系樹脂』や『酸耐性パッキン』といった素材が含まれていれば、話は別ですが。現時点でこれを見る限り、設計思想も、あくまで医療や食品分野での微量合成に特化しているように思います」


高野教授の言葉は、彼らが求めていた「グレーを黒に寄せる」ものではなかった。むしろ明度は上がってしまったようだ。

「……なるほど。大変参考になりました」

にこやかに研究室を後にする2人。前を歩く城戸は内心では野添管理官や早瀬警部にどういう報告書をまとめるか、脳を回転させていた。後ろを歩いている片桐がこぼす。

「書き方に工夫がいるな」

どうやら彼も、同じことを感じているようだった。2人は歩くペースを変えることなく、古めかしい建物が林立するキャンパスを後にした。


部下の2人が〝自分たちなりの絵〟を描こうとしているころ、早瀬と南波はアイビー工機本社にいた。その6階会議室、窓の遠くで京浜急行の電車が滑っていくのを3本ほど見送ったところで、社長の伊吹聡がやってきた。

「警視庁公安部外事七課の早瀬です。こちらは南波」

早瀬は一方的に名乗り、伊吹に勧められるまま、2人は大きな机の窓側の席に腰を下ろした。

「伊吹社長、御社は木賊工業と協業されていると伺いましたが」

早瀬の声は穏やかだが、有無を言わさぬ圧力を感じさせた。伊吹は早瀬と南波の顔を交互に見ながら答えた。

「ええ。経産省の『製薬装置開発コンソーシアム』でご一緒しています。弊社の洗浄装置ラインと、木賊工業のマイクロリアクターを組み合わせることで、医薬品研究・製造のスマートファクトリー化を目指しています」

「なるほど。では木賊工業のリアクターについて、その性能をどう評価されますか?」

意図が見えるようで見えない問い。早瀬の問いに、伊吹はやや言葉と表情を選んだ。

「非常に高性能だと評価しています。特に、微量な試薬で高効率な化学反応を行える点は、競合他社にはない強みだ、と。弊社の洗浄技術と組み合わせることで、製造プロセス全体を劇的に効率化できると考えています」

質問者が南波に交代する。

「リアクターは使い捨てにされるケースもあると聞きますが、そのような〝使い捨て〟にする際、万が一、危険なものが作られていたとしたら、そのトレーサビリティは確保されるのでしょうか?」

「コンソーシアムのことをおっしゃっているのですか? 私たちはクラウド経由で厳格に管理しています。このシステムは改変など不可能で……」

「アイビーさんの管理が厳格なことは、経産省への申請内容で把握しています」

南波は頷く。しかし伊吹は言葉に詰まった。自分たちの「スマートファクトリー構想」が、裏でこんな風に解釈されるとは思いもしなかったのだ。

「技術悪用の可能性を根拠に、平和利用を目的とした企業を断罪しようというのは乱暴な論理です。包丁は人を殺せると言って、すべての包丁メーカーを摘発するようなものです」「包丁と精密機器では話が違います。今は経済安全保障の時代。技術は正しく管理されねばならず、わずかな綻びも許されない。厳格な取締は、国民を守るための警察の責務です」

早瀬はそう言って、再び伊吹に視線を向けた。伊吹にはまだ、捜査員が何を狙っているのか分からない。しかしどうやらコンソーシアムの成功、そして何より、自社の未来がかかっているようだ。木賊が狙いらしいが、自分たちにも公安の目が向くかもしれない。なんとかこの禍を転じることはできないか……伊吹のビジネスマンとしての思考は、回転を始めていた。


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