第二章 潜竜 chapter03
自身の書いた数多くの申請書の一つが神保町のビルで注目を集め始めたころ。田中優子は都内の南端にいた。東京都・大田区。かつては町工場の街と呼ばれたこのエリアにも、高層マンションと再開発の波が押し寄せている。その一角にある6階建ての自社ビル——その最上階、アイビー工機の会議室からは、ガラス越しに京浜急行の車両が滑っていくのが見えた。まだ夕方の4時ということもあり、そこまで乗客は多くなさそうだ。
「おかげさまで、今年も無事に黒字です。来年度は例の洗浄装置ラインが稼働しますから、医薬系の比重がさらに上がる予定で」
そう語ったのは、アイビー工機の若き社長・伊吹聡、45歳。3年前に創業者である父から社長業を引き継ぐと同時に、社名を旧「伊吹工業」から現在の「アイビー工機」へと変更。保守的な社風に一石を投じた張本人だった。
「それもこれも田中さんの力添えがあってこそです。経営の数字、社員の意識、ずいぶん変わりました」
「うれしいです。でも、もともとアイビーさんにポテンシャルがあったからですよ」
優子が穏やかに笑う。アイビーも、木賊同様、彼女がいくつか契約している会社の一つだ。2人は手元にある来年度の中期計画書類に目を落とし、進行中の取引や補助金申請のスケジュールを確認していた。
「木賊工業さんのリアクター、すごいですね。小さな装置に、よくあれだけの制御系を詰め込めたな」
「ええ、あれはベテランの職人さんたちが代替わりもせず現役で、しかも自分たちで機構まで詰めてるからこその精度です。民間であの設計思想が出せるのは珍しいです」
「木賊さんのところ、50人規模ですよね? うちの2割ほどの人員で……」
「あちらも悩みは多いみたいですよ。ご高齢の相談役が現場を仕切っていて、社長さんももう20年、かな。改革が進められていないようで。日本の中小企業にはありがちなことですけどね……」
吐息が多めの言葉とともに、目線はそのまま書類を読み込む優子。ベテランコンサルタントの横顔を見せている。
「ありがちですね。うちも3年前までは同じでしたし」
伊吹はソファに背を預けながら、遠くを見るように言った。
「中小って、どうしても〝人〟に頼る。すると技術も制度も属人化する。結果的に、経営判断が〝感情〟に流される。田中さんのおかげで、それを切り離せるようになりましたよ」
「木賊さんも、もしかすると変わりたがってるのかもしれませんね……今はまだ、その方法を見つけられていないだけで」
優子は資料を見ながら、独り言のように呟く。それは伊吹に向けたものではなかったかもしれない。だが伊吹は一瞬だけ、黙り込んだ。指先で会議机の端を軽く叩く。すぐに口元には、微笑が戻る。
「とにかく、いい技術です。経産省が助成する『製薬装置開発コンソーシアム』ですが、うちが代表事業者、木賊さんにも参加していただく方向で行きたいですね」
経産省が主導する製薬装置開発コンソーシアム。医薬品の製造を迅速化する「スマートファクトリー構想」で、いくつかの精密機器メーカーが共同で研究設備を作ろう、という事業だ。
「もちろん、木賊社長も乗り気です」
その一言に、ほんの僅かな熱がこもる。そして書類の角をきれいに揃えると、淡々と次の資料を準備した。ノートパソコンのキーを叩くと、壁面のモニターに次の資料が出た。
「来年度、再来年度の人材採用ですね。若返りの反動もあるので中途採用などを考えてもいいですね」
伊吹も木賊同様、田中優子の能力の高さに感心する。「「この人がまだ無名のうちに契約できてよかった」と、モニターを見ながら考える伊吹だった。