第二章 chapter02
東京地方裁判所、104号法廷。竜崎薫子の声が静寂を破る。
「被告人は、ドローンの不正輸出により、機微技術管理法第二条第一項に違反しました」
まだ年齢は40に届いていないと思しき東京地検のエース検事は女性だった。黒のスーツは法服を模しているのだろうか、トラディショナルなデザインだが、シャープなカットとモダンなフィット感が法廷の光を吸い込み、威圧感を放つ。ショートカットの髪、フレームレス眼鏡の奥の視線は、被告を一瞥するだけで怯えさせた。傍聴席は息を殺し、法廷の空気は竜崎薫子に支配されていた。コツ、コツ。足音を静かに響かせ、ゆっくりと被告に近づいていく。そして証言台に両手を突っ張って立った。さながら教師のようなスタイルだ。ニコリともせず、低いトーンで竜崎薫子の論告が続く。
「『軍事転用可能性』は、犯罪の意図と同等ですよ」
薫子は身を起こし、今度は右手を被告人に向け、傍聴席に訴えた。高らかに、よく通る声が響く。
「被告人の日本アグリテック社は、MTS法の規制を無視し、問題のドローンを農薬散布用とおっしゃる。この農薬を毒薬に変えて、散布後にドローンをそのまま廃棄したら? わあ恐ろしい」
両腕で自分の体を抱え、身をよじりつつ、すくめる仕草。傍聴席からは「あれ? イメージが……」などの囁きが漏れる。検察官席に座っている3年目の若手検事・松本啓一は軽く目を閉じ誰にも悟られない小さな声で「やりやがった……」と、傍聴席のベテラン検察事務官・スーツ姿の石田明彦は「やってしまった」と、それぞれ呟いた。素知らぬ顔で薫子は仕上げに掛かる。
「彼らは農業用だと主張します。しかし、我々検察が押収した『現地ゲリラ軍が同型機を欲している』とのやり取りが記された内部メモは、彼らが輸出先の真の意図を知りながら利潤追求のために国家の安全と評判を軽視した明白な証拠です」
弁護側は最終弁論で「どのような技術でも、たとえ包丁でも武器に転用は可能。我々が日々享受する文明の利器は、全てがデュアルユースの可能性を秘めています」と訴えた——しかし1週間後の判決は「輸出管理に対する認識の甘さ、ひいては企業としての社会的責任の欠如を指摘せざるを得ない」とされた。今回も、薫子たち検察の勝利に終わった。この日も隣に座る松本に、彼女はそっとハンカチを開いて見せる。そこには「勝訴」と刺繍されていた。
なかなか底を見せない人だ——というのが、松本の薫子に対する評価だった。時々妙にふざけるが、裁判が終わった後には勝利に昂る感情をまったく見せない。淡々と次へと意識を切り替えるのだ。この国の刑事司法において「起訴イコール有罪」という不文律を、彼女は最も体現している検事の一人だった。今日のこの裁判も、彼女にとってはルーティンワークの一つに過ぎないのだ。
東京地裁を後にし、徒歩数分。都営三田線に揺られ、神保町へ。
「昔は地裁から歩いて帰れたのになあ。移転で不便になったわ」
そう言いつつも、日比谷公園を抜けて歩くこのルートが、薫子の定番コースだった。
「竜崎検事は検察合同庁舎時代をご存じなんですか?」
「あ。永遠の28歳だから、知らないわ」
息をするような年齢詐称。永遠の28歳を自称するのだから、2、3年後には「一回り以上」のサバを読むことになるだろう。
東京地検九段庁舎の執務室に戻った薫子は、人懐っこいキャラクターを開放していた。
「やー、喉カラカラ! 松本、なんか甘いもの買ってくればよかったねえ」
隣のデスクに座る部下の啓一に屈託のない笑顔を向ける。論告の時に見せた冷徹な表情は微塵もない。そこに担当事務官の石田が入ってきた。今日もきっちりとスーツを着こなしている。
「竜崎検事。公安の方々がお見えです」
石田が言うと、東京地検のエースは「マジか……」と革張りの席に身を沈め、デスクに置かれていた新たなファイルに目をやった。公安部のロゴが印刷された、見慣れた封筒。
ノックの音とともに、扉が開かれる。
「竜崎検事、お忙しいところ恐縮です。外事七課の野添です。こちら、南波」
石田と入れ違うように、野添管理官と、その部下である南波捜査官が、やや緊張した面持ちで入室してきた。薫子は彼らを一瞥すると営業スマイルを浮かべ、無言でソファー席を促す。柔和に見える〝薄笑い〟。野添は年下の女性、しかも自分よりずいぶんと華奢な女性に対し、居心地の悪さを覚えた。それが緊張や恐怖から来るものであることは、認めなかった。
野添は、手元のファイルを薫子のデスクに滑らせた。表紙には「木賊工業」の文字。
「ご存知の通り、MTS法は、軍事転用の可能性のある技術の輸出を厳格に管理するものです」
「ええ、そしてご存じの通り、本来は〝東京地検公安部〟で担当する案件ですね……」
薫子はファイルを手に取り、ゆっくりとページをめくる。最初の数枚は、木賊工業の企業情報と、彼らが開発したマイクロリアクター「TFCR(K-TOKUSAフローチップリアクター)」に関する技術概要だった。
「木賊工業は、表向きは医療・食品分野での利用を謳っていますが、我々の分析では、このTFCRには神経ガス生成のシミュレーションが可能であるという隠れた側面が確認されています」
南波が補足するように言う。薫子の眉が、微かに動いた。
「ナノ単位の微量生成とはいえ、その可能性がゼロではない以上、国家安全保障の観点からは看過できません」
野添は、パソコンを開き、画面を薫子の方に向けた。そこには、TFCRの構造図と、いかに取り扱える試薬の種類が多いか、そしてそれに付随する化学式のシミュレーションが映し出されている。それは、かつて田中優子がNEDOの補助金申請書に記した、技術の将来性を強調するための、少々「盛り」が加えられた記述の一部だった。
「これは……?」
薫子の目が、ある記述で止まる。『高効率、超微量反応による新薬開発への応用……』。
南波はにやりと笑った。
「そこが、我々が問題視している部分です。非常に微細ながら、通常では危険を伴う反応を安全かつ高効率で行うことが可能になる。申請書には、まさにその可能性を匂わせる記述があるのです。もちろん、彼らは平和利用を強調していますがね」
「彼らが意図的に、あるいは無自覚に〝兵器転用の芽〟を生み出した証拠となり得る、と?」
野添は頷いた。薫子はファイルを閉じながら呟く。
「神経ガス生成——理論的可能性、か……」
口元に浮かぶ、冷たい笑み。
「化学的、専門的すぎて分かんないわ。他の同様の製品との差異もまだ不明。裁判所だって困るでしょうね。そもそも……」
パタン、とファイルを閉じ、野添を見る。
「何でもかんでも、MTS法違反が特捜部に回ってくるわけじゃないでしょう。この事案は地検の公安部向けだわ。こないだのドローン不正輸出事件は、どなたかの意向で特別に」
警視庁に公安部があるように、検察庁にも公安部がある。単純な不正輸出事件は、本来は検察庁公安部の仕事なのだ。
要するに薫子は「自分と特捜部の能力は安売りしない」と言っている。そしてそれは「縦割り」と批判される向きもあるが、ひとまずは正論だった。
野添と南波の顔には微かな失望が、続けて小さな興奮が浮かんだ。「じゃあ、分かりやすく、はっきり証明すればいいんだな。その暁には、参事官もまた動くさ」。竜崎薫子という最強の検事を味方に引き入れるべく、公安七課はついに蠢動する——。