第二章 chapter01
虎ノ門一丁目、再開発で建て替えられたばかりのガラス張りの高層ビル。その13階。共用エントランスの奥にある非公開のフロアには、表札も看板もないセキュリティゲートが設けられている。顔認証を通過した者だけが奥へ進める、いわば〝見えない部署〟。MTS法に基づく技術監視を行う新設部署、それが公安部・外事第二課から独立して設置された、通称「外事第七課」だ。
室内は無機質な壁に囲まれた中規模の執務空間。窓は大きいものの、すべてブラインドが閉められている。デスクは十数席。防音パネルと簡易パーティションで区切られた空間には、緊迫感とも閉塞感とも言える空気が漂っている。居並ぶのは、公安の中でも一風変わった顔ぶれだった。
「……次年度の予算編成。国際テロ対策の枠組みで申請してみるか?」
そう提案したのは、管理官・野添真一。50代半ば、階級は警視だ。公安一筋というよりは、多くの部署を渡り歩いた叩き上げで〝現場も理屈も知る男〟だ。現内閣成立後、官邸を中心に「経済安全保障」が声高に叫ばれる中で、この外事七課を立ち上げた旗振り役の1人でもある。
とはいえ、七課はいわば試験運用の「予備枠」。内閣官房副長官に警察OBが就任したこと、MTS法の施行にあわせて公安が〝ついで〟に作った経済安保の専門課だ。まだ予算は少なく、人員も限られている。成果がなければ副長官のメンツも立たず、課ごと「無かったこと」として削られる可能性すらある。一方、成果を出せば正式に課長、階級では警視正が見えてくる。つまり地方公務員から地方警務官、すなわち国家公務員へと身分が変わり、退職金や年金などの待遇面で大きな違いが生まれるのだ。それを誰よりも理解しているのが、うっすらと定年が見えてきている野添だった。
「テロ枠で押すのは外事四課が噛みついてくるでしょうね。経済領域は、経産省が主導する案件ですから」
書類をまとめながら呟いたのは、警部の早瀬泰久。45歳、元外事二課出身。スーツの着こなしが少々だらしないのは「周囲に溶け込むためだ」とうそぶいている。強引な家宅捜索や令状の運用に長けた実働部隊出身で、公安内部でも「火の粉をかぶるのを恐れない男」として知られる。だがその分、法のグレーゾーンを踏み越えかける局面もしばしばだった。
「……副長官が国会でも言ってましたよね。『機微技術の兵器転用、その抜け道を塞ぐのは警察の悲願だった』と」
「だからこそ、だ。うちはその〝抜け道〟を通っていくヤツら早めに挙げにゃならん」
野添の眼差しは虎ノ門の窓、ブラインドを貫き、遠く霞ヶ関を見つめていた。
そこへ資料を持って入ってきたのは、捜査官の南波秀樹だった。30代半ば、地方の公安出身で、現在は七課の分析担当を任されている。髪はやや長く、警察官というよりIT企業のリサーチャーに近い雰囲気をまとっている。やや長めの髪と細いチタンフレームのメガネが印象に残るからだろう。
「技術転用事例、資料まとまりました。これ、例のマイクロリアクターですけど……神経ガス生成の理論的シミュレーション、出てます」
「生成量は?」
「ナノ単位。しかし、可能性があるってだけで十分〝見える化〟できます。法解釈的には黒じゃなくても、政治的には白じゃない。『疑わしきは動け』は、うちの課の理念ですから」
思わぬ報告に早瀬がニヤリと笑った。しかし実際に声を出したのは早瀬だった。椅子の背もたれに深く体を預けながら、南波を見る。
「じゃあ、あとは〝どこで爆ぜさせるか〟タイミング次第ってとこだ。ナンバちゃん、その神経ガス生成についてまとめてくれ。分かりやすくな」
その言葉に、壁際で資料をチェックしていた女性が顔を上げた。この場にそぐわない若さの彼女は外務省から出向中の国際安全保障課・補佐官、三原沙耶香だ。彼女は口元に手を当て、静かに言った。
「ただ、木賊工業は少し慎重に扱った方が。NEDO……新エネルギー・産業技術総合開発機構経由で補助金も出てますし、省令改変時から中央とのパイプも細くはないです」
「分かってる。だからこそ慎重かつ大胆に動くんだ」
そう言って野添は机の上のホワイトボードを見上げた。そこには『重点観察対象』の欄に、墨田区・木賊工業の名が赤い字で記されている。数年前の省令改革時に提出された機微技術。南波が再び洗い出した、灰色の技術。野添にはそれが……黒に見えた。
「……うちの課が本物の公安として認められるには、象徴的な成果が要る。安全保障の盲点を突く〝理想的な摘発〟がな。あそこは技術力も、実績もある。だからこそ、万一があれば日本の信用そのものが問われる。そう国民に信じさせるだけの材料は……整えられるはずだ」
〝国家の正義〟の名のもとに。
もはや何が守られるべき本質だったかは、誰も考えようとしなかった。
初夏というのに七課のオフィスは妙に寒い。三原沙耶香は理由を考えた。そうか、どんなオフィスであっても必ず漂う〝日常〟〝人の息遣い〟が、ここにはないのだ。