第一章 春望 chapter05
「……したがって、本件マイクロリアクター、K-TOKUSAフローチップリアクター、以下TFCRとします、TFCRは、機微技術管理法・第二条第一項に定める特定技術に該当せず、兵器等への転用の恐れがないことを、弊社が確認の上、貴社に引き渡すものとします」
会議室に、ここ2年ですっかり読み慣れた文言が響いていた。
11月初旬の午後3時、木賊工業・2階ショールーム奥にあるガラス張りの会議室。焦茶色の長い机の上、厚さ一センチほどの契約書が二部、それぞれの陣営の前に積まれている。木賊側は社長の治と営業・広報を担当する彩花、そして田中優子。もう一方にはスーツ姿の外国人が座っている。
「はい、こちらもその条文、明確に読み合わせております」
チェコの輸出代理店、フィロチェム社側の日本担当ディレクターが流暢かつ柔らかな日本語で応じ、書類にサインを入れた。優子が治に提案し、契約書の束に盛り込まれた「誓約書」だ。「兵器転用などせず、人々の健康と平和のために利用します」という、木賊の理念を伝えるためのものだ。サインを済ませ、背筋を伸ばした彼は、静かに書類を閉じると、満足げに微笑んだ。
「Thank you, Ms. Tokusa. Everything looks great.」
「Pleasure, Mr. Beneš. I’ll email you the signed copy by tomorrow.」
彩花が即座に返す。学部で仕込んだ英語も、こういう場面では役に立つ。理系の学部でなくても戦力になるんだぞ、と、彩花は昔の父に、今更ながら心の中で反論するのだった。かつて彩花の化学知識の無さをからかっていた父は、笑顔で担当ディレクターと握手している。
この後はパートナー企業のある名古屋へ行く、という先方の担当者と治が、談笑しながら応接室を出ていく。彩花と優子はようやく緊張を解くことができた。
「よくできたね、あやさん。あの条文、私も最初の頃はつっかえたものよ」
隣でにこやかに見守っていた優子が、笑顔で声をかけてきた。
この半年、木賊工業は輸出件数が徐々に増えている。とくに欧州市場での引き合いが強く、リトアニア、韓国に続き、今月からチェコへの定期供給が始まった。今日の打ち合わせは、その初回契約の最終確認だ。
「輸出・輸入ってニュースや新聞で子供のころから聞き慣れてた言葉だけど、実際に仕事でこうして向き合うと、難しいことが多いというか……法律とか契約内容とか。何度やってもハラハラしますね」
「『これはMTS法には抵触しません』『特定技術には該当しません』とかね。特に法改正があると、勉強が大変」
数年前、治が経産省に出向いてその改正に協力した輸出に関する新省令。その2年後、外為法の技術輸出管理と新省令を「時代に即して進化させる」という狙いで制定されたのが「機微技術の国際流通及び国家安全保障に関する管理法」だ。要は「武器に使えるような危険物を輸出・輸入させません」という法律で、一般には機微技術管理法/MTS法と呼ばれている。
「MTS法ができたのは入社の翌年でした。就職して安心しきっているところにもう一発大きな勉強が必要になって、焦ったのを覚えてます」
「ウクライナの戦争もあったし、総理大臣も替わったし。目まぐるしい時代の動きと政治的な配慮から、日本も輸出・輸入の面から国の安全を考えよう、ってなったのよ」
「ニュースで見ていたことが実生活に繋がってくるって、不思議ですねえ」
「ま、覚えてしまえば、形式的なやり取りだわよ」
形式的なやり取りであっても、国際契約における「一文の重さ」は知っている。輸出先で万が一の用途があったとき、それは〝うっかり〟では済まされない。どの国の誰に使われ、何に転用されたか。それが「小さな部品を作っただけの町工場」の責任になる時代だった。
「でも木賊の技術なら、開発補助金の申請もスムーズ。『これぐらい素晴らしい技術、先進的な製品ですよ』と多少、内容を盛る必要はあるけど、企業価値をあの手この手で高めるのがコンサルタントの腕の見せどころ。全部書類上はリーガルですから」
「NEDOですっけ」
「そう、新エネルギー・産業技術総合開発機構。新しい技術、先端技術には開発補助金が出る。こうした仕組みは使わないと損だけど、知らない企業も多い。国がやることって、いっつもそうだわね」
優子はこうした書類の整備や法務チェックにも強い。中小企業・技術集団の木賊側にとって未知の「経営戦略」をもたらしてくれたのが、優子なのだ。
営業が現場や展示会、商談会を回り、他社と接点ができれば優子が道を整える。まさに今の木賊工業は、理想的なチーム体制だった。
2人が応接室を出ると、すでに日が落ちつつあった。窓の外、駐車場の片隅に停めた小型トラックの影が、長くこちら側に伸びている。
「……少しずつだけど、道が開けていってる感じ、しますね」
彩花がぽつりとつぶやいた。
「ね。私も代理店を回って、今回の輸出手続きを始めないと」
コンサルタントって一言で言っても、いろんな仕事をこなすんだなあ……彩花はいつまでたっても驚かされる。
「それじゃ」と帰っていく優子を見送り、一つ伸びをする彩花だった。ポキっと背中が鳴った。
「よーし飲んで帰るか」
どこか「おじさん化」してきていることを自覚しつつ、それが自分でも妙におかしい。一人で笑った直後「あ、誰かに見られてなかったか!?」と身を屈め不審な動きをする彩花だった。