静かな訪問者:希望の形を問いに来た少年
【場所:市役所・地域振興課 窓口/秋の午後】
風が涼しくなった頃。
世間ではチモシー詐欺事件も一段落し、メディアも次第に話題を手放し始めていた。
けれど、佐倉美咲は変わらず、毎日あの報告書の副本を机にしまい、
ひとつの信念だけを背負って業務を続けていた。
その日の午後、窓口に背の低い中学生くらいの男の子が立っていた。
「……佐倉さんって、いらっしゃいますか」
受付が一瞬戸惑い、美咲を呼ぶ。
「はい、私ですけど……どうかしましたか?」
少年は少し緊張したように頭を下げた。
「僕……おばあちゃんが、あの草の機械のことで、お金を失ったんです。
あの、テレビで見て、佐倉さんのこと……調べてきました」
美咲ははっとする。
「あ……そう……だったんですね。
わざわざ来てくれて、ありがとう。お名前は?」
「翔太です。佐藤 翔太。
……あの、ちょっとだけでいいから、話してもいいですか?」
【会議室・二人きりの面談】
翔太は少しだけ涙をこらえるような顔をしていた。
「おばあちゃん、最初、すごい嬉しそうだったんです。
“草で未来が変わるのよ”って。
“これがあれば、おじいちゃんが昔やってた畑を、また始められるかもしれない”って」
美咲は、黙って耳を傾ける。
「……でも、装置が来なくて。テレビで“詐欺だ”ってやって。
おばあちゃん、誰にも何も言えなくなって、家の中で泣いてた」
翔太は、ポケットから折りたたまれた紙を取り出す。
そこには、年配の筆跡でこう書かれていた。
「私は、信じたことを後悔していません。
あれが嘘でも、少しだけ“希望”をもらえたから。
でも、その希望を作った人が、もしまた誰かを騙すなら――
それは、止めてほしいです。」
「……これは、僕にだけ言ってくれたメモです。
でも、僕じゃ何もできなくて。だから、佐倉さんに渡したくて……」
美咲は、その紙を両手で受け取った。
涙は流さなかったが、確かに心に何かが染み込んでいった。
「ありがとう、翔太くん。……おばあさま、勇気のある人だったんだね」
翔太が顔を上げる。
「佐倉さん……これから、こういうの、またあると思いますか?」
しばらくの沈黙のあと、美咲は、静かに微笑んだ。
「……きっと、またあります。
でも、そのときに“信じた自分を責めなくていい”ように、
誰かがちゃんと、嘘と夢の境目に線を引いておく。
それが、私の仕事なんだと思う」
翔太はゆっくりと頷き、立ち上がった。
「じゃあ、僕……いつか、“本当に草が生える機械”を作ります」
美咲は驚いたように目を見開き、それから笑った。
「……そっちの“夢”は、応援するよ」
【その日、机にしまわれたもう一枚の紙】
「私は、信じたことを後悔していません」
それは、美咲にとってもまた、“信じた誰か”の言葉として、
静かに心の奥にしまわれた。