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1-5 ミカ、メイド服を脱ぐ(上)

 目覚めても、目覚めても、19世紀。今朝も寒い。ミカは手のひらの懐中時計を見つめた。黄金色に輝く満月みたい。蓋を開けたら、白い文字盤に黒のローマ数字が書かれている。短針は真下に、長針はIIIIの位置に。6時20分。文字盤の下部には、もう一つの小さな針が一、二、三と秒を刻んでいた。タイムトラベルから六日目。お母さん、警察に行ってるかも。それとも家出だって思われてるかな。なんで家出したんだって……心配させたくないのにな。鼻水をすすって、懐中時計を首に戻した。洗濯したブラが乾いてるから、今朝はコルセットは必要ない。ピンクのドレスに着替えて、うなじに手をまわす。髪をまとめようとして、時計の鎖に引っかかった。ミカは顔をしかめ、力まかせに毛の束をつかんだ。ぷちぷちと髪がちぎれる音がする。すぐに気を取り直して、一本一本ほどいていった。焦ってもイライラしても仕方がないし。髪をまとめて、キャップをかぶる。


「さてと、働きますか」


 窓の外では、丘陵の果てがわずかに橙に染まっていた。もうすぐ、夜が明ける。



 朝の掃除の担当は、朝食室だ。ご家族の食事が始まる前に、暖炉を熾して掃除を終えておく。屋敷の二階、北西にある晩餐室は、正式な晩餐用の部屋。朝食や昼食はもっと気軽に、南西の朝食室をつかう。晩餐室よりも小ぶりで(っていっても十分広いけど)、窓からは朝陽にきらめく池が見渡せた。その後は、エリザベスにお茶を持っていく予定だけど、朝が遅いから先に大階段を磨きにいく。白い天井には彫刻が施され、朱色の壁にはミカの背丈ぐらいの油絵がいくつも並んでいた。茶色の重々しい階段には、紅色の絨毯が敷かれている。


 布で手摺をこすっていると、絨毯に影が落ちた。視線の先に、艶めいた革靴がある。そっと上目遣いで確かめる。階段の踊り場にクリブデン公爵が立っていた。ミカは急いでまぶたを伏せた。朝食まで、あと30分ぐらい。いつもは誰も通らない時間帯だ。鉢合わせするとは思ってなかった。

 ミカは影をじっと見つめた。影は遠ざかることなく、こっちに近づいてくる。


(……え?)


 全身に視線を感じて、ミカはたまらず顔を上げた。

 公爵の淡いヘーゼルの瞳が、目の前にある。

 アリーと似た、でも彼よりも茶色がかっている。

 ミカはとまどった。

 古い洋画に出てくる俳優みたいな、品のいい整った顔だち。

 薄い唇は両端がわずかに上がり、口ひげが形よく生えていた。

 公爵は口を開かず、ただミカを眺めている。

 去ることも話すこともできず、ミカは再び頭を下げた。

 ミカは目を見開いた。

 頬に冷たい、大きな手のひらが触れている。

 公爵のまなざしは一秒ごとに変わった。

 家族を慈しむような。

 恋人を愛するような。

 裏切りを哀しむような。

 敵を憎むような。


「……なんで?」


 口から勝手に言葉がこぼれた。

 淡いヘーゼルの双眸が、ミカ以上に見開かれる。

 公爵はそろそろと手をひいて、自らの硬い手のひらを凝視した。まるで自分のものではないかのように。


「すまない……どうかしていた」

 礼儀正しく微笑んで、公爵は階段を下りていった。ぴんと張った背が止まり、ミカを振りかえる。

「……記憶は、まだ戻らないのかね?」

「はい」

「……そうか」

 黒い背中が遠のいていった。



 使用人ホールの朝食は、だいたい8時から9時の間だ。みんな忙しいから空いた時間にやってきて、さっと食べてまた出ていく。大階段の掃除が済んだら、次はバス・トイレとミスター・ホワイトリ―の寝室を片付ける。みんな自分で部屋を掃除するけど、執事とハウスキーパーだけは、ミカたちハウスメイドが担当してる。


 エリザベスに朝食を運んで掃除の続きをしたら、あっという間に正午。昼食の時間になる。今日もエリザベスは口数が少なかった。低血圧なのかな。アンソニーも見かけなかったし、平穏な朝だった。公爵の謎な行動は気になるけど。渋谷でたまに声をかけられて、そんなときの目はラチェットみたいに身体に粘りついてぞわりとした。でもあんな嫌な感じでもなくて。ミカは首を傾げた。うーん、ちょっとよくわかんない。


 昼食のあとは残りの掃除を終えて、午後は日替わりで雑用をする。昨日と一昨日はリネンの繕い、今日は窓ふき。二階や三階の外側は危ないから、年に数回、職人にまとめて依頼するんだって。ミカたちが磨くのは窓の内側だけ。この広い屋敷の全部は無理だから、何回かに分けて掃除する。


 朝食室の窓を拭いてたら、アリスが顔をのぞかせた。にっこりと笑ってて、ミカも笑顔を返した。


「ミカ、~~~~~~~~~~~?」

「うん?」

「~~~、~~~~~~~~~~~~~~~~?」

「え?」

「~、~~~、~~~~~~~~~?」

「……え?」


 アリスは口をつぐみ、困ったように笑みを見せた。


「ごめん、アリス。なんて?」

「~~~……~~~、~~~~~~~?」

「え……と、ごめん。わかんないや」

「~~~~、~~~~~~?」


 アリスの背後から、エロル夫人が姿を見せた。


「~~……ミカ~……」

「ミカ~~~~~~?」

 二人がこっちを横目で見ながら、話をしてる。

 ミカには、なにを言ってるのか分からない。

 ほんとうに、分からない。

「あのー、二人とも、どうしたんですか?」

「ミカ、~~~~~~~~?」

「~~~~~~~~~~、ミカ?」


 目の前が、歪んでいくような気がした。

 いつもと同じアリスとエロル夫人。

 いつもと同じ朝食室。

 言葉が、通じない。

 見えているものは同じなのに、ミカだけが取り残されたように。


(そうだよ。だってここ……英国だもん)


 ミカはアリスを見た。

 アリスは戸惑いの表情を見せ、それでもミカに笑ってくれた。

 ミカはエロル夫人を見た。

 口元に手をあてて、心配そうにミカを見つめている。

 二人の黒いドレスがぼんやりと滲む。

 ミカは目元をこすった。

(ばか! 泣いても困らせるだけだって!)

 硬く笑って、声を絞りだした。ちょっとかすれた。


「ごめんなさい、忘れ物して……取ってきます!」

 ミカは二人に背をむけて、朝食室を飛びだした。



 中庭を突っ切り、庭園の脇を駆けぬけた。息が上がって、高台に続く道の手前で立ち止まる。そのまま、柵の側にへたりこんだ。両手のひらに顔を埋める。べったりと湿って気持ち悪い。


(ふつーに喋れてたから……考えたことなかった)


 ここは19世紀の英国だ。みんなが喋ってるのは、英語。ミカが喋ってるのは、日本語。なんで意思の疎通ができてたのか、今さらだけどわかんない。百年以上も昔の世界。しかも外国。文字も読めなくて。会話まで出来なくなったら? 喉が詰まったみたいになる。どうしよう。どうしたらいい? なんで突然…………ガサガサと葉の擦れる音がした。太陽を背に、丘の上に馬の影があった。


 馬は道を駆け、ミカの前にあらわれた。黒い毛並みに跨り、アリーが見下ろしている。ミカは勢いよく立ち上がった。洟をすすって、目元をごしごしとぬぐった。


「すみません。なんでもないんです。すぐに仕事に戻りますから……」

 アリーの腕が差しだされた。ミカは戸惑いながら首を振った。

「え? あの……乗れってことですか? や、ちょっと高くて無理で……」

 手綱をひかれ、馬が柵のそばに近づいた。ミカは鉄製の柵を見て、馬上のアリーを見た。

(……もしかして這い上がれって?)

 柵に足をかけ、馬の首に手を伸ばしてよじ登る。ぐっと腰を引き寄せられた。顔を上げたら、視線の高さが変わっていた。


「うわあ……」


 景色がゆっくりと流れていく。

 アリーの胸を背中に感じた。

 背後から両腕が伸びていた。

 左手で腰を支えられ、右手は手綱を握っている。

 梢がゆれ、頭上から乾いた音が降りそそぐ。

 黒い葉陰にちらちらと光が舞っていた。

 ミカは息を吸いこんだ。

 冬の空気に土と草と、太陽の匂い。

 この匂い、知ってる。

 近所の公園を歩くときと同じ。

 ミカは息を吐いた。

 馬の背のうえで、いつもより遠くまで見渡せる。

 青空のむこうに塔の先が見えた。

 風が吹き、草原がいっせいに鳴り響く。

 ミカは首を後ろにむけた。

 金色の双眸がミカに注がれている。


「……ありがとうございます」

 涙の跡に指先がふれた。

「大したことじゃないんです。あの、ホームシックっていうか……ちょっと落ちこんだだけで……ほんとになんでもなくて…………あ、そっか。通じないんだっけ……」


 声の終わりは風にかき消された。

 アリーの目にミカが映っている。

 なんで?

 と尋ねたくても、今のミカには答えが聞き取れない。

 だから。

 ミカは口を閉ざして、顔をくしゃりとさせた。

 アリーは唇を開き、また閉ざし、食い入るようにミカを見つめた。



 丘を登り、また丘を下り、馬はもとの道に戻ってきた。アリーに降ろされ、ミカは乱れたドレスの裾を直した。見上げれば、馬はもう尻尾をミカに向けていた。


「あ……」

「ミカーーーーーーー‼」


 芝生のむこうから、アリスが駆けてきた。小道を走り抜け、目の前で荒い息を整える。ミカの手を取り、ぎゅっと硬い金属を押しつけた。手のひらに懐中時計が載せられていた。


「ここにいたんだ‼ ねえミカ、これミカのだよね⁈」

「……うん、そう」

「よかったあ! 朝食室の隅に落ちてたの。これ探してたんでしょ? だから元気がなかったの? 見つかってよかったね!」


 アリスが白い歯を見せた。嬉しそうにミカの肩をつかんでいる。

 胸が溢れそうで、ミカはぎゅっと唇を嚙みしめた。


「……うん、そうなんだ。ありがとう……ありがとう、アリス」

 えへへ、と笑うアリスを抱きしめた。

 ミカの腕のなかで、アリスがぴくりと硬くなる。ミカの腕を優しくほどいて、慌てて頭を下げた。

「あっ……アリー様‼ 気づかずに……失礼をいたしました……!」

 二人から少し離れ、アリーは馬上からこっちを見下ろしていた。

「アリスか……どうだ。あれから起きられるようになったか?」

「はっ……はいっ! あのっ……ミカが……助けてくれて……一緒の部屋なんです……」

「そうか……よかったな」


 目が細められ、ちらとミカを見やった。金色の視線が下がり、ミカの懐中時計をなぞる。ミカは自分の手に目をむけた。再び顔を上げたとき、馬は丘を駆けのぼっていた。

 懐中時計は、金の鎖が切れていた。ミカはため息をついた。あーあ、自分のせいだ。力まかせに引っ張っちゃったから。たぶん……いやきっと、この時計のおかげでみんなと喋れてるんだと思う。それにこれ以外に、21世紀に戻る手がかりなんてないし。ミカは祈るように時計を握りしめ、ポケットのなかに滑らせた。


 ふいに隣に目をむけた。

 上気した顔で、アリスが高台の小道を眺めていた。



 ミカは金属製のパンを手に、使用人ホールに戻った。エリザベスたちが晩餐室にいる間に、毎晩このパンでベッドを温めている。蓋のついた柄の長いフライパンといった形で、蓋のなかに熱い石炭が詰まってる。ホールの暖炉に石炭を戻した。今夜の仕事はこれで終わり。パンを片付けてたら、低く澄んだ声が背中にかかった。


「ミカ、アリー様に夜食を持ってってくれるか?」

「あ、はい。分かりました」

 そっか。もうこっそり差し入れなくていいってことかな。

 ホワイトリーは、言い淀むようにメガネを押さえた。

「あと、アリー様からの命令でな……」


 続いた言葉に、ミカは目を丸くした。



 部屋に戻って、ミカはメイドの黒い制服を脱いだ。黒いストッキングも脱いで、下着姿になった。戸棚を開けて、黒いワンピースを取りだした。脚を入れて、背中のファスナーを上げた。黒いウールのタイツを履いた。黒いかつらをじっと眺め、また戸棚に戻した。

 キッチンで夜食を受け取った。銀のトレーには、銀のポットと白磁のカップが二つ、それにビスケットやチーズの皿が載っていた。なるほどね。今夜は部屋に誰かいるんだ。誰だろう。公爵? アンソニー? ジョージ? ……エリザベスだったらどうしよう。なんて考えながら、北側の階段を上がっていった。


 扉をたたくと、すぐに招き入れられた。

 テーブルにトレーを置いた。ミカは視線をそっと動かした。

 まだ誰もいないみたい。


「もう紅茶を淹れてもいいですか?」

「ああ、頼む」


 アリーが椅子に座った。今夜は寛いだ様子で、艶のある緑のガウンに足元まで覆われている。彼の黒髪と金色の瞳によく映えていた。繊細な白いカップに琥珀色の液体を注いでいく。湯気が立ち、ふわりと華やぐ香りがひろがった。二人分の紅茶を並べて、ミカは礼をして背中をむけた。


「座れ」

「……え?」


 アリーが隣の椅子を指さした。テーブルの前には、斜めに向きあうかたちで椅子が二つ並んでいる。彼が昨夜座っていた、暖炉に近い椅子が空けられていた。椅子とアリーの顔を見比べて、言われるままに腰を下ろした。

 暖炉がぱちぱちと爆ぜて、温かな熱が伝わってくる。淡い黄色の壁紙には、金色の模様が描かれていた。部屋のあちこちで、ランプやロウソクが炎を揺らしている。目の前にソファがあり、その横の丸テーブルの上で。扉の横、ミカの腰ほどの高さの棚の上で。扉近くの壁に吊り下げられて。ぼんやりと金色に浮かびあがる部屋は、アリーの瞳を彷彿とさせた。


「飲まないのか?」

 部屋と似た、金色の双眸がミカを眺めていた。

「へ? いや、これお客さんのためじゃ」

「おまえのためだ」

 白いカップがアリーの口元に運ばれる。

 ミカはつられるように、華奢な取っ手に指先をのばした。

「……制服じゃないのか」

 ぽつりと言葉が漏らされた。

 ミカは手を止めて、椅子から立ち上がった。

「制服は脱げってミスター・ホワ……いや、聞き間違えかもしれません。すみません、着替えてきます」

 アリーに左腕をつかまれた。

「必要ない」

 腕をひかれ、促されるように椅子に戻った。

 つかまれた部分が、じんわりと熱い。

 ……ううん、きっと気のせい。


「あ、昼間はありがとうございました。ちょっと落ちこんでて……気持ちが晴れました」


 目の前の表情が柔らかくなった。

 ランプの炎が瞳にゆれている。

 その双眸が細められ、

 アリーの白く長い指先が、ガウンの紐をほどき、

 緑の波がひろがり、ガウンが首すじから滑り落ちていく。

 アリーは口元に微笑をたたえ、

 筋張った手を、ミカの手の甲にかさねた。

 ミカは目を見開いた。

 声さえ上げられなかった。

 ガウンを脱いだ男から、緑の布に隠されていたものから、目を逸らすことができなかった。


「なあ、ミカ。なんで俺に呼ばれたか……もう分かっただろ?」


 ミカは力なく首を横にふった。

 ありえない。

 こんなこと、ありえないのに。

 …………だけど。もう分かった。


「…………こう」

「なんだ? もっと大きな声で言えよ」


 アリーが唇の両端を上げる。

 ミカは睨むように、まっすぐに男を見据えた。

 声の限りで叫んだ。


「あっ…………A学院高…………っ‼」

「正解」


 濃紺のブレザーに同色のズボン。

 白いシャツ。紺と灰色のストライプ模様のネクタイ。

 21世紀の男子高校生は、貴族らしく優雅な笑みをうかべていた。

■おまけ■

「ミカ、そっちはもう終わりそう?」

「~~?」

「あのね、終わったら一緒に正面玄関をしない?」

「~?」

「あ、ごめん、まだかかりそうかな?」

「……~?」

「~~~、アリス。~~~?」

「えっと……ごめん、聞こえなかった?」

「~……~、~~~。~~~~~~」

「二人とも、どうかしたの?」

「あの……ミカが……」

「ミカがどうしたの?」

「~~ー、~~~~、~~~~~~~~?」

「ミカ、なんて言ってるの?」

「どこか具合でも悪いの、ミカ?」

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― 新着の感想 ―
[良い点] 懐中時計がキーアイテムだったんですね。不思議の国のアリスみたいです。ミカちゃんは一体どんな事情を抱え込んでいるか、気になります。
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