1-4 きみはだれ?(下)
アンソニーから解放されて、昼食の時間がやってきた。
昼食といっても、ミカたち使用人にとっては晩餐みたいなもの。21世紀と同じで貴族たちは夜に晩餐を食べる。でも使用人は昼に晩餐を食べて、夜は軽く食べるだけ。タイムトラベルから五日目。昼食はこれで四回目。実は毎日、楽しみにしてる。
使用人ホールの長テーブルを囲むのは、両端にホワイトリーと、エロル夫人。片側にはそれぞれ、ハウスメイドのローズ、マーガレット、アリス、ミカ。フットマンのジョン、アルバート、それからアンソニーの従者・ラチェットが座っている。コックのパウエル夫人とキッチンメイドのパメラは、別棟のキッチンで食べてるみたい。給仕はメイドとフットマンで当番を決めて、持ち回りでしてる。
肉料理は羊やウサギと日替わりで、今日は鶏だった。朝、パメラが羽をむしってくれてたやつかも。それからプティング。コンビニのプリンを想像したけど、全然違う。ミルクのお粥みたいなライス・プティング、蒸しパンみたいなブレッド・プティング。昨日は日曜でローストビーフが出たから、その付け合わせでヨークシャー・プティングだった。シュークリームの皮みたいで、グレービー・ソースと絡めて食べるとすごく美味しい。今日はとろりとして甘酸っぱいレモン・プティングだった。テーブルに置かれたサラダは、菜園で採れたセロリや芽キャベツ、ブロッコリーやエンダイブ(レタスみたいな葉野菜)と緑が鮮やか。味が濃くて、栄養たっぷりって感じ。それにチーズやパン、食後にはケーキと紅茶も出てくる。夕食はいつもカレーライスとか冷食のハンバーグとか自分で作ってばっかだったから、誰かのお手製ごはんってだけで気持ちが上がる。
「ミカは嬉しそうに食べるわね」
エロル夫人が、こっちを見てにこにこしてる。はい、地味にテンション上がってるんで……そう思いながら、ミカは照れ笑いした。
「や、でもここはすげーよ。俺の前の家なんてひでーもんだぜ。マカロニ、マカロニ、毎日毎日マカロニばっか。全身小麦粉になるんじゃねーのってぐらい」
「えー、でもマカロニ美味しくない? グラタンとか好きだよあたし」
「ミカ、いーか、マカロニっつってもな、どろっどろのゆるゆるだかんな?」
「あーーーそれはいやかも」
ジョンは気さくに話しかけてくれる。ミカより3つ上で20歳。面倒見のいいお兄ちゃんて感じ。隣に座るアルバートとは、まだ一度も話したことがない。でも重たい物(石炭バケツとか)を運んでたら、手袋を外して手伝ってくれる。物静かでジョンとは正反対だけど、年も近そうだし、お互い気が合ってるみたい。
その隣のラチェットは、昨日も今日も、全然会話に加わらない。苦い顔をして、むっつりとナイフとフォークを動かすだけ。昨日の昼食にあらわれたとき、ミカは内心憂うつだった。また絡まれるかもしれないし。目が合ったら嫌な笑いを浮かべられたし。でもホワイトリーに紹介されるうちに、ラチェットの顔から笑みが消えた。
『みなさん。こちらは、ミスター・アシュリーの従者・ラチェットさんです。アシュリー家の執事・ミスター・リーの評判は、みなさん、一度は耳にしたことがあるでしょう。そんな彼のもとで働くラチェットさんですから、その振る舞いは、良いお手本となるに違いありません。ラチェットさん、あなたがこの屋敷で、どんなに素晴らしい紳士づきの紳士であったか、ミスター・リーにお伝えできることを嬉しく思います。ありがたいことに、わたしは彼と親交がありますので。この春の社交期に、ぜひお話させてもらいますよ』
えーっと。要するに、「この屋敷での行動は全部上司に筒抜けだぞ」ってことだよね? やるじゃん、執事さん。昼食のあとも、ラチェットがミカに近寄ってくると、いつの間にか隣にジョンやエロル夫人が立っていた。
『ラチェットさん! 俺ゆくゆくはフットマンから従者になりてーって思ってるんす! ちょっとこっち来てアドバイスくださいっ‼』
『は⁈ いや、オレは彼女と話を……』
『ほらこっちこっち! 暖炉の側のが暖ったかいですよ!』
『おい、引っ張るなよ服がしわに……』
『あらラチェットさん、ちょうど良かったわ。ランプの具合が悪いんですの。見ていただいてもよろしいかしら』
『は⁈ いや、なんで従者のオレがそんなこと……』
『この屋敷は人手不足でしょう? ミスター・ホワイトリーもジョンもアルバートも、手が離せなくて。それにラチェットさんはとても背が高くていらっしゃるから。頼もしいわあ。ふふ、素敵ね』
『いやちょっとあなた、胸、胸があたって……』
こうして、ラチェットはミカに近寄る度に、いつも誰かに連行されていった。確信犯かな。確信犯かも。なんとなく、ホワイトリーが手を回してくれてるような気がした。理由は分からないけど、単純にありがたかった。
「……この屋敷は、上級使用人も下級使用人も、最後まで一緒に食事をするんですね」
カップを持ち上げて、ラチェットは不満そうにつぶやいた。
「ええ。なにしろ少人数なものですから。ハウスキーパー室に移動したら、わたしとエロル夫人の二人きりになってしまいますからね」
「食事中の会話も許されているとは」
「たった8人で黙々と食べるのも気まずいもので。もちろん、みんなルールは知っておりますよ。よその屋敷で同じように振る舞うことはありません。ご安心ください」
「……ゆるい屋敷だ」
そっか。使用人って、食事中に喋っちゃダメなんだ。テーブルの端で、ホワイトリーが苦笑いしてる。ミカはぐるりとテーブルを見まわした。お母さんが夜勤のときは、台所で一人で食べてた。お昼は女の子のグループと食べてる。一人で食べてもお腹はふくれるし、女の子とのお喋りも楽しい。でもこうして大きなテーブルを囲んで、男の子も女の子も関係なくみんなで食べるのって、ちょっと新鮮。なんだか大家族になった気分。黙々と食べるお屋敷だったら、窮屈でうんざりしてたかも。隣の席のアリスも、ローズやマーガレットも楽しそうに笑ってて。「ミカ、プラムのジャムを取ってくれる?」マーガレットに瓶を手渡しながら、ミカも笑みをこぼした。
◆
月明かりのなかで、ミカは三階の窓を見上げていた。
こっそりベッドを抜けだして、北側の門にやってきた。屋敷の北棟には、公爵とアリーの部屋がある。たくさん並んだ窓のなかで、中央から左寄りが、昨夜訪れたアリーの部屋だった。カーテンの隙間から細い明かりが漏れている。まだ起きてるみたい。ミカはキッチンに向かった。
銀のトレーを手に、三階の扉をノックした。少しの間のあと、廊下に光がひろがった。
「……おまえか。こんな夜中にどうした」
「夜食をお持ちしました」
「……頼んでないぞ」
「今夜も食欲がなければと思いました。でも必要がなければ戻ります。勝手にすみません」
ミカは頭を下げた。一昨日みたいな冷たい目を覚悟した。余計なことを、とまた怒られるかも。
「なぜだ?」
「え?」
「誰かに頼まれのか?」
「いえ」
「……私を手懐けようとしているのか?」
「は? いやまさか」
顔を上げたら、視線が合った。
金。淡い緑。ヘーゼル。
ランプの炎がゆれる度に、瞳の色も変わった。
「昨夜、誰にも知られたくなさそうだったんで……今夜も食欲なくて一人で我慢してるんだったらあんまりいい気分じゃないだろなって……思っただけです。余計なお世話だったら戻り……」
「入れ」
アリーは扉に背をつけ、身体をひいた。あいかわらずの無表情で、なにを考えてるのか分からない。部屋は居間のような設えで、寝室と扉でつながっている。ミカはテーブルにトレーを置いて、鍋にミルクを注いだ。
「……鍋?」
アリーが怪訝な顔で眺めている。
「キッチンは火を落としてますけど、部屋に暖炉があるんなら、直接、鍋を温めたらいっかなと思いまして」
ミルクをカップに移し、砂糖をかき混ぜる。湯気が立ち、ほんのりと甘く香った。アリーは椅子に腰かけて、目の前のトレーを見つめている。ミカはカップを置いた。ホットミルクと、ビスケット。
「なにも入ってませんけど。毒味しますか?」
アリーは答えず、カップを持ち上げた。
ビスケットが口のなかに消えていく。
ミカは目礼して、部屋を出ようと踵を返した。
「待て」
振りかえったら、じっと視線が注がれていた。
「おまえは誰だ? 記憶はまだ戻らないのか?」
「はい」
「…………怖くはないのか?」
怖くないかって? いや記憶喪失って嘘だから。
「…………怖いですよ」
ミカは金色の目を見つめ返した。怖いよ。もし二度と帰れなかったら、どうしよう。いや帰れるって信じてるけど。それでも考え始めたら胸の奥がひやりとするから、ミカはなるべく考えないようにした。
「思い出せたらいいな」
ミカは耳を疑った。優しさが滲むような声。目の前にあるのは、冷たさも嘲りもないまなざしだった。
「ありがとう……ございます」
「まあいい。おまえが何者だろうが、怪しい行動をすれば、オーストラリア行きの囚人船に乗せるまでだ」
「は⁈」
アリーは湯気を散らして、カップに口をつけた。
ビスケットが砕ける音がする。
上目遣いのまなざしに、いたずらめいた輝きが垣間見えた。
ミカはぱちぱちと目を瞬いた。
…………やっぱり気のせいだったかも。
◆
午前4時。ランプが灯る。
赤い小花模様のなかに背中が浮かんだ。白いキャンバスのようにも見える。指が筆の代わりに縦にすべる。キャンバスが小さく震えた。指がくるくると動きまわる。
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michelle. ミシェル。
サザランド夫人の口元から笑いが消えた。
背後を振りかえり、アンソニーの手の甲をつねる。
「他の女の名前をだすのは、お行儀が悪くてよ」
アンソニーが目を細めた。
「あなただって、僕ひとりではないでしょう」
「でもわたくしは、あなたが一番お気に入りなの」
「それは光栄ですね」
薄くヒゲの生えたあごに手がふれる。
「あのメイド、誰の子かしら?」
「さあ、僕にはさっぱり」
「ミシェル? それとも彼女のご家族……」
「彼女には無理ですよ」
「そう。初恋の相手には、清らかでいてほしいものね」
「そうじゃない。あの人は、ずっと臥せてたんだから」
「むきにならないで」
「なってないよ」
唇の音が鳴った。
「あの古狸、一体なにを企んでいるのかしら」
「そんな怖い顔しないで。あなたの義兄さんでしょう?」
「義兄だなんて。結婚以来、一度だって会おうともしなかったのよ。なにが女性の察しのよさよ。ばかにしてるわ」
「あなたは怒った顔も美しいな」
サザランド夫人が頬をつねった。
「あなたは一体、誰の味方なのかしらね?」
「さあ。僕は気まぐれだから」
「こんなときは、嘘でもあなたの味方だと答えるものよ、アンソニー」
「ははっ、覚えておきます。僕はあなたの味方ですよ、エリザベス」
「……ほんとうに腹立たしい坊やだこと」
ランプが消えた。
夜明けには、まだ遠い。