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1-4 きみはだれ?(上)

 ミカは目を開けた。毛布をはねのけて、カーテンを開ける。まだ外は薄暗い。アリーの寝室から戻って、気づいたら眠りに落ちていた。両腕を伸ばす。うーん、よく寝た。水差しから洗面器に水を注いで、布をしぼった。ナイトドレスの裾をまくって、身体を拭いていく。うう、冷たい。でもシャワーの代わりだし。石鹸は使わない。冷水じゃ泡立たないから、週に一回、キッチンでお湯をもらって髪の毛と一緒に洗うんだって。いまは冬だからいいけど、夏になったら週一って辛そう。ミカは首をふった。ううん、その頃までには21世紀に帰ってるはず。うん、そう思いたい。午前用の制服に着替えて、洗面器の水をトイレに捨てた。使用人区画に水洗トイレがあるのは珍しいそうだ。ローズたちが以前に勤めてた屋敷では、使用人もご家族も寝室のチェンバー・ポットで用を足してたみたい。いわゆるオマル。ポットを空にするのもハウスメイドの仕事と聞いて、ミカは心底、水洗トイレに感謝した。


 キッチンでは、パメラが鳥の羽をむしっていた。レンジの上に大きな鍋が載せられて、ぐつぐつと湯気がのぼっている。ミカは棚からカップを取りだし、自分のぶんの砂糖を入れた。砂糖は各自で割り当てが決まっている。お茶の時間に紅茶に入れて、なくなれば、翌週に支給されるまで我慢する(でもお願いしたらエロル夫人がこっそり分けてくれるって、フットマンのジョンが教えてくれた)。


 レンジの蛇口をひねって、カップにお湯を注ぐ。スプーンで混ぜて、パメラにお礼を言って扉にむかった。パメラはこっちを見ずに返事をして、鳥の羽と格闘してた。



 アリスを抱き起こして、ベッドに座らせた。毛布にずるずると滑りこむより先に、カップを握らせて口元に持っていく。


「あったかい……あまい……おいしいねぇ……」

 両手にカップを持って、とろんとした顔で笑ってる。

 かわいいなあ、もう。


 もぞもぞと毛布から這い出して、「ありがとう」とにっこり笑って、アリスも着替えを始めた。ミカはドレスを半分脱いで、コルセットを締め直してもらう。


「ねえアリス、マイケルって知ってる?」


 昨日のジョージとの会話のあと、誰かに聞いてみたかった。禁句なんて言われたから、余計に気になる。でも聞く相手を選ばなきゃ今よりもっと怪しまれそう。アリスは最初から友好的だし、ミカの父親のことも内緒にしてくれてるみたい。迷ったけど、彼女になら聞いてもいい気がした。


「マイケル? 知らないなあ……有名人? なにか事件の犯人とか?」

「うーん、あたしもよく分かんないんだけど」

「あっ、なにか思い出したの? じゃあミカと関係ある人?」

「……かもしれない」

「誰かに聞いてみようか? ローズとか、エロル夫人とか」

「いや、だめだめ! 禁句……ほらあの、記憶が曖昧だから中途半端なこと言っても心配かけるだろーし。ちょっと気になっただけなんだ、ごめん」

「ううん。わたしもこのお屋敷に来たの、ミカよりちょっと前なんだ。みんなは半年前からいるから、なにか知ってるかもしれないけど……」

「じゃあ年明けからすぐ?」

「……違うの。最初は別のお屋敷にいたんだけど、あのー、その……起きれなくて。三日で解雇されちゃって。せっかくロンドンまで来たのにどうしようって途方に暮れてたら、使用人紹介所でミスター・ホワイトリーが声をかけてくれたの」

「そっか。よかったね」

「うん! おかげで失業しなくてすんだの。感謝してるんだ」


 アリスは顔中に笑みをひろげた。そういえば、パメラもミスター・ホワイトリーの責任になったら困る的なこと言ってたっけ。わりと信頼されてるんだ。あたしのことも怪しがりつつ雇ってくれたし。励ましてくれたし。なんて思ったら、ミカも笑顔になった。うん、いい人かもね。猫かぶってるけど。



 赤の間のベルが鳴る。キッチンで朝食を受け取って、三階に上がった。屋敷のスケジュール通りだと、7時半にお茶を運んで、それから9時に朝食室か寝室で朝食が出される。でもエリザベスは朝が遅いらしく、ベルが鳴るまで部屋に入らないように指示された。


 夜にお酒を飲んだみたいで、ベッド脇の小テーブルにグラスが並んでいる。エリザベスはベッドで上体を起こしていた。布団の上に朝食のトレーを置く。トーストやロールパン、ゆで卵、ハムとベーコンにソーセージ。ジャムやバター、紅茶に砂糖とミルクとオレンジジュース。貴族の朝食は、21世紀の食卓と似たようなものだった。もちろん、今のミカの朝食はもっと質素だけど。


 エリザベスは寝起きのせいか口数が少ない。質問攻めになる前に、グラスを回収して、ミカは急いで部屋をあとにした。廊下にでて数歩進んだところで、腕をつかまれて部屋に引きずりこまれた。昨日の朝、掃除をした部屋だ。赤の間のとなりの白の間。滞在客は、アンソニー。


「なっ……なっ……‼」

「ほんとにエリ……サザランド夫人のお世話係になったんだ」


 目の前にアンソニーが立っていた。

 ミカは扉を背に、両腕のなかで動けない。

 そう、あれ。

 壁ドン。

 壁ドンなんて現実に存在したんですか。


「なにするんですか⁈ グラス割れるかと思ったじゃないですか‼」

「ああ……ごめんごめん」


 悪びれた様子も見せず、アンソニーは髪をかき上げた。髪、ぼっさぼさ。長いシャツみたいな寝間着は、最初のボタンが掛け違えられてて、全部ずれてる。一昨日の王子様の面影、ゼロ。なのに。ミカは一人っ子だ。父親の顔も知らない。寝起きの男の顔なんて、16年と数カ月の人生で見たことがない。いま、初めて見た。こんなだらしない恰好でなんでこんな色気があるのか分かんない。薄っすらヒゲまで生えてるのに。ミカは目をそらした。二股男だって分かってるのに、ドキドキする自分がチョロすぎて、なんかくやしい。


「これ、どうしたの?」

 親指が頬をなでた。

「……掻いたら爪があたったんです」

「へえ。かわいそうに」

 顔をのぞきこまれて、落ち着かない。

「記憶喪失なんだって?」

「はい」


 探るように見つめられた。青みがかった朝靄みたいな双眸は、まばたきもしない。


「……きみはだれ?」

「え?」

「きみは誰なんだろう? ねえ、ミカ?」


 アンソニーの顔から表情が消えた。気怠く甘い空気は微塵もなくなり、部屋が急に寒くなった気がした。


「あたしは……ただのメイドです」

「ほんとになにも覚えてないの?」

「はい」

「ほんとかなあ……」


 アンソニーは人さし指で、ミカの唇をなぞっていく。

 唇に指がねじこまれる。


「……誘惑しなよ。公爵家の財産なんて狙わなくても、僕と結婚したら、アシュリー家の財産を好きに使わせてあげるよ」


 指先が奥に入る。

 ミカは思いきり歯を立てた。


「…………っ痛‼」


 アンソニーは目を丸くして、手を引っこめた。


「狙ってないし」

 ミカは冷たく言い放つ。

 目の前の呆然とした顔が、突然、くしゃりとなった。

「はっ……ははっ、そうなんだ? いらないの、財産?」

「いらないし」


 仏頂面をするミカに、アンソニーの笑い声が大きくなった。


「そう……そうなんだ。はは、ほんと嫌そうな顔」

「いやふつーに失礼だし。あと指つっこむな」

「そう、そうだね……ごめんね。ははっ、いいなあ、ミカ。やっぱり結婚しよう?」

「浮気前提の結婚とかないし」

「ああ……サザランド夫人? 浮気じゃないよ」

「あんな人前でいちゃこらしといてなに言ってんですか」

「ゲームだよ」

 さらりと告げられ、ミカは言葉を失くした。

「ご婦人方の、退屈な社交界の暇つぶし。恋の駆け引き。ただの遊びだ」

「……そんな」


 そんなのってアリ?

 …………アリなのかな?

 よく分かんない。

 この時代の社交界なんて知らないし。

 そもそも恋愛の経験値だって皆無だし。

 …………いや。いやいや待って。

 経験値はともかく、あたし21世紀の女子高生だもん。

 浮気をゲームとか言うよーな彼氏……うん、ないない。


「浮気は浮気、二股は二股です。ないです。いやです。ゲームとかむり」

「いやなの? やめたら結婚してくれる?」

「しません。勝手にいちゃこらしてください」

「なんだよ。つれないな」

 アンソニーが扉を開けた。

「気が向いたら、いつでもどうぞ。特別結婚許可証を準備するから」

「一生ないです」


 そのまま顔を背けて、通りすぎようとした。

 ぐいと肩を引かれて、部屋に戻される。

 歯型の残る指をミカに見せて、

 アンソニーは自分の唇にあてた。


「懐柔してよ。きみのために動いてあげるから」

「意味わかりません」


 廊下に押しだされ、扉が閉まる。

 重たい扉のむこうに、笑い声が消えた。



 夜、19時。今夜も晩餐が始まった。


 長方形のテーブルの端には公爵が、もう一端にはアリーが腰かけている。片側にはサザランド夫人と息子のジョージ、彼と向き合う形でアンソニーが座っていた。

 壁はオーク材の鏡板張りだ。飴色の木製パネルにランプが映える。その一つ一つに金縁の肖像画が飾られて、彼や彼女の子孫たちを物言わず見下ろしていた。大理石の暖炉の上には、スイカズラが彫られた鏡板が嵌めこまれていた。白いテーブルクロスの上に、銀の燭台が並び、光がまたたき陰が濃くなった。紺色の上着のフットマンが、銀のトレーを手にテーブルのまわりを歩く。澄んだコンソメのスープ。鶏のクリーム煮、マッシュルーム添え。


「ミスター・サザランド。今夜はお顔色がよくてね。安心しましたわ」

「ありがとうございます」

「わたくしたち、急に押しかけてしまったでしょう。公爵とお二人で静かに過ごしてらっしゃるのに、ずいぶん煩い女が来たとお思いでしょうね」

「とんでもないです」

「女性の察しのよさというものは実に素晴らしいですね」


 フォークの尖った先端が、マッシュルームを突き刺した。

 公爵の口のなかで噛み潰されていく。一個、二個、三個……。


「お義兄様。そうですの、女性特有の勘というものですわ。この数ヶ月、どうにも胸騒ぎがしてなりませんのよ。わたくしの息子に、なにか不吉なことが起きるんじゃないかって、不安で不安で夜も眠れませんの」

「母さん、どこか具合が悪いんじゃない? いい内科医を探してあげようか?」

「お黙りなさいな、ジョージ」

「彼の言うとおりですよ、サザランド夫人。不安な気分になるのは病のせいかもしれません。ニース……いや、フィレンツェもいい。イングランドをはなれて、外国でゆっくりと静養されてはいかがかな?」

「……そうですわね。静養といえば、ミスター・サザランドは長い間、遠方でお暮らしだったとか。ぜひお話を聞かせていただきたいわ」


 アリーの頬がぴくりと引きつる。フットマンは皿を下げ、また皿を載せた。小鴨のロースト、グリーンピース添え。


「……田舎です。お聞かせするような話などなにもない、つまらない田舎ですよ」

「スコットランド? もしかしてアイルランドかしら? ですけど、ミスター・サザランドはずいぶん変わったお名前でいらっしゃるもの。まるで異教徒のような……」

「サザランド夫人。この部屋で女性の声を耳にするのは、十年になりますか……妻が亡くなって以来、ずいぶんと久しいものです。華やかで心が和みますよ。しかしうちのコックはなかなかの腕前でしてね。ぜひ冷める前に、その小鴨を楽しんでいただきたい」

「あら、わたくしったら、お喋りに夢中になってしまったわ。久しぶりにお義兄様のお顔を見られて嬉しくてつい。最後にお会いしたのは、主人との結婚のご挨拶のときでしたわね? お義兄さまたちは、あの人の葬式にもお見えにならなかったものですから」

「申し訳なく思いますよ。忙しくてね」

「ええ、そうでしょうとも。実の弟の葬式に出られないぐらいにはね」


 ナイフが小鴨を切り裂いていく。

 肉の塊が、サザランド夫人に嚙みちぎられた。

 ジョージが上目遣いで目配せする。


「グリーンピースといえば……ご存じですか? この野菜は、ご婦人の胸元に飛びこむのが好きだとか。ある晩餐会でフットマンが給仕をしていたら、客人の肘があたってグリーンピースが宙を舞ったそうです。熱々のグリーンピースが、次々とドレスの胸元に……ははっ、サザランド夫人、僕を睨まないでください。ですからグリーンピースが食卓に上がるときには、十分に注意したほうがいいですよ」

「それはポテトだったと聞いたわよ、ミスター・アシュリー」

「じゃあポテトにも用心しなければね?」

「……いいかげんな坊やだこと」


 アンソニーをひと睨みして、サザランド夫人はグリーンピースをつついた。

 感謝の視線を送るジョージに、アンソニーはウインクを投げた。



 ワインを飲み、まもなくサザランド夫人は席を立った。ジョージが後に続く。

「ジョージ。あなたは今夜も部屋に残ったら?」

「いや、いいよ。ボクは煙草も吸わないし」

「……あらそう」

 サザランド夫人はため息をついて、息子とともに部屋をはなれた。


 白い煙が漂うなかで、アリーが立ち上がった。


「私もこれで失礼します」

「アリー。コーヒーはいいのか」

「自室でいただきます。調べ物がありますので」

「ミスター・サザランド。よければ一本どうだ? 昨夜はあまり話せなかっただろう?」

「私は煙草を吸いませんので。失礼」


 扉が閉まる。晩餐室に公爵とアンソニーだけが残された。扉が開き、ホワイトリーが二人の前にコーヒーを差しだした。


「みんなつれないな。ミスター・サザランドは……」

「クリブデン卿だよ、アンソニー。いずれそうなる」

「……ジョージは善良な男ですよ」

「あるいは、そうかもしれないね。彼の両親よりは」

「サザランド夫人が黙ってないでしょう」

「もう乗りこんで来てるじゃないか……どこから嗅ぎつけたのやら。いまいましい女狐め」

「愛らしい女狐ですよ」

「……あの女、ジョージ、私。きみは一体、誰の味方なのだろうね?」

「僕が忠誠を誓うのは、一人ですよ。きみもそうだろう、ホワイトリー?」


 巨大な扉の横に、ホワイトリーが立っている。

 表情ひとつ変えず、会釈が返ってきた。


「心あたりがございません」

「もったいぶるな。ここには、公爵と僕しかいないんだ。きみも初恋だったんだろう?」

「……さて。なんの話でしょうか」

「きみたち。ミシェルは私の妻なんだがね」

「ははっ、無垢な子どもの初恋ですよ、公爵。僕はたったの10歳だったんです」

「10歳は子どもではない。少年だよ、アンソニー」


 公爵は煙を吐きだして、呆れた目つきで彼をにらんだ。

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