1-3 ミカ、助けられ、助ける(下)
使用人ホールの壁には、ベルが一列に並んでいる。階上の各部屋につながって、誰かが紐をひけば鳴る仕組みだ。チリリン、と高い音が響いた。呼び出しは、赤の間から。ホワイトリーから担当を告げられて、数時間もせずに初仕事がやってきた。ミカは繕い物の手を止めて、椅子から立ち上がった。
赤の間は、名前どおりの部屋だった。目に鮮やかな朱色の壁紙に、マゼンタ色のふかふかの絨毯。椅子やソファに張られた布は、みんな濃淡の違うピンク色。ベッドの羽毛布団にまで赤い小花があしらわれてる。ちょっとやり過ぎ感がなくもないけど、ホテルの女子会プランとかなら喜ばれるかも。落ち着かない部屋のなかで、落ち着いた様子のエリザベスを前にして、ミカはそんなことを思った。
「夕食の着替えを手伝ってちょうだい」
ソファの上には、ストッキングやコルセット、ドロワーズやドレスが散らばっていた。エリザベスは下着姿で座っている。といってもこの時代の下着は、素朴なネグリジェみたいなもの。お腹も大腿も覆われてるから、体育の更衣室みたいな気恥ずかしさはない。
シルクのストッキングを手に、エリザベスの足元にひざまずく。差しだされた足の指に布をあてて、たるまないように大腿まで伸ばしていく。正直、自分で履いたほうが楽だと思うんだけど。ガーターベルトで固定して、マーガレットに教わったとおり、コルセットの背中の紐を締めていく。遠慮してゆるく結んだら「もっと締めて」と言われたから、思いきり締め上げた。うう、きつそう。ごはんとか食べれるのかな。ミカも一応、コルセットを着けている。制服と一緒におさがりをいくつか、エロル夫人が渡してくれた。きつく締めたら気分が悪くなったから、アリスに頼んで、毎朝ブラと同じぐらいに締めてもらってる。
ドロワーズを穿かせて(いわゆるショーツ。これ、人に穿かせてもらうってどうなの。恥ずかしくないの。穿かせてるあたしはちょっと照れるぞ。まあ見た目パジャマの半ズボンみたいだからいいけど)お尻にパッド(クッションみたいに膨らんでる。転んでも余裕そう)を巻いて、ペチコートを腰に留める。最後にドレスを引き上げて、背中のボタンを留めていった。
エリザベスの白い背中にドレスの赤がよく映えている。アンソニーと同い年の息子がいるなら、たぶんミカの母親より年齢は少し上ぐらい。お母さんもわりと美人だけど、どっちかというと元気で天然な感じ。この人はもっとこう色っぽいっていうか。女っていうか。ああそうだ、19世紀の美魔女? でも美魔女はともかく息子の同級生に手を出すってどうよ。いや出されたほうなのかも。とりとめもなく考えてたら、白い背中がまわって、エリザベスがにこやかに笑顔をみせた。
「ありがとう、ミカ。手際がいいわね。ホワイトリーったら、半人前だなんて嘘ばかり」
「ありがとうございます」
「記憶喪失なの?」
「はい」
「本当になにも覚えていないの?」
「はい」
「名前は覚えていたのね?」
「はい」
「そう……他に覚えていることは?」
「特にありません」
「年齢も? ご両親も? 出身地も? 自分がどこでなにをしていたのかも?」
「はい」
「それは困ったことね」
エリザベスの指先がミカの頬をなでていく。
冷たさに息を呑んだ。
「どうしましょう。どうしたら思い出すのかしら……ねえ、ミカ?」
「分かりません、奥様」
昼間みたいに、またせつなげに微笑んでみた。
エロル夫人を真似て、パチパチと瞬きもつけてみた。
とっさに小さく声を上げた。
ミカは呆然と頬に手をあてる。
むず痒く痛む肌をなぞったら、指に赤い液体がついた。
エリザベスは静かに微笑んでいる。
「ごめんなさい、爪があたってしまったわ」
心臓がどくどくと早くなる。
あの痛みを感じた瞬間、この微笑みが歪んだように見えた。
(……気のせい?)
ノックの音がして、すぐに扉が開いた。
「母さん」
青年の明るい声がして、部屋の空気が温かくなる。
「ああ、ジョージ。来たのね」
「ごめん、着替えの最中だった?」
「もうほとんど終わったわ」
エリザベスは鏡台に移動して、ミカに宝石を差しだした。
「ジョージ。滞在中わたくしのお世話をしてくれるメイドよ。ミカというの」
「そっか。ミカ、ボクはジョージ。公爵の甥なんだ。よろしく」
鏡台の側にやってきて、ジョージは笑顔をむけた。
ぱっと見は公爵に似てるけど、もっと陽気な感じがする。
ミカと目が合うと、ぱあっと嬉しそうな顔をした。
「ねえ、ジョージ。この子、誰かに似てると思わなくて?」
「さあ……あ、ラングトリー夫人? パーティーで一度お見かけしたことがあるよ。噂に違わず美しかったなあ」
「あんな王子の愛人じゃなくて」
「うーん、ボクあんまり記憶力よくないからなあ」
「……もういいわ。準備ができたら下りるから。先に行っててちょうだい」
エリザベスはこめかみを押さえて、息子を部屋から追いだした。
◆
宝石をきらめかせ、エリザベスは満足そうに笑った。
「明日もよろしくね、ミカ」
「はい、奥様」
ミカはお辞儀をして、赤の間をあとにした。
両手を組んでぐーっと伸びをする。
誰もいないから、ストレッチしながら廊下を歩く。
(明日もひっかかれたらやだなー避けたら逆ギレされるかなあ)
ぐるんと首をまわすと、ジョージがいた。
緑の間の扉が開いてて、その陰でくすくす笑ってた。
「疲れた?」
「いえ」
まぶたを伏せて、立ち止まる。
誰もいないと思って、腕ぶんぶん振りまわしてたぞ。
恥ずかしい…………。
「ねえミカ」
「はい」
「マイケルを知ってる?」
視線を上げたら、嬉しそうな顔が飛びこんできた。
「いえ、知りません」
「そっか」
ジョージは表情を曇らせて、寂しそうに笑った。
「ならいいんだ。ごめん、ボクがいったって言わないで。この屋敷じゃ禁句なんだ。知らないなら、忘れてくれ」
緑の間の扉が、静かに閉じられた。
◆
そしてまた、夜がやってきた。
灰色の天井をもう一時間ぐらい眺めている。
目を閉じたら、アリーの金色の目とアンソニーの温かな唇とラチェットのにやにや笑いとエリザベスの冷たい指先と、それにマイケルと口にしたジョージの嬉しそうな顔が順番によみがえってきて、眠れない。ミカは毛布を身体に巻きつけて、そっと部屋をはなれた。
アーチをくぐって、今夜は庭園にむかった。池だと、またアンソニーと鉢合わせるかもしれないし。庭園といっても、草花が咲き乱れるような庭じゃない。芝生が広がって、その一部が円や四角に刈り取られ、模様みたいに花が植えられている。憩いの広場って感じ。でもいまは、花も葉も暗緑色で眠ってるみたいに静か。庭園の真ん中に小道があって、その先は温室に続いていた。
温室は石造りの平屋で、前面がガラス張りになっている。薄暗いガラスに橙色の光が映っていた。正面の扉より、少し右側あたり。ミカは夜空を見上げた。半月が黄色く浮かんでいる。視線を下げた。
(月明かり……じゃないよね)
小道を歩いて、ガラスにぴたりと顔をつけた。薄暗くてじっと目を凝らす。今さらだけど、アンソニーとエリザベスだったらどうしよう。なんて思いながら、つま先立ちになったら黒髪が目に入った。
(うわ。そっちか)
足を戻して、そっと引き返そうとした。
でもなんか気になる。
なんか……横たわってたような?
ミカはもう一度、つま先立ちになる。
影絵みたいな葉の間からベンチが見えた。橙色の光は、ベンチに置かれたランプだった。アリーはその隣で、半分崩れるように座っている。
(寝てる? こんなとこで……?)
扉を開けると、温かな空気が流れてきた。こもった緑の匂いと、コポコポと流れる水の音。目の前に噴水があって、水が滴り落ちている。噴水の両側に、細い通路が伸びていた。ミカは右手の通路にむかった。木製のベンチの前に立った。
「あのー、寝てます? 大丈夫ですか?」
「……誰だ?」
か細い声が返ってくる。
え、まさか倒れてた⁈
「メイドのミカです。あの、誰か呼んできましょうか⁈」
「……なんだ、おまえか。必要ない」
あたしで悪かったですね。
じゃ帰ろっかな。
って思ったけど、辛そうだから離れられなかった。
「……こんな夜中になにをしている」
「いやそれあたしの台詞……いや、眠れなくて散歩してました。温室で明かりが見えたんで誰かが消し忘れてたら危ないなって。ほら火事とか冬って乾燥してますし」
「ああ……」
一応は納得したみたい。
「ならいい。もう戻れ」
「いやでも」
「なんだ」
「大丈夫ですか? 具合悪そうですよ」
「大丈夫だ」
「大丈夫に見えないですけど」
「……しつこいな。気分が悪いだけだ。部屋に戻って、酒を飲めばなおる」
「じゃあ部屋に戻ったら……」
「……動けるようになったら戻る」
動けないんじゃん。
「やっぱり誰か呼んできましょうか」
「いい。こんな夜中に迷惑だ」
「でもなんか病気とかなんじゃ」
「違う。腹が減ってるだけだ」
「へ」
「……昨夜からあまり食べてなくて、一時的に気分が悪くなっただけだ」
「お腹空いてるんですか」
「…………別に」
別にって。
ていうか。
「すきっ腹に酒とか絶対だめなやつですよ⁈」
「……うるさいな」
じろりと睨まれて、ぷいと横をむかれた。
なんだろう。
駄々っ子かな。
ランプの光は薄暗いけど、やっぱり顔色は悪そうで。
ほっといたら、ほんとに酒しか飲まないんじゃない?
別にほっといてもいいけど。
でも助けてもらったし。
ミカは毛布をはがして、アリーの肩にかけた。
(エアコンの効いた部屋とかでも、じっとしてたら冷えるもんね)
温室の扉を閉じて、キッチンに走った。
◆
キッチンの高い天井に、戸棚を開く音が反響する。
ランプを灯して戸棚を探り、ミカはビスケットとミルクを取りだした。この屋敷は、広さのわりに使用人の数が少ないそうだ。ご家族や客人の要望に応えられるように、ハウスメイドやフットマンも軽食を出していいと言われている。貯蔵室の鍵はコックのパウエル夫人が管理してるけど、戸棚のなかは自由に扱うことができた。
(ほんとは温かいミルクがいいんだけど……)
レンジの火を点けるには、まず灰をかき出さなきゃならない。掃除して石炭をくべて、なんてしてたら一時間以上はかかる。うん、むり。あきらめよう。銀のトレーにグラスと小皿を載せて、ミカは芝生を駆け戻った。
◆
温室の扉を開けて、ベンチに走った。
アリーの上体とベンチの間に手を差しこんで、抱き起こした。トレーを見て、アリーがぼそりと呟いた。
「……毒」
「いや入ってないし」
素で返した。
寒かったし。毛布あげなきゃよかったって軽く後悔したし。
ミカはグラスを持ち上げて、ひと口飲んでみせた。都市部のロンドンでは、水で薄めたミルクが多いんだって。でもここは田舎だから、領地の搾りたてのミルク。濃くて甘くて美味しい。くそう。全部飲んでやろっかな。アリーの鼻先にグラスを突きつけたら、手にとって、ひと口飲んだ。またひと口。ふた口。ごくごくと喉を鳴らす。喉、乾いてたのか。
アリーはビスケットをつまんで、目の前に差しだした。
うん? これも毒味しろって?
食べるよ、食べればいいんでしょ。
ミカはそのままひと口かじる。
パメラのお手製バターたっぷりビスケット、美味しい。
アリーは手を引っこめて、ミカのかじったビスケットを口に入れた。
二枚目が差しだされる。
またかじる。
かじりかけのビスケットを、アリーが食べる。
ミカは思う。
なんのプレイかなこれ。
それとも、まさかの間接キス?
じっとアリーの顔を見つめてみる。
「なんだ?」
無愛想な声が返された。
うん、やっぱただの毒味係だね。
小皿もグラスも、きれいに空っぽになった。
◆
温室を出て、屋根のついた通路を歩いた。通路は屋敷の玄関ホールとつながっていて、北側の小階段から三階に上がった。肩にはアリーの腕がまわされている。食べたら動けるようになったみたい。一人でいいって言い張ったけど、ふらついてたから肩を貸したら、諦めたみたいで大人しくなった。寝室の扉を開けて、ベッドに座らせる。目を合わせようとしないから、そのまま退出しようとした。
でも思い直して、振りかえる。
「遅くなりましたけど……昼間はありがとうございました。あと、食欲なくても、ごはんはちゃんと食べたほうがいいですよ」
お辞儀して、ノブに手をふれた。
「おい」
低い声で呼び止められる。
余計なお世話だったかな。
そっと振り向いたら、困ったような、歪んだような、よく分からない顔があった。
「助かった」
ひと言告げて、顔が横をむいた。
……うん?
……もしかして。
……照れてる?
ノブをまわして、扉を閉めた。
素直じゃないな。
でもミカも、自分がどんな顔をしてるのか、自分でもよく分からなかった。