1-3 ミカ、助けられ、助ける(上)
屋敷の東側に庭園があり、ミカはその脇の小道を歩いていた。太陽は頭上から少し傾いて、午後の光をまぶしく散りばめている。さっきまで、使用人ホールでみんなで縫い物をしていた。タオルやナプキン、テーブルクロスが木造りの長テーブル(食事時には食卓になった)に載せられて、メイドたちが繕っていく。家庭科の授業も裁縫もそんなに興味がなかったけど、白いリネンを修復していく細かな作業は、思ったよりも楽しかった。そう、睡魔にさえ襲われなければ。
「ミカ、大丈夫?」
「え?」
「いまね、一瞬テーブルにダイブしかけてた」
「うわ……ごめんちょっと意識飛んでたかも」
右隣に座ったマーガレットが、くすくす笑う。控えめで口数は少ないけど、丁寧に仕事を教えてくれる先輩メイドだ。年齢はミカより少し上ぐらい。
「アリスはアイロン持ったまま、眠ってたことがあったよね」
「そうそう。火傷しなくてよかったわ」
もう一人の先輩メイド・ローズとエロル夫人が、うんうんと頷きあう。アリスがあああ……と顔を覆っていた。あれか。立ったまま白目むいてた時だな。でも笑えない。いまのミカも、気を抜いたら針で指が刺せそう。真っ白なリネンに赤い模様を縫いこんじゃうかも。昼食のあとで、眠気はピークに達してた。
「ミカ、ここは急ぎの作業じゃないから、外の空気に当たってらっしゃいな。まだ屋敷のまわりは歩いたことがないでしょう? ゆっくり散策してきていいわよ」
エロル夫人の言葉に甘えて、ミカはホールをあとにした。
◆
ふわぁ、とあくびをしながら、ざくざくと砂利を踏みしめる。
眠れないことなんて、めったにない。嫌なことがあっても、いつもひと晩寝たらすっきりする。悩んだって仕方がないし。でも昨夜は寝つけなくて、月がきれいで、部屋を出たらアンソニーがいて、なんだかんだで余計寝つけなかった。もう忘れてしまいたい。
高台にむかって歩いていくと、5分ぐらいで道がとぎれた。草と土まじりの踏み固められた跡があって、それが道の代わりみたい。引き返そうかと思ったけど、丘のむこうに塔みたいな建物が見えた。あそこまで行ってみようかな。遠くはなさそうだったので、ミカは傾斜した草地を歩き続けた。
塔は三階建てで、古めかしい石造りだった。一階は正方形で、二階と三階は八角形、その上は尖塔になっている。なかは無人で、薄暗い。開口部からわずかに光が差しこんでいた。奥に階段が見えたけど、上がる勇気はなかった。小さな展望台みたい。ミカは引き返して、塔の外壁に背をもたれた。塔の背後には深い森が広がっていた。前方には草地と木立が点在している。梢の間から、屋敷の一部が見え隠れした。
ミカは首に提げた懐中時計を取りだした。タイムトラベルから四日目。鍵を巻いたら帰れるんじゃないのって、実は気楽に構えてた。でも巻いても巻いても、時計はコチコチと音を鳴らすだけ。やっぱり動かすだけじゃ、ダメみたい。
葉がざわざわと音を立て、馬のひづめが聞こえてきた。ふつーに暮らしてて馬なんて動物園以外で見たことないけど、この規則正しい音は、絶対そう。振り返ったら、森のむこうに馬がいた。ほらやっぱり。でもなんで馬? 馬の上に、男がいた。あ、乗馬か。そうだ、19世紀英国だもんね。乗馬といえば、貴族。貴族といえば、アリー。
森のなかには、ミカが二度と会いたくない男(と馬)がいた。
ばっちり、目が合ってしまった。
一、逃げる
二、笑ってみる
三、お辞儀する
四、目をふせる
とっさに浮かんだ選択肢のなかから、ホワイトリーの言葉を思い出す。
ミカは目をふせて、アリーが遠ざかるのを待った。
待った。
待ったけど。
なんか、ひづめの音が近づいてくる。
草が鳴って、馬の息遣いが聞こえてくる。
そっと目を上げてみた。
(げ……っ‼)
馬がぐんぐんミカに近づいてくる。
(ま……まさか、挨拶するようなメイドは要らないから馬にけられて死んじまえって⁈)
ゆれるたてがみが目の前に迫ってくる。
逃げられない。
ミカはぎゅっと目をつむった。
(神さま‼ ここで死ぬなら次はほんと転生がいいです馬でけろうとするイケメンとか二股かけるイケメンとかいりませんふつーに愛されたいです甘々がいいです溺愛ください‼)
衝撃に備えて全身をこわばらせた。
大きな音が耳に響く。
身体がゆれる。
かぽかぽと。
うん?
かぽかぽ?
ミカは薄く目を開いた。
「怪我は⁈」
耳元でアリーの怒鳴るような声が聞こえる。
状況が飲みこめなくて、ぼんやりと顔を上げた。
「なんだ⁈ 頭でも打ったのか⁈」
ミカはゆっくりと首を横にふった。
打ってない。
怪我も……ない。たぶん。どこにも痛みはないし。
「大丈夫……です」
「そうか」
声に安堵の響きがあって、ミカは目を丸くした。
氷みたいに冷たいと思った双眸が。
陽の光の下では、金色に見えた。
ミカは右手で目をこする。
左手はアリーの乗馬服にしがみついてて。
腰はアリーの手でがっちりとホールドされていた。
アリーの呼気がおでこにかかって温かい。
お尻は馬の背中のうえで。
かぽかぽとゆられてる。
なんだこの状況は。
じっと見上げるミカに、低い声がかけられた。
「ぼんやりしてないで、周囲に注意を払え。よく見ていれば気づけただろう」
アリーの視線を追うと、地面に石の塊が落ちていた。塔の三階で、壁の一部分が崩れている。落ちてるのは、さっきまでミカがいた場所。
視線をアリーに戻す。
助けてくれたんだ。
「すみません。今度から気をつけます」
素直に頭を下げた。
金色の目は、ミカを見下ろしたままで。
距離が近い。
完璧に整った顔が。
考えの読めない表情で。
目の前に。
いろんな意味で心臓に悪い。
「あの、もう下ろしてもらって大丈夫です」
「こんな場所でなにをしていた?」
「エロル夫人から許可をもらって、散策してました。まだ屋敷の外は歩いたことがなかったので」
疑わしそうに目が眇められる。
「……記憶喪失だそうだな?」
「はい」
「嘘だろう?」
心臓がはねた。
探るような、冷ややかな目。
動揺をみせたら、今度こそ馬にけられて抹殺されるかも。
ミカは唾を飲みこんだ。
レジで釣り銭を返すとき、
ぎゅっと手を握られても、にっこり笑って解いてたんだぞ。
(……がんばれ、あたしの表情筋!)
「嘘だったらいいんですけど……ほんとに思い出せないんです」
せつなげに微笑んでみた。
アリーは無言でミカを見つめている。
お願い。頬つりそうだから、早くなんとか言って。
ミカの思いが通じたのか、なんなのか、
アリーはふっと視線をそらした。
身体が浮き、次の瞬間には、地面に足がついていた。
ミカを馬から下ろし、アリーは手綱をひいた。
馬の尻尾がゆれて、背中が遠ざかっていく。
と、思ったら。
途中で止まってこっちを振りかえった。
よく通る声が空気を震わせる。
「記憶が戻ろうが戻るまいが……怪しいそぶりを見せれば容赦しないぞ」
鞭が鳴り、馬は森の陰に消えた。
ミカは石の塊に目をむけた。
割れて砕けた破片が、草むらに飛び散っている。
(頭に直撃だったら……下手したら死んでたかも)
優しいよ。
アリスの声がよみがえる。
誰もいない森のなかで、見殺しにしたってバレないのに。
「……お礼、言い損ねちゃった」
風が吹いて、騒がしく葉群れがゆれた。
◆
夕方のお茶のあとで、ホワイトリーから呼び止められた。
「望楼の壁が崩れたってな」
「はい、アリー様に助けてもらいました」
「よかったな、見捨てられなくて」
真顔で返す執事に、ミカは複雑な心境になる。
(あ、やっぱりその可能性もあったんだ?)
「明日には職人が修理に来るから、それまで近づくなよ。ああ、そうだ……あと今晩から、きみはサザランド夫人の担当になってくれ」
「サザランド夫人……ですか」
「なんだよ。嫌なのか?」
「いやあ……あのひと、ちょっと怖い感じがして」
「あのひとじゃなくて、サザランド夫人、な。怖かろうがなんだろうが、仕事だ、仕事」
「はい」
どちらにせよ、ミカに選択権はなさそうだ。
しおらしく返事をしたら、ぱんぱん、と背中をたたかれた。
「きみは記憶喪失なんだろう? だったらなにを聞かれても、正直に答える必要はない。覚えてない、とだけ言えばいい……だから心配するな」
うん? なんか記憶喪失って信じてないみたいな口ぶりじゃない?
まあその通りなんだけど。
でも励ましてくれてるみたい。
優しい声音で、大きな手は安心できて、気持ちが軽くなった。
「なに笑ってんの?」
「え? 笑ってませんよ?」
「笑ってるし」
こつ、と頭をたたかれた。
全然痛くなかったけどね。
◆
さかのぼること30分前。
公爵の部屋を出て、ホワイトリーは三階の廊下を歩いていた。西側からひと回りして、赤の間、白の間、緑の間……と滞在客のいる部屋に目を走らせる。使われない客間では、調度品に白い布がかけられていた。ハウスメイドの掃除の手間を省くためだ。大階段にたどり着いたとき、背後で声がした。赤の間から、サザランド夫人が顔をのぞかせている。踵を返し、早足で、しかし見苦しくない程度の速さで、客間に戻った。
「ごめんなさいね。忙しいでしょう」
「とんでもないことでございます」
「あのね、あの子。ほら、ミカというメイドの子よ。わたくしのお世話係を、あの子にしてくれないかしら」
「マーガレットが、なにか粗相をいたしましたか」
「いいえ、いいえ、彼女もよくしてくれてよ。でもわたくしは、あの子が気に入ったの」
「ミカはまだ半人前です。ご満足いただけないかと愚考いたします」
「あら、わたくしがいいと言っているの。構わなくてよ」
「ですが……」
「ホワイトリー。わたくしも息子も、公爵の望みどおり、侍女も従者も付けずにここに来たわね?」
「…………かしこまりました。仰せのままに」
サザランド夫人は扇を開き、艶やかに微笑んだ。
「こんな田舎ではなくて、わたくしの屋敷に来ないこと? あなたのような優秀な執事が欲しいといつも思っているのよ」
「わたしのような若輩者にはもったいないお言葉でございます」
「あなたにお世話されてみたいものだわ、ホワイトリー」
扇の先を縁取るレースが、ひらひらと彼のあごをくすぐった。
ホワイトリーは顔色も変えず、慇懃に立ち続けている。
「……退屈な男ね」
扇が音を立てて閉まり、サザランド夫人は部屋に引きかえした。
ホワイトリーは何食わぬ顔で、大階段を下りていく。
踊り場で足を止めて、階上をあおいだ。
「まったく……ビッチなご婦人でいらっしゃる」
乱暴にあごをこすり、優雅に階段を下りていった。