3-10 それぞれの未来(下)
公爵の前で、弟はやわらかな微笑をうかべた。
「……では、アリーは祖国に帰ったんですね」
「ああ。おまえには骨を折らせてばかりで、すまなかった」
「なにもしてないですよ、ぼくは。兄さんが納得しているのなら、それでいい」
翡翠色の水面に、苦笑いする紳士の顔が映っている。茶碗のなかの自分を見つめ、公爵はひと息で空にした。応接間の扉が開き、パーラーメイドが茶のおかわりを運んできた。給仕をするメイドに、公爵は美賀子の姿を重ねたのだろうか。常とは違い、ふいにメイドの顔に視線をむけた。その顔を見て、公爵は目を見開いた。メイドはかがやく金の瞳で、彼を見つめている。彼女は口元に微笑をたたえ、軽く礼をして、再び扉の先へ消えていった。
「……ウォルドーフ。あのパーラーメイドは、ずいぶん長くこの館にいるな」
「そうですね。もう八年になるかな」
「おまえは執事は雇わないのか?」
「ええ、この館はそう広くもないですし。彼女とコックとハウスメイド、それに下男がいれば十分ですよ」
「あのメイドの名前はなんという?」
「アリソンです。ぼくは…………アリーと呼んでますが」
公爵はもの問いたげに、弟の顔をまじまじと見つめた。弟は穏やかな目で、その視線を受けとめた。
「……あのメイドは、おまえの気に入りの女なのか?」
「…………彼女はぼくの娘ですよ」
互いに似た榛色の目で、兄弟は、探り合うような視線を交わした。
「もう20年以上前のことです。まだぼくがオクスフォードの学生の頃……少しだけ親しくしていた女性がいました。友人の屋敷の家庭教師でね。ぼくは卒業後すぐに上海に赴任したから……あの人が子どもを身ごもっていたとは知りませんでした。それから、ぼくは結婚して英国に戻って、妻が上海に戻って死んで……そして八年前、彼女がこの館を訪ねてきたんです。母親が亡くなったと教えてくれました。ぼくが認知しようとしても、母親が望まなかったから、と断わって……資金援助も受け取らなくて……だからメイドとして雇ったんです。生活が苦しそうだったので」
「このままメイドとして、傍に置くつもりなのか?」
「彼女は……そのつもりみたいです。一生独身でぼくの世話をすると。ぼくに恩義を感じているようで……情けない父親なのにね。ぼくの自由になる財産は、遺言で彼女にすべて渡すつもりです。だけど……できたらいい夫を見つけて、しあわせになって欲しいんだけど」
公爵は口ひげを撫でながら、じっと水面を見下ろした。
「……ひとり、預かってほしい男がいるんだがね」
「いいですよ。どんな男です?」
「日本人だ。名前を秀人という。ロンドンにいる間は、この館に滞在させてやってくれ」
「いつ来るんですか?」
「十年後だ」
「……は?」
「まだ十歳だからな。彼女……アリソンは幾つだ?」
「今年で24歳になりますが」
「ふむ……14歳の年の差か。まあいい。それよりもあと十年未婚でいてくれるものだろうか……いやでも一生独身と言っていたな。いや、そもそも彼女と秀人とが互いに気に入らなければどうしようもない……こればっかりは当人同士の問題だからな……」
「あの……兄さん? なにをぶつぶつと……」
「いや……なんでもないよ。アリーの瞳を思い出していただけだ」
懐かしそうに目を細め、公爵は茶碗を持ち上げた。香りを吸いこみ、ゆっくりと味わうように、ひと口含んで笑みをうかべた。
◆
土曜日の同時刻、屋敷の池のそばでは、男がベンチに腰かけていた。ぼんやりと空を見上げていると、メイドが隣に腰をおろした。
「週明けに発たれるんですね」
「ああ、いいかげん寮に戻らないとね。教授が怒ってるらしい。ジョージから電報が届いてた」
「……淋しいですね」
メイドの細い指先が、黒いドレスの胸元をなでた。そこに隠れた懐中時計の膨らみを、男がじっと見つめている。
「……うちに来る?」
「えっ?」
「ロンドンのアシュリー邸で働くかい? あと数ヶ月したら、僕も卒業してあっちに戻るし」
「ロンドン……ですか?」
「ああ。この屋敷には、アリーとミカと……ふたりの思い出が多すぎるんだろう? 思い出すのがまだ辛ければ、少し距離を置いたらいい。環境が変われば気分も変わるだろう」
「…………はい、アンソニー様。あっ、すみません! アシュリー様‼」
「今さらいいよ。きみ最近ずっと名前で呼んでただろ? 気づいてた?」
「ええっ⁈ わあすみませんっ‼ たぶん……ミカがそう呼んでたのが耳に残ってて」
「いいよ……アンソニーって呼んでみて?」
「へっ⁈ そっ、そんな‼ 呼び捨てなんてできませんよっ⁈」
「もうミカは、僕の名前を呼んでくれないから……ひとりぐらい、呼び捨てにしてくれるメイドがいてもいいだろう?」
「…………はい。アンソニーさ……アンソニー」
「……淋しいね」
「……はい。あっ! でも……いつかきっと、アンソニーさ、いえ、アンソニーもまた素敵な女性と出会えますよ! 軽くて遊んでるように見えてもお優しいですもん!」
「……褒められてる気がしない」
「はっ⁈ すみません! アンソニーはお優しいです‼」
「……いいよ。僕は一生結婚しないから」
「へ?」
「一生きみだけを愛して独身でいる。死ぬまできみを忘れない、ってミカに言った」
「…………うわあ。軽くなかった……愛が重い……」
ぼそりと漏れた可愛い声に、アンソニーは目を眇めた。
アリスはぶんぶんと両手をふった。
「あっ‼ いえっ‼ そのっっ恋愛は自由ですし‼ 重かろうが軽かろうが‼ はっ‼ いえ別にアンソニーが重いって言ってるわけではっ……‼」
「重いよ。僕だってなんとも思ってない相手からそんなこと言われたら笑顔でフェードアウトするさ。てか逃げる」
「……自覚あるんだ」
「なんだって?」
「ひゃ! なんでもないですっ‼」
「いいんだよ。ミカが僕をどうでもいいと思うなら、忘れてしまえばいいだけだ」
「……どうでもよくなかったら?」
「……僕を憶えていればいい」
「…………アンソニー。自分が忘れられるなんて……実はぜんぜん思ってませんよね?」
「さあねえ」
すみれ色の瞳に夕陽を映し、アンソニーは不敵に笑った。
◆
「では、明日の朝には戻るのか」
「はい。ひと月半お世話になりました」
「構わないよ……ずいぶん静かになるな」
「卒業後はロンドンにいますから。たまには遊びにきてください。昨日も訪れていたんでしょう?」
「ああ。弟にアリーの件を報告してきた。そうだ……面白いことが起こりそうだよ」
「なんです?」
「十年後、秀人とあの館のパーラーメイドが結婚するかもしれない」
「……へえ」
アンソニーは目を丸くして、唇に笑みをうかべた。
公爵の指先が、とんとんと、銀の灰皿に灰をこぼした。
「十年後……煙管が届くのが楽しみですね」
「そういえば、きみは煙草を止めたのか?」
「ええ、アリト……アリーがからだに良くないと言ってましたし。好んで喫ってるわけでもなかったですから」
「ふむ……私は止められんな」
「ははっ。マイケルの煙管が届いたら、そのときは一服付き合います」
公爵は軽くうなずいて、美味そうに煙を吐きだした。
「……それにしても。ほんとうに人は空を飛べるのだろうか」
「ほんとうでしょう?」
「しかし船に翼がついたような物体が、大陸と大陸のあいだを飛ぶなどと……ミカは冗談を言っていたんじゃないかね?」
「アリーも言ってたじゃないですか。1903年にライトとかいう兄弟が、有人飛行に成功すると。それに確か……二年前の万国博覧会では、タンプル兄弟が単葉機を展示していたといいますよ」
「私が生きている間には、乗れないのだろうね……ライト兄弟は米国人だったかな」
「……資金援助して、開発を早めたりしたらダメですよ?」
「……む」
公爵は口を噤んで、煙草をもみ消した。カップを持ち上げ、白磁の皿に目をむけた。
「みたらし団子は緑茶に合うと思っていたが。コーヒーでもいけるな」
「ですね。この砂糖を煮つめた蜜が美味いですよね」
「醤油をつかった本場の味も食べてみたいが」
「十年後、秀人がきたら行ってみませんか」
「ああ……そうだな」
窓に映る青空を眺めて、公爵は目をかがやかせた。
「マイケルと美賀子さんが出会った、上野の精養軒に行きたいね。それから……アリーとミカが話していた、東京タワーが建つという芝公園にも行ってみたい」
「東京タワー、見てみたいですね」
「きみはものすごく長生きすれば、見られるんじゃないか?」
「……さすがに無理でしょう。百歳手前ですよ」
低い笑い声を響かせて、公爵はコーヒーを口に含んだ。
「ふたりは元気にしているだろうか」
「きっと元気にしてますよ」
アンソニーは目を細め、まぶしそうに空を見上げた。
執事が腕組みをして、灰白色の壁を眺めていた。大小の風景写真が並ぶなか、一番目立つ中央に、真新しい銀のフレームが飾られている。戸口で足音が聞こえ、ハウスキーパーが彼の隣に立った。
「……静かになってしまいましたわ」
「ええ」
「ミカもアリー様も、お元気にされているかしら」
「きっと元気にされていますよ。それになんだか……あのふたりは一緒にいるような気がします」
「あらあら……ふふっ、実は、私もそう思っているんです」
いたずらな目つきで微笑まれ、執事は硬い表情をほころばせた。
「夕方のお茶で、パメラがワガシを出してくれるそうですよ。ミタラシダンゴだったかしら……ミカがレシピを残してくれたんですって。楽しみだわ」
「ああ……楽しみだな」
ふたりの視線の先に、モノクロの集合写真があった。二列に並ぶ後方には、左端から、アルバートとジョン、ローズとマーガレット、パメラとパウエル夫人。前方には、左端にホワイトリー、右端からエロル夫人とアリス。それぞれの隣には、公爵とアンソニーが座っている。そして彼らの真ん中で、アリトとミカがにっこりと微笑んでいた。
この屋敷は、イングランドの南東部、バッキンガムシャーの森のなかにある。屋敷のまわりの丘も森も、目に映る地平線の果てまですべて、クリブデン公爵家の領地であった。
二階の応接間では、温かく燃える暖炉の前で、公爵とアンソニーがコーヒーを飲んでいる。十年後の日本旅行について、楽しそうに言葉を交わしていた。ふたりにはぜひ秋に訪れて、王子稲荷の鮮やかな紅葉を眺めながら、熱燗を飲んでみてほしいなあ。一階の使用人ホールでは、ホワイトリーとエロル夫人が立っている。ホワイトリーが淋しさを表に出せなくても、エロル夫人なら上手く慰めてくれるだろう。三階の廊下では、アリスがリネンを運んでいる。この先、彼女とアンソニーが親しくなっても、きっと恋愛にはならないんだろうな。残念だ。アンソニーは本気で一生独身でいるつもりなんだろうか。ぼくに跡取り息子として自覚が足りないだなんて、言えた義理じゃないよね。まあミカと出会わせたのはぼくだから、文句は言わないけれど。北側の小階段を、ローズとマーガレットが上がっている。仲が良く、気立てのよいメイドたちだ。ふたりはカクテルを作るのが得意らしいから、今年のクリスマスにも活躍してくれるだろう。ジョンとアルバートが執務室の奥で銀器を磨いている。ジョンはいずれ、どこかの屋敷で執事になるかもしれないな。アルバートはこれまで人に揶揄われ、辛い思いをしてきたようだ。この屋敷で働くなかで、彼の心の傷が癒えることを願っている。屋敷の西側、別棟のキッチンでは、パウエル夫人とパメラがローストビーフを焼いている。大声で怒鳴るパウエル夫人に、パメラも負けじと怒鳴り返している。キッチンは戦場だからね。でも一日の仕事が終われば、ふたりは戦友のように笑い合うんだ。のどかな日曜日、公爵家のいつもの光景だ。
その南側、礼拝堂の隣の墓地には…………楡の木の傍らに白い墓石が建っている。ミカの話を聞いたあと、父はぼくの遺髪を棺に入れて、碑文を新たに追記した。
マイケル・サザランド
時を超えてここに還り、ここに眠る
心地よい午後に、穏やかな風が吹いてきた。
さあ。ぼくももう永遠の眠りに就くことにしよう。永遠に、安らかに、天上で眠りながら―――もうなにも語らず、静かに、きみたちを見守り続けよう。
MICHAEL SUTHERLAND
24.03.1859 - 08.01.1879
OVER A CENTURY, HE RETURNS, AND SLEEPS IN HERE.
■読者の方へ■
約半年間の連載を(後から一気読みの読者様も!)見守っていただき、ありがとうございます。ひとりひとりの読者様が、学校の、仕事の、家事の、育児の、介護の、闘病の、日々のいろんな時間の合間を縫って、小説を読みに来てくださっていることにいつも感謝しています。束の間でも物語の世界をお楽しみいただけましたらとても嬉しいです。また、もしもこの物語を気に入っていただけましたら、ご感想や評価などをいただければ今後の執筆の励みとさせていただきます。
皆さまの心に残る大切な人たちが、天からいつも見守ってくださいますように。
<制作メモ> ※制作メモを活動報告にアップしました。
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/2158306/blogkey/3000480/
■『ヴィクトリアン・エンディング』■
前作との共通エピローグを、来週(6/17)、再来週(6/24)の金土に新規小説(全4話)として掲載予定です。こちらは両作品のネタバレを含みます。もしも前作にご興味をお持ちいただけましたら、以下リンクよりご覧ください。
『ひきこもりニートの俺がヴィクトリア朝英国で出会った少女と結婚するまでの話を聞いてくれ』
https://ncode.syosetu.com/n7630gx/
■今後の予定■
今後は年に一本長編を掲載予定です。ジャンルは歴史・現代・恋愛、カップリングは男女中心、たまにBL・GLになると思います。約半年間お休みをいただき、年末(2022年12月)から活動再開予定です。短編は不定期に書くかもしれません。よければ、また年末にお立ち寄りください。もしくは、お気に入りユーザーに追加していただけましたら、とても嬉しく思います(^^)
それでは、皆さま、また次週からのエピローグや、どこかでお会いできましたら幸甚です。どうぞよい初夏をお過ごしください。




