3-9 ミカ、お屋敷を去る(下)
一週間ぶりに、ミカはロンドンを訪れた。今回はアリトも一緒で、パディントン駅から馬車に乗った。赤茶けた煉瓦造りの家屋が続き、灰色の空と対をなしている。ぬかるみに車輪が沈み、ガタガタと車体がゆれた。下水の匂いが窓から入り、アリトがハンカチを差しだした。ミカは笑って首を横にふった。
「あそこだと思う」
通りの端に馬車を停め、ふたりは三階建ての建物の戸口に立ち、ドアノッカーを鳴らした。K夫人が目を丸くして、ふたりを出迎えた。
「先週はお世話になりました。ほんとに助かりました。それで、あの……サラは元気にしてますか?」
お辞儀をしたミカに、にっこりと笑い、夫人は廊下の奥に声をかけた。足音が駆けてきて、赤毛の少女が飛びついた。
「ミカ! 元気そうだね! その髪はどうしたんだい?」
「へへ、あれカツラだったんだ。こっちが地毛。よかった、あんたも元気そうで。それで……サラ、K夫人。お話がありまして」
ミカはふたりを見て、公爵家に来ないかと切りだした。サラは公爵家のメイドとして、K夫人は下宿を売り払い、領地の村で暮らさないかと。イーストエンドにもK夫人たちのように温かな人はいる。とはいえ、やっぱり治安の悪さが心配だった。昨夜、アリトに打ち明けたら、バッキンガムシャーに移ればどうかと提案され、今日ふたりでやって来たのだ。サラはにっと唇を広げ、ミカの両手をつかんだ。
「ありがとね、ミカ! 心配してくれてるんだろ。でもねえ、あたしはメイドの仕事が性に合わないんだ。他人ん家でご主人様のために働くより、自分の客を相手にするほうが楽しくてね。だから娼館で働くことにしたんだ」
「サラ、娼婦になったの?」
「ううん、まだ。おかみさんが、16歳にならないとダメだって。だから今は雑用をしてる。下宿の近くの娼館で、K夫人とも顔見知りなんだ」
「私と同年代なのよ。彼女は元娼婦で、お金を貯めて喫茶店をしていたの。だけど通りの娼婦が危ない目に遭うのを気に病んでね。自分で娼館を経営することにしたんですって。あそこなら客層もいいし、警察もよく見回りをしているわ。定期的に検査も受けられるし、病気になれば治療費も出してくれるの。仕事を辞めたくなったら、更生院で職業訓練も受けられるそうよ」
「だから大丈夫なんだ、ミカ。ありがとう」
「そっか。うん、わかった」
K夫人はサラの背後で、穏やかな笑みをうかべた。
「私もね。ありがとう、ミカ。気持ちはとても嬉しいわ。だけどこの下宿には、亡くなった主人との思い出が詰まっているの。だから私は、死ぬまでここで暮らすつもり。ここはホワイトチャペルとマイルエンドの境目だから、少しは治安もいいの。心配しないでね。大丈夫よ」
ミカはふたりに笑ってうなずいた。
K夫人もサラもにこにこと笑い…………それから、好奇心に目を光らせて、ちらちらとミカの隣に視線をむけた。
「ところであんた、その御方は」
「ミカ、あなた上流階級のお屋敷で働いていたのよね?」
ふたりの声が重なった。
「あーー、はい。そうです。この人は……」
「初めまして。アリー・サザランドと申します。この度は当家のメイドが大変世話になり、御礼申し上げます。こちら少しですが、感謝の気持ちです。受け取っていただけますか」
ずっしりとした革袋が二つ、ふたりの前に差しだされた(うわ……いつの間に用意してたんだ⁈)。ミカは給料の2ポンドを渡すつもりでいたが、なんだか気後れして止めた。
「ありがとうございます、サー。だけどお気持ちだけいただきますね。私はもう、ミカに一シリング貰いましたから」
「あたしも要りません。ミカには命を助けて貰ったんです」
アリトは苦笑いをうかべ、革袋を懐にもどした。代わりに名刺を二枚取りだして、ふたりの手に握らせた。
「……ではこちらをどうぞ。私の名刺です。あなた方が、当家のメイドに厚意をくださったこと。また当家はあなた方への援助を惜しまないこと。裏面に私の署名を入れて、そう記してあります。なにかあれば、クリブデン公爵家を訪ねて、この名刺をお見せください。必ずお助けいたします」
K夫人とサラは目を瞠り、深々と腰をかがめるアリトを見つめていた。
「……ありがとうございます。ではこちらは頂戴いたします」
「ありがとう、サー。ところで…………ね、ミカ」
サラの耳打ちに、ミカは頬をほてらせた。「……あの夜話してた、あんたの大事なひと?」小さくうなずくと、サラがにっこりと目を細めた。
◆
満月まであと四日。ミカは紙の束を手に、キッチンへ向かっていた。公爵から、いくつか和菓子や日本食のレシピを教えてくれと頼まれて、コックのパウエル夫人に届けるところだった。
パウエル夫人は紙をめくり、ミカの手に押し戻した。
「悪いねえ‼ これは調理台に置いといてくれるかい⁈ パメラが読んでくれるからさ‼ あたしは字が読めなくてね‼」
「あっ……すみません!」
「ははは、そんな悲しそうな顔しなくていいよ‼ パメラが空き時間に教えてくれるからね‼ 今じゃあ名前は書けるし、もう絵本だって読めるんだ‼」
にかっと笑う夫人に、ミカも笑顔をみせた。扉が開き、パメラが戻ってきた。両手にカゴを抱え、緑や白、黄の野菜が山盛りに積まれている。紙に書かれたレシピを、パメラは熱心に眺めていた。
「すごい。こんな料理はじめて見た。あ、おはぎの作り方も書いてくれたんだ」
「うん。でもあれ、缶詰は止めた方がいーかも。なんか硫酸銅? ていうので着色してるんだって。できたら旬のときだけ、畑でとれたグリーンピースで作ってほしい」
「へえ。よく知ってるね」
「この前ロンドン行ったとき、アリ、イ様が図書館で調べてたんだ」
「他にもダメなやつとかある?」
「えーーっとね」
野菜を洗うとき、ソーダで色を濃くするのは止めたほうがいいよ。大量に摂ると内臓に負担が掛かるんだって。それから………ミカの言葉を、パメラは真剣な面持ちで聞いていた。あとから知ったところでは、パメラは紙に書き記していたらしく、おかげで、公爵家(と話を聞いたアシュリー家)は代々、家族も使用人も寿命が伸びたかもしれない。
◆
夕食のあと、ぼんやりと紅茶を飲んでいた。あーー今日もよく働いたなあ。なんて思いながら使用人ホールを見渡していると、ふと、ピアノが目に留まった。壁ぎわの濃茶色の古びたピアノ。
「あのピアノって、誰か弾いたりするんですか?」
ミカの声に、エロル夫人がカップを置いて席を立った。鍵盤蓋を開け、ピアノの屋根に置かれた楽譜をひらいた。ホールに明るい音色が流れはじめる。
「ふふ、久しぶりね。先月からサザランド夫人がお越しになられて、バタバタしていて。ポルカでいいかしら?」
ローズが立ち上がり、マーガレットの手をとった。ふたりはにっこりと笑い、音に合わせて踊りだした。その反対側では、アリスが椅子に座ったまま、うずうずと足を動かしている。隣に座ったアルバートが、笑いながら手を差しだした。アリスはぴょんと飛びはねて、嬉しそうに踊りはじめた。振りむくと、ジョンが扉に立っていた。驚いた顔でホールを見まわし、陽気に手拍子を打ち鳴らした。ミカは扉の近くの席で、真似して手拍子を打った。ジョンがミカの肩を叩いて、にっと笑った。その手をとり、ふたりで長テーブルの横でくるくると回った。そばかすの浮いた顔を見つめ、ミカはそっと首を傾げた。
(そういえば、訳アリって……パウエル夫人はたぶん字が読めないことで……ジョンはなんだったんだろ?)
「どーした? ミカ?」
「や、訳アリ……あ、やっ! なんでもない」
「ははっ、なんだ? 俺がなんでこの屋敷に雇われたのかって?」
「うん……そう。ごめん、むりに話さないで」
「別にいーぜ。俺は監獄に入ってたんだ」
「え……ええっ⁈」
ぎょっとするミカに、ジョンはいたずらな笑みを見せた。
「知ってっか? 債務者監獄って」
「や、知らない」
「借金を抱えたやつがぶち込まれるんだ」
「へ⁈ 借金で監獄に入れられんの⁈」
「そ。親父が保証人になった工場がつぶれてな。親父と俺とで十年ぐらい入ってたかなあ……監獄っつっても生活費は要るからさ。いつまで経っても出らんなくて。俺だけ昼間は外で働いてたけど、なかなか返し終わんなくてさ。で、たまたまミスター・ホワイトリーに出会って、ここで働く代わりに借金を立て替えてもらったんだ」
「そっか」
ジョンも執事さんに助けられて、だからあんなに懐いてるんだ。なんて噂をすればじゃないけど、ホールの入口で、ホワイトリーが顔をのぞかせていた。
「なんだ? にぎやかだな」
ホワイトリーは十日前、屋敷に帰ってきた。南の芝生に面したサロンで、ミカたちの写真を撮りまくる男を見て、彼は驚愕の表情をうかべた。ホワイトリーの謝罪を、男はあっさりと受け入れた。おまけに「どうせなら一家の写真を撮らないか」と提案されて、その日はめずらしく晴天で……みんなで芝生にでて、公爵とアリトも使用人たちも、ついでにアンソニーも全員で写真におさまった。男は「このまま湖水地方に撮影にいく」と三日前に屋敷を去り、使用人ホールの壁には、あの日の写真が飾られている。
ホワイトリーに会釈して、ジョンはミカの手をはなし、長テーブルでコーヒーを淹れた。ミカと並んで、ホワイトリーが唇に笑みをうかべた。
「踊る?」
「はい」
大きな手をつかみ、軽快にステップを踏んでいく。
ピアノの旋律と一緒に、やわらかな声が耳に届いた。
「ありがとな、ミカ」
「あたし……なにもしてないです」
「きみのおかげで治療ができた。サザランド夫人とジョージ様は屋敷を去り、ご主人様もアリー様もすっきりしたお顔をされている。それに……アンソニー様も。この屋敷を初めて訪れた頃の、少年のときみたいなご様子だ。まるで憑き物が落ちたような……きみはどんな魔法を使ったんだろうな」
「ほんとにあたしは何もしてなくて……ただ、マイケルの……」
「……マイケル様の?」
レンズ越しの熱い視線を、ミカは真正面から受け止めた。
「マイケルの……想いを伝えただけで」
「……ふうん」
視線をそらさないミカに、温かな笑みが向けられた。
「……ま、いいさ。ご主人様たちが納得されてるんなら、おれは聞かずにおこう。いつか言ったね、ミカ。きみは絶望を希望に変えてくれるかもしれないって…………ほんとうに、きみは……奥方様のような……いや。きみはきみだな。きみがこの屋敷の時間を動かしてくれた。ありがとう、ミカ。きみを信じて……きみと出会えてよかった」
「あたしだって、執事さんやみんなと出会えて……あたし、初めてこの見た目で生まれてよかったなって思えたんです。マイケルやミシェルさんに似てたから、きっとこの場所に来れて……この髪も目の色も顔だちもずっとやだなって思ってたけど……ここに来て、初めて好きになれました。あたしの大切な人たちに繋がる姿なんだって分かったから。だから……ありがとうございます。アリスが執事さんに会わせてくれて、執事さんが追い払わずに雇ってくれたからこの場所にいられました。ミスター・ホワイトリー、ずっとお元気で……これからもお屋敷を守ってあげてください」
ホワイトリーは静かにうなずいた。音楽が止み、ホールに笑い声がさざめいた。ホワイトリーはメガネを外した。鉱石色の瞳がかがやき、優しくミカを見つめていた。
◆
カーテンが半分開いた窓から、まるい月がのぞいている。艶めく深緑色にふちどられ、紺碧の夜にかがやく球が映る窓は、おおきな絵画のようだった。
公爵の部屋で、アリスが目を潤ませていた。ミカとアリトは彼女の前に立ち、その後ろでは、アンソニーが長椅子に座り、公爵は手を後ろに組んで、窓をながめていた。
アリトは小箱を差しだした。アリスは目を見開いて、震える指でふたを開けた。濃紺の箱のなかに、銀色の懐中時計が入っていた。
「アリー様……これは」
「ミカの懐中時計がきれいだと言ってたそうだな。そろいで工房に作らせた。金時計は目立つから銀製だけど……裏面に隠し蓋がついてる。ここを開けると、写真や小物が入れられるんだ」
「この写真……先日、撮ってくださった……」
「ああ。マイケルの伯父が撮ってくれた、俺とアリスとミカの写真だ。あとは……髪なんて要らないかもしれないが……俺とミカの……要らなければ捨ててくれていい」
「いっ……いっ……いるっ‼ いるに決まってます‼ こんな……こんなまさか……していただけるなんて……思わなくて……あっ……ありがとうございます……アリー様‼」
アリトは微笑みながら、懐中時計の裏面を指さした。飾り文字の刻印が入っている。その文字を読み、アリスは目から涙をこぼした。
『From A to A 1880』
アリトは腰をかがめて涙をぬぐい、アリスの金髪を優しくなでた。
ミカは真っ白な包みを差しだした。
「あのね、このお屋敷にきて、針仕事わりと楽しいなって……まだそんな上手くはないんだけどね。よかったら……あたしが刺繍したの。スズランって、しあわせとか純粋って意味があるんだって。アリスにぴったりだなって……そんで絶対しあわせになってほしくて。それからこっちは、絹のストッキング。この前ロンドンに行ったとき、アリスに似合いそうなのを選んで……はは、あれもこれもって欲張ってたらすごい数になっちゃった。お店が開けるかも」
アリスが包みを開けば、銀糸で花や蔦が刺繍された白いハンカチと、藤色やターコイズ、格子柄や水玉模様、レースのついた色とりどりのストッキングが入っていた。
「ミカ…………嬉しい。ありがとう……ありがとうっ‼」
ぎゅっと包みを抱えこみ、アリスはミカの胸に飛びこんだ。
「元気でね。絶対、元気でしあわせに暮らしてね。ずっとアリスのこと憶えてるから。ずっとずっとしあわせを願ってるから。大好き、アリス……大好きだからね!」
「わたしも! ミカのこと大好き‼ ずっとずっと祈ってるよ。ミカとアリー様が上海でしあわせに暮らせますようにって。大好きだよ……ミカに出会えてよかった」
互いの濡れた頬を手でこすり、にっこりと笑い合った。ミカはもう一度、アリスを強く抱きしめた。この小さな背中のぬくもりを、鈴の鳴るような可愛い声を、ずっと憶えていようと思った。
アリスとは、この部屋で別れることになっていた。ミカとアリトが21世紀の人間だと、彼女には伝えていなかった。ふたりがアリスと同じ時代で……英国から遠くはなれていても、同じ空の下で生きているのだと。そう思っていてほしかった。
廊下にはエロル夫人が立っていた。小鹿みたいな目を細め、元気でね、とミカを抱きよせた。今夜発つとは伝えていないが、別れの気配を察したのだろう。ミカとアリト、公爵とアンソニーは南側の大階段にむかった。ミカは廊下を歩きながら、何度も振りかえった。エロル夫人の隣で、アリスはずっと手を振っていた。ミカたちが廊下の角を曲がったら―――きっとエロル夫人が、使用人ホールにアリスを連れていき、シェリー入りのホットミルクを手渡してくれるだろう。
◆
夜の墓地を、月明かりが照らしている。楡の梢が風にざわめいた。白い墓石が黄金色にかがやいている。アリトは墓石の前に立ち、背後を振りかえった。公爵が一歩前に進みでた。
「元気でな、アリー。いや、アリトだったか……うむ。一年前、おまえがこの墓地にあらわれたとき、名前を尋ねたらアリ……と言って意識を失ったものだから。てっきりアリーだと思っていたよ」
「アリーです。そう呼んでください。俺はあなたの息子のアリーです」
「ああ……そうだな。アリー。ミカとしあわせに暮らしなさい」
アリトとミカを交互に見つめ、公爵はふたりに手を差しだした。硬い皮膚の大きな手のひらだった。名残惜しそうにミカを見て、公爵はアリトの背中を抱きしめた。
アンソニーは三人を、少しはなれて眺めていた。
芝生を踏みしめ、ミカは彼の前に立った。
「じゃあね、アンソニー」
「……うん」
「あたしが話した21世紀のこと、憶えてる?」
「……憶えてるよ。ぜんぶ憶えてる。絶対忘れるもんか」
「そこにあたしもいるから。アリトもね。会いたくなったら思い出して。21世紀のこと。あたしもあなたに会いたくなったら、思い出すよ。この時代で一緒に過ごしたこと。記憶のなかで、また会えるよ」
「……うん。きみの記憶をもらったから。会いたくなったら思い出すよ」
固く握りこんだ両手を、ミカはふわりと包みこんだ。アンソニーの強張った指先を、ひとつひとつ解いていく。自由になった手を、アンソニーはミカの両頬にあてた。
「アリトとしあわせになって。きみの……いやまあ、あいつも……きみたちふたりのしあわせを願ってる。痕なんて消えてもいい。きみが僕を忘れてしまってもいい。ただ元気で……しあわせに生きていってくれ。きみが笑って生きてる未来を、僕はずっと憶えているから」
「あたしも憶えてるよ、アンソニー。あなたがこの時代でしあわせに生きてるって。だからしあわせになって。ずっと忘れないから」
「…………うん。ミカ、僕もきみを忘れない」
手のひらの熱で、頬がじんわりと温まる。アンソニーは両手をすべらせ、栗色の髪を愛しそうに撫でつけた。顔いっぱいに、子どものような笑顔がひろがった。
「じゃあ……巻くね」
ミカは三人の男たちにうなずいて、手元の鍵を差しこんだ。ぜんまいを巻き上げる度に、小さな機械音が鳴る。風が吹き、楡の葉がざわざわと揺れている。頭上では、まんまるの、黄金色の光が…………まぶしく、まぶしくて。
そして、ミカは意識を失った。
◆
目の前に窓があった。電気が消えた部屋に、黄金色の光が満ちている。フローリングの床には黒い影が伸びている。ミカはベッドに上体をもたれていた。帰ってきた……帰ってきたんだ。
右手には懐中時計を握りしめていた。左手をのばし、布団に転がったスマホをつかむ。画面を見て、ミカは目が釘づけになった。手元で光る数字は、お祖母ちゃんの葬式の当日…………ミカがタイムトラベルした夜だった。
(え……うそこれ、あのまま何十年もあっちにいてよかったんじゃないの⁈)
ぎゅっと指先を握りこんだら、手のひらに鋭い痛みを感じた。
「あっ‼」
いつもは短い爪が、鋭くとがっている。髪に手をふれれば、数センチ伸びていた。ああ……そうなんだ。こっちで時間が経たなくても、あっちでは時間が経ってるんだ。
(娘がいきなりお婆ちゃんになってるとか……お母さん衝撃すぎて倒れるな)
ミカはスマホに目を落とした。ボタンを押しても、日時を表示するだけの静かな画面。連絡は、アリトからする予定だった。「電源落ちてっから。充電したら電話する」と言われ、互いの番号を交換した。充電て……家に帰ってからだったら、数時間は掛かるよね。夜だしもう眠いかもだし、明日の朝になるかも。先にお風呂に入ってこようかな。そうだお母さんの顔も見たいし。だけど…………。ミカはスマホを睨みつけた。もし…………かかってこなかったら? もし…………アリトだけ、うまく帰れてなかったら? あっちの時代に残ったままだったら…………どうしよう。
心臓がうるさいぐらい喚いている。大丈夫。絶対、大丈夫。と自分に言い聞かせても、不安が止まらなかった。懐中時計はあるんだし、そんときはもう一度タイムトラベルして……いや、たぶんむり。あれはマイケルの力のおかげだもん。きっと、もう二度と19世紀には戻れない。ミカは黒い画面を見つめ、握る手に力をこめた。汗ばんで、スマホが滑りそうだった。お願い、お願い、どうか…………。
ブルルルルルル。
バイブが鳴った。そうだ……お葬式だから音、消してたんだっけ。画面に映っているのは、登録していない番号だった。何度も何度も、アリトと交換した紙を見て、頭に叩きこんだ番号だった。
震える手で、ミカはスマホの画面を押した。




