3-9 ミカ、お屋敷を去る(上)
「ええっ⁈ アリー様と駆け落ちする⁈」
使用人部屋に鈴のような声が響いた。ミカは神妙にうなずいた。アリスは呆然とした顔で、手にした雑誌をベッドに置いて、ミカへと身を乗りだした。
アリトに呼び止められたのは、その日の朝のことだった。大階段を磨いていると、階上で靴音が鳴った。アリトや公爵の部屋は北棟にあり、ふたりは普段、北側の小階段を使うことが多い。昨日の今日で、朝から鉢合わせするとは思っていなかった。
(うわ……まだ心の準備が……顔合わせたくない‼)
ミカはそろそろと壁に寄り、目線を下げた。ミカの願いもむなしく、アリトは目の前で立ち止まった。
「俺も帰るから」
ぶっきらぼうに一言告げて、アリトは階段を下りていった。ミカは慌てて腕をつかんだ。
「は⁈ 帰るって……あっちに⁈」
「そう」
「だ……だめだよ。なに言ってんの⁈ そんな……それならあたしが残るから!」
「おまえは帰る。俺も帰る。そーいうことで。じゃ」
金の瞳でミカを見て、アリトはそっけなく背中をむけた。ミカは両手に力をこめて、無理やりアリトを振りむかせた。
「だめだってば‼ それならあたしが残るっ……」
「……おまえが残ったら、一生抱かねえ」
「はっ⁈」
「こっちに残んなら絶対手は出さねえ。傍にいるのに好きな女と一生結ばれないとか、俺、かわいそうじゃね?」
「なっ……」
「ふたりとも帰るがいいさ」
澄んだ甘い声が、ふたりの背後から掛けられた。常とは違い、その口調は投げやりに感じられなくもない。
「ふたりとも残れば、僕はきみたちを見る度に、あーーー失恋したんだ……ってへこむし、アリーだけ残っても、あーあ、あっちに帰れるのに帰らなかったんだ……ってイラっとするし……だからふたりで帰ればいいんだ」
アンソニーは、ひらひらと右手を振りながら、軽やかに階段を下りていった。
「じゃあ……じゃあ、次の満月になったら……ふたりで上海に行くの?」
「うん、そうなんだ」
昼間に公爵やアリトと話して、使用人の皆にはなにも言わないと決めた。当日まで、いつもどおりに過ごす。それから、ミカは家族から連絡がきたとロンドンへ。アリトは体調をくずし、専門医の受診のためとロンドンへ。そしてミカは故郷へ帰り、アリトは静養のため上海に帰る。それぞれ、公爵家からさりげなくフェードアウトする筋書きだった。だけど…………とミカは思った。三日前、礼拝堂で跪いていたアリスの影が頭をよぎる。突然の別れを、アリスにはもう味わわせたくなかった。それに、好きな人と一緒に屋敷を去ると、ミカもアリトも元気だと、だからなにも心配は要らないのだと、ほんとうのことを伝えたかった。
「ミカは……アシュリー様と恋仲なのかと思ってた」
「アンソニーは……大切な人だよ。大切だけど……恋とかじゃないんだ。あたしが好きなのはアンソニーじゃなくて、アリ、イなんだ」
「そっかあ」
ぽつんと声を漏らして、くたりとアリスがもたれかかってきた。
「…………そっかあ」
「ごめん。突然。驚いたよね」
アリスは無言で、ミカの胸に顔をうずめた。不安が頭をもたげて、ミカは淡い金髪を指で梳かした。「……アリス?」ぱっと顔が上がり、アリスは満面の笑みをみせた。
「すごいね、ミカ‼ 貴族のご子息とメイドが駆け落ちだなんて……こんなことってほんとにあるんだね! ロマンス小説みたい……へへっ、驚いたけど、わたしもなんかときめいちゃった!」
アリスは声を弾ませて、上海までは船で行くの? どんな街並なんだろね、とにこにことミカに尋ねた。ミカはほっとして、公爵から教えてもらった、上海の様子をアリスに聞かせた。
◆
アリスはバスルームにリネンを運び、戸棚に仕舞って、三階の廊下に戻った。北の間を通りすぎ、アリトの部屋の前で立ち止まる。軽く扉を叩き、応じる声に部屋に入った。肌着や小物を衣装だんすに仕舞い、そろりと背後を振りかえった。アリトは暖炉のそばの椅子に腰かけ、新聞を読んでいた。カサカサと紙のこすれる音がする。
「あの……」
「なんだ?」
「アリー様。すみません。少しだけ……お話よろしいでしょうか」
「……なんだ? 話してみなさい」
小さな指が、ぎゅうとエプロンを握りしめている。アリスの頬は赤く、熱があるかのようだった。翡翠色の瞳は絨毯を見つめ、泣きそうに潤んでいる。アリトは新聞をたたみ、不思議そうに首を傾げた。
「どうした……」
「わたし……わたしっ…………アリー様のことが……」
「…………」
「ずっと……アリー様のことが……っ」
「…………」
「ずっとっ……………………あっ、憧れていましたっ‼」
ほとんど怒鳴るように、アリスは声を振りしぼった。
アリトの目が点になっている。
「このお屋敷に来たばかりのとき……起きれなくて落ちこんでたら、声をかけてくださって……使用人のあたしなんかを気にかけていただいて……なんてお優しい方だろうって……それにいつもお夜食を召し上がって、遅くまで勉強されてると聞いて……なんて努力家の方なんだろうって……わたしも頑張らなくちゃって……とても励まされて……それにアリー様の髪は黒い天鵞絨みたいで……金の瞳は葡萄みたいに美しくて……乗馬姿も恰好よくて……いつもお姿をお見かけするだけでしあわせで……ほんとに……しあわせで……だから……だから……好っ……いえ‼ あこがれ‼ 憧れてたんですっ‼ ずっと憧れていました、アリー様っ‼」
「そ……そうか。ありがとう」
アリトは照れたように頭をかいた。
「駆け落ちされると聞いて……応援してます‼ わたし、ミカもアリー様も大好きで……ふたりともお似合いで……嬉しくて……だから絶対、絶対、しあわせになってください‼」
アリスは顔中に、花開くような笑みをひろげた。
「ありがとう。アリスもな。達者に暮らしなさい」
「あっ……あっ……ありがとうございます‼ じゃあ……もうすぐお茶の時間なので……失礼します。ありがとうございましたっ!」
めいっぱい頭を下げて、アリスはそそくさと部屋をあとにした。廊下にパタパタと足音が響きわたった。
二月の夕暮れは早く、午後四時を前にして、陽はすでに丘の稜線を染めている。黄金色がたなびく空に、ぽつりぽつりと雲が浮かび、その白に光が溶けていた。池のそばを少女が駆けていく。石につまづき、小さく悲鳴を上げて、砂利道に両手をついた。道にへたりこんだまま、少女は肩を震わせた。嗚咽する少女に、男の手が差しだされる。その手をつかみもせず、少女はただ泣いていた。
男は少女の脇に手を入れて、ぐっと引っ張った。少女を立ち上がらせると、そのまま両腕で抱きかかえ、ベンチに座らせた。
「で?」
「ふぇっ……えっ……アッ……アンソニーさまっ……」
アンソニーは足を組み、膝に頬杖をついて、隣で目をこするアリスを眺めた。
「なっ……泣きませんでしたっ……‼ わたし……絶対に泣かないって決めて……アリー様はお優しいから……泣いてしまったら……きっと気にされてしまうから……だから……部屋を出るまで笑おうって……決めてて……わたし、最後まで泣きませんでしたっ‼」
「うん」
「わっ……わたし……好きって言いませんでした‼ 好きって言ったら……わたしのこと……なんとも思ってないのは分かってます! だけどっ……それでもアリー様はわたしをきっと気にかけてしまって……それにもし、ミカが知ったら気にしちゃうから……ふたりとも優しいから……だから……わたし、好きって言いませんでしたっ‼」
「うん」
大きな手が、アリスの背中をそっと撫でた。アリスはしゃくり上げて、アンソニーの胸にしがみついた。
「でもっ……どうしても……気持ちだけはお伝えしたくて……この一ヶ月半、ずっとお姿を見るだけで嬉しくて……お話できたときは……ものすごくしあわせで……アリー様のことが好きで……ずっと好きで……だから好きって言えなくても……せめてなにか……お伝えしたくて……」
「うん……きみも優しいね。よくがんばったね」
「でもっ……かなしくて……どうしよう。ミカもアリー様も、ふたりともいなくなってしまうなんて……上海なんて遠すぎて……きっと二度と会えない……どうしよう‼ アンソニー様、悲しいです。悲しすぎて……こんなの、どうしよう……辛い。辛いです……」
「うん……そうだね。悲しくてつらいね」
胸のなかのアリスを抱きしめて、アンソニーは空を見上げた。黄金色にかがやく白い雲が、ゆっくりと頭上を流れていく。
「アンソニー様……こんなに悲しくなるなんて……どうしよう」
「いつか……大丈夫にはなるけれど。それでも、悲しいね」
アンソニーは眉根を寄せて、目をつむった。
「……僕も悲しいよ」
涙に濡れた顔が、ぱっと上がった。
「すみません、わたしばっかり! アンソニー様も失恋されたんですよね」
「……う。まあね」
「わたしたち……ふられた者同士ですね。あ、わたしはふられる間もなく失恋ですけど」
「……いやな同士だなあ」
アンソニーはため息をついて、上着からハンカチを取りだした。アリスの目元をふいて、その鼻をこすり、頬の涙をぬぐいとった。
◆
その前日のことだった。図書室の窓が茜色に染まり、絨毯に夕陽を落としている。アンソニーは長椅子で足を組んでいた。ミカは彼の前に立ち、困惑の声を出した。
「……21世紀のことが知りたい?」
「ああ。教えてほしい。きみが知ってること、ぜんぶ」
「いや……だって。そんなの歴史が変わっちゃったらどーすんのって」
アンソニーは両手で頬杖をつき、人懐こい笑みをうかべた。
「オデュッセイアとか。ガリバー旅行記とか」
「へ?」
「きみの話は、ぜんぶ架空の物語として聞くことにするから」
「……へ?」
「未来が大きく変われば……きみと会えなくなるかもしれないんだろ? それは嫌だから。でもきみが生きている時代を知りたい。僕がもしそこにいたならって……想像してみたいんだ」
すみれ色の瞳に夕陽が映り、まばゆく輝いている。まっすぐな視線が胸に痛くて、ミカは少しだけ笑ってみせた。僕のささいな選択に影響は及ぼすかもしれないけれど、未来に存在する物を作ったり思想を広めたりなんてしないよ。アンソニーは真摯に言葉を重ねた。ミカはその目を、言葉を信じることにした。
「じゃあ……21世紀では、馬車は使わないのか?」
「うん。車だよ。ガソリンで動いて、自分で運転できるの。教習所っていう学校みたいなとこで免許が取れて。この時代みたいにお金持ちの人だけじゃなくて、あたしのお母さんとか、ふつーの人も持ってるよ。それで通勤したり旅行したりするんだ」
「ふうん。ガソリンって?」
「えーーっと。なんか石油? からできた液体の燃料みたいなやつ。あと最近はエコだからって電気自動車もあるよ」
「エコって?」
「エコロジーの略。環境に配慮しましょうっていう。温暖化とか海洋プラスチックとかいろいろ問題があって」
「エコロジーは生態学じゃないのか? 温暖化? 海洋プラスチック? あと電気自動車ってなに?」
ミカが答える度に、アンソニーの質問が増えていった。やばい。もっとちゃんと勉強しとけばよかった。ミカは頭を抱えた。これまで、テストで赤点とらなかったら十分かなって思ってたし。その日の夜、未来のことを話してると言ったら、次の日、アリトも顔をのぞかせた。アンソニーは遅れてやってきた。ミカの口元をじっと目で追い、アリトはゆるゆると首を横にふった。
「……いや待て。ミカ。おい。なんだそのざっくらばんな説明は」
「え? だってあたし世界史とってないし。そんな詳しくないし」
「第一次世界大戦は、1914年から1918年まで。サラエボ事件の犯人は、サラエボ人じゃなくてセルビア人な。っつっても、生まれたのはボスニアだけど。そいつの革命組織にはセルビア人もボスニア人もいて、南スラブの共同国家を作るのが目的で…………てか、世界史は俺が話すから。おまえは別のこと話せ」
「うん、よろしく先輩」
「……仲がよろしいことで」
アンソニーが口を尖らせた。その翌日には、公爵も一緒に長椅子に腰かけていた。
「なんと。未来では、庶民も海外旅行に行けるのか」
「はい。飛行機に乗ったりして」
「飛行機ってなに?」
「空を飛ぶ……船? みたいな」
「冗談だろう?」
「ほんとだよ」
アンソニーと公爵は、新作ゲームを手にした男の子みたいに、長椅子から身を乗りだして目を輝かせていた。
数日後には、年金とか健康保険とか、社会保障の話になった。
「ふうん……そんな制度があるんだ」
「英国で健康保険制度ができんのは、確か……1911年頃だったな。ロイド・ジョージの主導で。ホワイトリーみたいに病気になったら、保障が受けられる。あと第一次世界大戦後には失業者が増えて、失業保険もできたはずだ。年金も、20世紀の初めに老齢年金法ができて……今は行き場のない高齢者は救貧院しかあてがねーけど……少しはマシになるかも」
「あっ! あのさ、行き場のない人たちって……公園で寝てたりもする? 日本のホームレスの人たちみたいに」
「そうだね。ハイドパークやグリーンパークには、昼間よく寝てる人たちがいるけど……彼らは浮浪者だろうね」
「あのね、あたしも見かけたんだ。ロンドンに行ったとき、パディントン駅の近くの公園……あれってハイドパークだよね? 真冬なのにみんな薄着で、疲れた感じで……あのとき、あたしも家も仕事もなくておんなじだなって……21世紀だとね、シェルターとか炊き出しとか生活保護とか、なんかいろいろあるんだけど。この時代ってそーいうの、ないのかな」
「うーーん……救世軍とか?」
「うむ、そうだね」
「でも無料給食所は、日曜の朝だけじゃなかったですか?」
「ホワイトチャペルには、浮浪者の収容所があると聞いたが」
「あれはすごく順番待ちみたいですよ。大伯父が以前ぼやいていました」
「ああ、シャフツベリー卿かね? 例の法案はどうなった?」
「難しいですね。承諾年齢の引き上げは、一部の議員がなかなか同意せず……自分たちが子どもと愉しみたいんじゃないかと、疑いたくなりますよ」
きょとんとするミカを見て、アンソニーと公爵が笑みをむけた。
「僕の大伯父がね、児童福祉に関心が強くて……父や僕も一緒に活動してるんだ。今は女性の承諾年齢……結婚できる年齢っていうか、要は、性交しても相手の男が処罰されない年齢なんだけど。それが13歳で……16歳に引き上げようとしてて。まあなかなか上手くいかなくて。公爵も協力してくれてるんだ」
「なにも……名前を貸しているだけだよ」
公爵は口の端を上げ、カップを持ち上げた。アンソニーが真剣な面持ちで口を開いた。
「大伯父に協力してもらって、社会福祉にも関わるようにするよ。あと数ヶ月でオクスフォードも卒業するし。歴史を変えるような法律は作れないけど……僕個人でできる範囲で助けるようにするから」
「うん! ありがと、アンソニー」
ミカが目を細めたら、嬉しそうな笑みが返ってきた。




