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3-8 紳士とメイドと貴族の選択(下)

 頭上に青空が広がっている。冬の英国にめずらしい晴天だった。玄関の扉が開き、乗馬服姿の青年が階段を下りてきた。黒い柵にもたれる男を見て、青年が微笑んだ。男は指に煙草を挟み、軽く手を上げた。


「乗馬?」

「ああ。おまえも行くか?」

「いや、僕はいい。ミカが二週間後に帰るそうだな。もう聞いた?」

「ああ……あいつから聞いた」


 アンソニーは石畳に灰を落とし、上目遣いでアリトを見た。


「昨日、僕も連れていってくれ、と頼んだ」

 アリトの眉がぴくりと動いた。

「…………それで? あいつはなんて?」

「なんて答えたと思う?」

 楽しそうな声を向けられ、アリトは顔をしかめた。

「……聞いてんのは、こっち」

「断られた。連れて行けないってさ」

「そうか」

「……そんなあからさまに喜ばれると、腹立つなあ」

「……別に喜んでない」


 口元を隠して、アリトはそっぽを向いた。アンソニーは柵にもたれ、煙をたどるように空を見上げている。


「まあいいさ。きみだって……21世紀には行けやしないんだから」

 隣から聞こえた声に、アリトは低くつぶやいた。

「……………………いや、行ける」

「なんだって?」

 重たい視線を避けるように、アリトは石畳を見つめ続けた。

「行ける。俺も…………あっちの人間だから」


 石畳にぱらぱらと、細雪のように灰がこぼれた。その後から、ぽとりと煙草が落ちてきた。アンソニーの指はまだ開いたまま、そこにない煙草を挟んでいるように見えた。


「……………………へえ」


 うめくような声だった。アリトはようやく顔を上げ、隣の男を見つめた。苦渋の表情が目の前にあった。


「それはそれは……余裕だねえ。きみはあっちに行けるのに、行かないんだ? うらやましいよ。僕がきみなら絶対にあの子からはなれない。たとえ結ばれなくても、傍でずっと見守り続ける。でも僕が19世紀の人間ってだけで、最初からその選択肢すらないんだ。きみは21世紀に生まれたってだけで……その選択肢があるんだな。僕だって21世紀に生まれたかった…………ミカと同じ時代に生まれたかった…………ほんとうにきみがうらやましいよ、アリー」


 アンソニーは靴の底で煙草を踏みつけ、アリトを一瞥し、中庭の奥に消えていった。石畳にこびりついた灰を見つめ、アリトは声を落とした。


「…………マウント取るとか。だせぇな、俺」



 手に載せた銀のトレーに、廊下のランプが映りこむ。白磁のカップは淡い黄色に、銀のポットは黄金色に輝いていた。ミカはその輝きに目を落とし、扉の前に立っていた。重厚な木製の―――アリトの部屋の扉である。何度か息を吸いこんで、ミカは扉に片手をのばした。


 三階の廊下に、ノックの音が響いた。扉はすぐに開いた。アリトは椅子に腰かけ、トレーからポットを持ち上げ、カップに注いでいる。琥珀色の液体が満たされ、ふわりと湯気が立ち上がる。部屋に芳香が満ちていく。アリトは怪訝そうに顔を上げた。


「座んねーの?」

「うん……」


 アリトの前に立ったまま、ミカは指先を固く握りこんだ。トレーにポットが戻される。アリトがひと口飲むのを見届けて、ミカは口を開いた。


「あのさ」

「ああ」

「ちょっと……立ち上がってくんない?」

「は?」


 片方の眉を上げながら、アリトは言われたとおり腰を上げた。椅子の前に立つアリトを、暖炉の方にうながした。暖かな風が頬にふれた。ミカは彼の背後にまわり、両手のひらを背中にあてた。しなやかな筋肉の感触が、上着越しに伝わってきた。アリトが息をする度に、かすかに上下している。ミカはぎゅっと目をつむった。


「……………………抱いてくんないかな」


 手のひらの下で、背中がびくんと跳ねた。ミカはこつんと額をあてた。


「一昨日ホテルで言ってたの…………あれ、今夜……だめかな」

「…………」

「付き合ってとか言わないし。てかどう考えても無理だし。あたしは帰るしあんたは残るし……」

「…………」

「でもせめて……初めては…………好きな人としたいから」

「…………」


 低いため息がもれた。心臓がうるさいぐらい鳴っている。正面で、顔を合わせて言わなくて、心底よかったと思った。このほんの数秒の間が、数十秒にも、数分にも感じられた。


「……………………悪ぃ。無理」

「……………………だよねえ! なに言ってんだって感じだよねなんかごめんマイケルの夢とか見て感傷的になってるのかもごめんねなんかアレだし今日はもーー部屋戻るねまた明日‼」


 ミカは早足で扉に向かった。ちらりともアリトの顔は見なかった。見る勇気なんてなかった。暖炉の熱が顔に移ったようだった。火が噴き出してるみたいに、熱い。恥ずかしい。恥ずかしい! 恥ずかしい‼ うわあああああ‼ もう今すぐ使用人部屋に戻って毛布に頭からくるまりたい‼




 ふいに、お腹に硬い感触がふれた。

 そのままぐっと引き寄せられて、

 後ろから抱きしめられた。




「…………好きだから」

「…………」

「俺も……好きだから。だから……抱かない。万が一、孕ませても……責任取れねえから。ごめん」

「そんときは……美賀子さんみたいに」

「……それはだめだろ」


 耳元で低く囁かれ、全身がぞくぞくした。うなじに顔を埋められ、首すじに温かな息がふれる。アリトが口を開く度に、唇がかすかに肌を撫でた。


「…………ごめん」

「ううん。あたしこそ……困らせてごめん」

「や…………嬉しいし」


 お腹のうえの両腕が、思いきりミカを抱きしめた。お腹から、背中から、首すじから、腰から、からだの触れているところから、全部、アリトの熱が伝わってくる。熱い。熱い。熱くて…………このまま溶けちゃえばいいのにと思った。ミカはからだを捻って、アリトと向かい合った。金の瞳が熱に潤んでいた。頬に指をのばし、両手でつかんで、ミカは自分のほうへ引き寄せた。


 この柔らかさを、熱を、味を、ずっと憶えていたいと思った。


「好きだよ、アリト」


 唇をはなし、ミカは笑った。アリトが口を開く前に、腕のなかを抜けだして、扉に駆けていった。今度は引き留める腕はなかった。



 書き物机のうえに、写真と遺髪が載せられている。公爵は写真を手にして、また元に戻し、遺髪を手にして、指の腹でそっと撫でて、また元に戻した。扉がコツコツと音を立てた。緩慢に革椅子から腰を上げ、ノブに手をかけた。公爵は驚いた様子を見せたが、すぐに気さくに笑って、訪問者を部屋にとおした。


「どうした? こんな夜中に」

「……すみません、父上」


 公爵は椅子を勧めたが、アリトは扉の前から動かなかった。


「そこでは寒いだろう、こっちに」

「すみません、父上」

 アリトは両手を大腿につけ、深く頭を下げた。

「どうしたんだ?」

「私が公爵家の跡取りになるために……父上がどれほど骨を折ってくださったか……それなのに……私は…………なんて恩知らずなことを」

「なんの話だね? アリー」

「…………ミカと一緒に行きます」


 公爵の目が、めいっぱい見開かれた。


「なんだって?」

「ミカと一緒に、21世紀に帰ります」

「アリー、おまえ……」

「私は……私も……21世紀の人間です。未来からタイムトラベルしたんです」

「……………………なんと」


 公爵は椅子の背をつかみ、ふらふらと腰を下ろした。


「俺は残るつもりで……だから正体を明かすつもりも、ありませんでした。だけど…………ミカと離れたくありません。あいつが21世紀に帰ったら、二度と会えません。後からどんなに会いたくなっても……二週間後にはもう、永遠に会えなくなるんです。辛いです……あいつの傍にいたいです。父上、俺はあなたのことが大切で、あなたの息子になりたいと……ほんとうにそう思っています。だけど…………すみません。俺はこの時代ではなくて……21世紀でミカと一緒に生きていきます」


 椅子に座る公爵を、アリトは辛そうに見つめていた。部屋に長いため息が響いた。アリトは唇を噛んでうつむいた。


「好きなのか?」

「……はい」

「ならいいじゃないか」

「…………はい?」

「両思いなんだろう?」

「…………はい」

「よかったな」

「…………」


 アリトはそろそろと顔を上げた。困惑の表情が浮かんでいる。


「……父上」

「そんな辛そうに話すことじゃないだろう。好きな女ができたから、一緒に行きたいというだけだろう?」

「ええ……まあ……そうですが」

「おまえがロンドンに行ったときは、またマイケルのように、メイドと結婚すると言い出すんじゃないかと冷や冷やしたがね。もう今となっては……ミカのあの話を聞いたあとでは……おまえが元気で生きていてくれたら、私はそれだけで十分だ」

「…………」

「子どもは、いつか旅立つものだ。マイケルは……あまりにも早く……永遠に……旅立ってしまったが」


 声の終わりが震え、公爵は両手を組んでうなだれた。アリトは絨毯に膝をつき、その手を包みこんだ。公爵は息を整えて、アリトに目をむけた。父親の、優しいまなざしだった。


「……でもおまえは、ずっと先の未来で生きている。この先、会えなくとも、アリー、おまえがちゃんと元気で生きていると知っている。だから……いいんだよ。行きなさい。私はここで、おまえを見守っているから」


 アリトの頬に、涙がひと筋流れていった。


「父上……父親だと……思っていてもいいですか。あっちに行っても……あなたを俺の父親だと…………そう思っていても、いいですか」

「おまえは私の息子だよ。この時代でも、未来でも、たとえどこにいようと……アリー、おまえは私の大事な息子だ」


 涙をこぼす息子の頭を、大きな手のひらが撫でさする。目尻に幾つものしわを寄せ、公爵は、未来からきた息子を見つめていた。

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