3-8 紳士とメイドと貴族の選択(上)
早朝に目が覚めて、ミカは思いきり伸びをした。昨日の話のあと、公爵から「帰国まで客人として滞在すればいい」と勧められたけど、ミカは丁重に断わった。だって今さら落ち着かないし。それに…………アリスやエロル夫人やみんなと、最後まで普段どおりに過ごしたいし。そう思いながら隣のベッドに顔を向けて、ミカは目を丸くした。アリスが上体を起こして、眠たそうにあくびをしている。
「ふあ……おはよう、ミカ」
「おはよ……え⁈ アリス⁈」
「へへっ……朝、ちゃんと一人で起きれるようになんなきゃなって」
アリスは照れたように笑い、寝ぐせを指で梳かした。昨日、アリスと礼拝堂から戻ったあと、エロル夫人がそっと教えてくれた。「ミカがベッドから落ちたときも、いなくなったときも、自分だけ眠ってて……ってすごく後悔したみたいでね。毎日、空き時間にお祈りをしていたの。無事に帰ってきてくれて良かったわ……アリスには内緒ね」ふわりと優しい声音を思い出しながら、ミカはアリスの笑顔を眺めた。心配させてごめん…………心のなかで謝って、ブラシを手に取り、アリスの細い金髪を丁寧に梳いていった。
ミカのコルセットを締めながら、アリスは不思議そうな声を上げた。
「あれ……ミカ、そんなとこ痣なんてあった?」
「へ」
アリスの視線は、右の鎖骨に注がれていた。ミカは背中に汗がにじんだ。うわあああああ…………そうだよね。虫刺されって感じじゃないよね、これ。翡翠色にかがやくアリスの純真な視線が…………まぶしくて、痛い。
「えーーーっと。これはね……」
「聖痕みたい」
「へっ?」
「あのね、地元の村はずれにお婆さんが住んでるの。村の皆はあんまり親しくしてなかったんだけど……よく庭で歌をうたってて、アイルランドの民謡で……きれいな歌だなあって、わたしはこっそり遊びに行ってたんだ」
アリスは懐かしそうに、にっこりと笑った。
「そのお婆さんが見せてくれたの。手首についた痣を……これは聖痕なんだよって。イエス様の苦しみを負ってるんだよって。村の皆はうそに決まってるって笑ってたけど、わたしは本当なんじゃないかなって……だってお婆さん、とっても真剣な目をしてて……色も大きさも、ミカの痣とそっくりで……あっ‼ でも別にわたしはカトリックじゃないよ⁈ ミカがカトリックだと思ってるわけでもないし……えっと、カトリックじゃないよね?」
「えっ? う、うん」
めずらしく早口なアリスの勢いに押されながら、ミカは頷いてみせた。カトリックてか、そもそも信仰してる宗教とか特にないんだけど。
「だよね! わたしも国教会だから! カトリックだとなかなか雇ってもらえないし、肩身が狭いよね。この屋敷はそんなことないと思うけど」
「へえ? そうなんだ」
「うん。だからお婆さんのことも、村の皆は遠巻きにしてたんだけど……わたしは好きなんだ。元気にしてるかなあ」
ミカの鎖骨を見て、翡翠色の目が細くなる。休暇でまた会えたらいいね、とミカが笑うと、満面の笑みが返ってきた。
「……苦しみを負う、か」
アリスの言葉が頭からはなれず、ミカは指で鎖骨をなぞった。
◆
朝食のあと大階段を磨いていたら、玄関ホールが騒がしくなった。ハウスメイドボックスを端によけて、ミカはそっと階段を下り、柱の陰からのぞきこんだ。扉の前にふたりの男が立っている。一人は、黒いコート姿の壮年の紳士、もう一人はジョンだった。
「クリブデン公爵に面会願おう」
「恐れ入ります。お約束はございますか」
「ぼくは彼の義兄だが?」
「失礼いたしました……少々、お待ちください」
ジョンが踵をかえす間もなく、応接間の扉が開き、公爵がホールに入ってきた。男に目を留めると、ゆっくりと近づいて会釈した。
「これは……ご無沙汰しております、義兄上」
男は公爵を見据えたまま、自分の手袋をはずした。その手袋を、公爵の足元に投げつける。追いかけるように、公爵の視線が足元に落とされた。
「妹とぼくが姦通していたなどと……よくも妹の名誉を汚してくれたな」
「…………」
「手袋を拾え。決闘を申しこむ」
模様が織りこまれた赤い絨毯に、白い手袋がくたりと横たわっている。公爵は憮然とした面持ちで、押し黙ったまま手袋を見つめ、やがて腰を屈めてそれを掴んだ。
「さあ……」
「すまなかった」
男の前で片膝をつき、両手のひらに手袋をのせ、公爵は恭しく差しだした。
「は……」
「私が間違っていた。許していただきたい」
男を見上げたあと、公爵は頭を下げた。
「な……なにを今さら……」
男の声に狼狽がにじむ。公爵がぽつりと呟いた。
「…………私は、あなたに嫉妬していたのだ」
「……なんだって?」
公爵は自嘲の笑みをみせ、少しの間まぶたを閉じた。
「私にはミシェルの思想が……あまり理解できなかった。男も女も、貴族も平民も……人はみな平等であるなどと……彼女を愛しているが……私は妻のよい理解者ではなかった。あなたは妻に、ウルストンクラフトやペインの本を送り、手紙を交わし、昔から彼女と親しくして……妻と同じ目線で物事を見られるあなたが……私には羨ましかった」
「理解できたところで、ぼくは彼女の兄だ。それ以上の愛情は与えられない。あなたはミシェルと結婚できて……それだけで十分だろうに」
「ああ……十分だった。私は妻を愛しているし、妻も私を愛していると知っている。知っていたのに…………私は勝手に嫉妬して、勝手に決めつけて、彼女を疑っていた……申し訳ない。十数年前、あなたの屋敷でミシェルが静養していた折に……ちょうどミカの年頃とも合致すると……ただの私の妄想だった。当家の執事に不躾な訪問をさせたこと、心からお詫び申し上げる」
男は毒気を抜かれたように、まじまじと公爵を見下ろした。
「その……例の娘とやらは、正体が分かったのか?」
「ああ…………彼女は、使者のような娘だった」
「使者?」
「あなたではなくて……過去から……未来から……あるいは天からの」
男は理解しかねる、といった様子で首を傾げた。ミカはもっとよく見ようと、身を乗りだして…………顔を上げた男と目が合った。
「娘というのは、彼女のことか?」
つかつかと、男がこっちに近寄ってきた。間近で見れば、栗色の髪に空色の瞳と、ミカによく似た容姿の男だった。ふたりの会話から察するに、彼はミシェルの兄のようだ。
(つまり、マイケルの伯父さんってことだよね?)
男はミカを見て、驚愕の表情をうかべた。
「なんだ…………きみは……そっくりじゃないか」
「あの……はい……そのう、初めまして」
「きみがミカか?」
「はい」
「…………」
ミカたちの背後から、公爵がやってきた。男は後ろを振りかえり、呆然とした顔で公爵を見つめた。公爵は眉尻を下げ、軽く頷いてみせた。
「……似ているんだ。だからあなたとミシェルの……と、愚かな妄想を。すまなかった」
「まあ……腹立たしくはあるが……これでは。あなたの気持ちも……分からないではないな」
男があんまり凝視するので、ミカは居たたまれずに、二、三歩後ろに後ずさった。男はくるりと背中をむけて、公爵の手から手袋をつまみ上げた。
「気が変わった」
「なんですと?」
「このまま帰ろうかと思ったが、しばらくここに滞在する」
「…………」
「ワイト島の屋敷から、カメラと撮影機材一式を送ってもらおう。この娘の写真を撮らなければ。こんなに素晴らしい被写体には二度と巡り合えない」
熱心に語る男に、公爵は困惑の表情をうかべた。ちら、とミカに視線が寄越される。
「きみは、いいのかね? その……きみの写真がこの時代……ごほ、いや……この屋敷に残っても」
「えーーーーっと。はい。展覧会とか本とかはまずいですけど……個人的にこの屋敷にだけ残るんなら、大丈夫かなと」
「なんだ? 出品してはだめなのか?」
不満げな声が漏らされて、ミカは苦笑いした。まあ本人が言うなら仕方ない……と、顎に手をあてぶつぶつと呟く男を、ジョンが客間に連れていった。
◆
アンソニーに呼びだされたのは、その日の夜だった。彼は夕方、自ら階下におりて、使用人ホールでミカに声をかけた。アリスがきらきらと目を輝かせ、「ねえ、やっぱりアシュリー様はミカのことが……」と声を潜めて耳打ちした。「アンソニーはそんなんじゃないよ」とミカが首を横にふったら「呼び捨てかあ……」とにんまりと笑われてしまった。
夕食のあと雑務を済ませ、ミカは中庭を横ぎり池にむかった。夜空を爪で掻いたように薄い月が、淡い光の輪をつくっている。白い吐息が闇に溶けていく。アンソニーは初めて出会った夜のように、池の前に立っていた。ミカは重い足取りで、そろそろと芝生を踏みしだいた。
「アンソニー、遅れてごめん」
「いや、僕が早く来たから」
「寒くない?」
「大丈夫。きみは?」
「平気。ショール羽織ってるし」
ミカは笑って、池へと目をそらした。冷えた手に両頬を包まれて、顔を正面に戻された。すみれ色の瞳に射られ、ミカは身じろぎできなかった。ゆるい金色の巻き毛に、真っ直ぐな鼻梁、口角が上がった紅い唇、鋭利な頬に、アーモンドのような瞳。気品を漂わせながらも、人好きのする甘い顔つき。ああ、この人はほんとに王子様みたいだな、とミカは思った。一緒にいるうちに見慣れちゃったけど。もしコンビニの先輩とかだったら、シフトが重なる度にきっとドキドキしてたはず。
「あっちにいつ帰るの?」
「次の満月……あと二週間後ぐらいかな」
「僕も連れて行ってくれない?」
ミカは目を見開いて、その場で固まった。ここに来るまで気が重かったのは、引き留められるんじゃないかと思ったからで。21世紀に帰らないで、こっちの世界に留まらないかと。だけど…………どうしよう。この展開は完全に想定外だぞ。
「あのーーーー、連れてくって。もしかしなくても……21世紀?」
「うん」
あまりにもあっさりと頷かれ、ミカは言葉に詰まった。
「いや……え……むりでしょ……いやできるのか……や、できたとしても……むりむり、むりだから‼」
「なんで?」
小首を傾げるアンソニーに、ミカは口をぱくぱくと動かした。
「な……なんでって……だって家とか学校とか……学校は……まあいいとして仕事とかどうすんのって…………いや……てかやっぱむりだよ? 19世紀のヒト、21世紀に連れてけないでしょ⁈」
「なんとかなるよ」
人懐こく笑われて、ミカは頭を抱えた。すみれ色の瞳がミカをのぞきこむ。
「きみが好きだ。ずっと一緒にいたい」
ミカは唾を飲みこんだ。芝生に目を落とすと、黒い葉が小刻みに揺れている。
「一緒にいても……ごめん。あなたに恋はしないと思う」
「今は恋じゃなくていい。一緒にいるうちにいつか好きになってくれたら……21世紀に行くことでその可能性が生まれるのなら……それだけで十分だ」
ミカは目を閉じた。芝生もアンソニーも消え、漆黒がひろがった。
その黒は、あの人の髪と同じ色だった。
「……ごめん。その可能性は……ないと思う。いや……ない、です」
「…………なんで」
かすれた声音に、ミカはゆっくりと顔を上げた。
「好きな人が……いるから。離れてても……ずっと……好きだから。マイケルを想う美賀子さんみたいに……あたしも。だから……ごめん。あなたの気持ちには応えられない」
「…………誰、そいつ。あっちの世界の男?」
「うん。や、違う……こっちの人」
「…………アリー?」
「…………うん」
「……あと二週間後には、離ればなれになるのに?」
「……うん」
「好きなんだ」
「うん。好き」
アンソニーの視線が動き、ミカの首元で止まった。細長い指がのびてきて、襟のボタンが手際よく外されていく。
「ちょっ……なに⁈」
「ごめんね。女の子なのに」
外されたボタンは、三つだけだった。
氷を滑らせるように、鎖骨を硬い指先がなぞった。
「痕。残しちゃって」
「……うん」
親指で撫でながら、アンソニーは優しく笑った。
「でも……このまま一生消えなければいいって思ってる…………ごめんね」
「……………………いいよ」
「……え」
「一生消えなくても、いいよ」
すみれ色の瞳が、迷子になったように揺れる。その目を捉え、ミカは優しく笑った。
「この痕ね。今朝、アリスが聖痕みたいだって」
「……………無垢な子だな」
「そうだよ。アリスは純粋でまっすぐで、すごい可愛いんだから。それでね、アリスがそう言ってくれて…………あたし思ったんだ。ああそうかって。これって……そーいうやつなのかもって」
「……どういうこと」
「あなたの後悔は、ぜんぶ未来に持ってくから」
「…………え」
「令嬢も、ラチェットもエリザベスも……あなたが抱えてる後悔は、ぜんぶ、あたしが21世紀に持ってくから。聖痕がイエスの苦しみを負うんなら、この痕は……あなたの後悔の印として、あたしが未来で引き受けるから。だから……しあわせになって。いつまでも過去に留まらないで。あなたは……あたしの大切なひとだから」
黒い地平線の果てから、鳥の声がせつなく響いた。風が吹き、巨大な陰となった森がざわめいた。夜の静かな賑わいのなか、低い声がこぼれ落ちた。
「愛してる、ミカ」
「あたしも…………アンソニーのこと、大切に思ってる。ごめんね、でも恋じゃないんだ。おんなじ気持ちは返せないし、あなたの望みにも応えられない……ごめんね」
薄闇のなか、池の水面がちらちらと波をたて、その前で、アンソニーが微笑んでいた。
「……死ぬまで愛してる。誰とも結婚せず、一生きみだけを愛してる」
「いや、それはどうよ……あなた跡取りなんだし……や、それは置いといても、結婚してもしなくても、誰かとしあわせになって欲しいんだけど」
「弟がいるからいい。あいつは堅物だから必ず結婚するだろうし。ごめんね、重いだろう? でも…………重ければ重いほど、きみも忘れられなくなるでしょう?」
低く甘い声に、残酷なほど美しい笑みに、捕らわれてしまいそうだった。
ミカはずっと考えていた。あのホテルで尋ねられた「いい?」の意味を。キスしてもいい? 痕をつけてもいい? 抱いてもいい? ううん、違う。アンソニーがほんとうに尋ねたかったのは…………赦されてもいい? 抱えている後悔を、手放してもいい? それを、ミシェルに、マイケルに、自分の大切な人たちに、尋ねたかったんじゃないかなって。でもみんなもう死んでるから……だからもし、あたしがアンソニーの大切な人で……それを言うのが、あたしでもいいんだったら。
ミカはすみれ色の瞳を見据えた。愛じゃないし、恋でもなかった。結婚もできないし、連れて行くこともできない。だけど…………あたしが受け容れることで、この人を赦し、その後悔を手放させることができるんなら…………ミカは思った。捕らわれても、噛まれても、あたしは何度でも、この人に「いいよ」と答えるだろうと。愛じゃなくても、恋でもなくても…………アンソニーのしあわせを願い、大切に思う気持ちは、ほんとうだから。
「……………………いいよ? じゃああたしも、死ぬまであなたのこと憶えてる」
「…………」
「この痕と一緒に……最期まで、アンソニーのこと憶えてるから」
目の前の笑みが、幼子の泣き顔のようにゆがんでいく。
「じゃあ…………僕はきみの記憶のなかで、きみと21世紀で生きられるのか」
「そうだよ」
「それは…………悪くないね」
潤んだ瞳が近づいてくる。ミカは唇をぱっと手でおおった。
「ごめん。好きな人がいるから……そういうのはだめ」
「そっか。そうだね」
アンソニーは苦笑いして顔をはなし…………頭を下げて、ミカの鎖骨を舌先でなでた。小さな声を漏らして、ミカは顔を火照らせて、思いきり金髪の頭をはたいた。ぱん、といい音が空気を震わせた。
「なっ……なっ……なにやってんの⁈」
「キスしてない。舐めただけ」
「ずっ……狡っ……‼」
アンソニーは笑い声を上げ、愛しそうにミカを見つめた。




