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3-7 過去・未来・過去 -あるいは現在-(下)

 深紅の長椅子から、ぽつりと声が漏れた。


「あいつが選んだ煙管を……見てみたかったな」

「見れるよ」

「……え」

「十年後に、秀人が届けてくれるから」

 アンソニーは目を見開いた。隣でアリトが、窓辺では公爵が、同様にミカを凝視している。ミカは再び、夢の続きを話した。




 事故の翌年、秀人はグランドホテルで働き始めた。まだ十歳になる年で、簡単な雑用を任されるばかりだったが、仕事の飲みこみが早く、英語も覚え、数年後にはレストランの給仕に抜擢された。秀人は身を粉にして、何年も何年も働き続けた。そして十年の歳月が流れた。


 ある初夏の午後、秋本氏がレストランを訪れたのは偶然だった。おしぼりで汗を拭きながら、自分に注がれる給仕の視線に、秋本氏は怪訝な顔をした。秀人はすでに青年となり、あの事故の子どもであるとは、秋本氏には分からなかった。しかし、秀人は彼の顔を覚えていた。秀人は深々と頭を下げた。


「なんと……おまえはあのときの子どもか。ずいぶんと立派な男になったもんだ」

「その節は、大変申し訳ありませんでした。実は……つい最近、クリブデン卿の墓石を建てました。これからもう一度金を貯めて……いつか英国を訪ねて、クリブデン公爵に真相をお伝えするつもりです。あのときは、俺を庇っていただいて……ありがとうございました」


 秋本氏は小さな目を細め、まぶしそうに秀人を見上げた。白い口ひげを撫でつけ、すっかり薄くなった頭を掻いて、照れ隠しのように口をへの字にした。


「まあ……そうだ。時間も経ったことだしな。しかし今から金を貯めたとしても、ずいぶん時間が掛かるだろう。わたしが…………渡航費用を出そう。この夏にでも行ってくればいい」

 秀人は目を丸くして、ぱちぱちと瞬きし、骨が折れそうな勢いでお辞儀をした。

「あっ……あっ……ありがとうございます……っ‼」

「ああ……きみ。それで渡英のときに、渡してほしい物があるんだがね」




 ミカは優しく微笑んだ。


「…………だから十年後、1890年の夏に、秀人がこの屋敷を訪ねてきます。マイケルの煙管は別の袋に仕舞われてて、遺品として送られずに、秋本さんの屋敷に残ったままだったんです。秋本さんが見つけたときには、公爵や公使館とも疎遠になってて、送りそびれて……だから秀人が渡英するとき、アンソニーと公爵に煙管を届けてくれます」


 深く吐きだされた息が、アンソニーのものか、公爵のものか、あるいはその両方であるのか、ミカには区別がつかなかった。アンソニーは長椅子から立ち上がった。片手で顔をおおい、ふらふらと部屋を出ていった。扉が硬い音を立てた。それを合図とするように、公爵は書き物机に両肘をつき、手のなかに額をうずめ、声を震わせた。


「……すまないが。一人にさせてくれるかね」

 扉を開けるミカに、アリトが続いた。後ろを振りかえり、ミカは首を横にふった。

「傍にいてあげて」

「一人にって……」

「いてあげたほうがいいと思う」


 アリトの前で扉を閉めて、ミカは廊下を駆けだした。



 漆黒の夜空に、光の粒が散りばめられている。アンソニーは池の前に座っていた。見えない月を探すかのように、じっと頭を反らしていた。ミカは彼のとなりに座った。先月の夜にも、彼はこうして空を見上げていたのだ。


「…………満月を見る度に、こんな夜に……あいつは異国で死んだんだなって」

「……うん」

「…………だから……泳ぎを練習しろって言ったのに」

「……うん」

「…………まさか……子どもまでつくってたなんて……なんだよ。あいつ……しっかりやることやってたんじゃない」

「……う、うん……まあね」


 アンソニーは深いため息を吐いて、両膝のあいだに顔をうずめた。


「…………なんだよ。僕のこと……嫌ってたんだろうって」

「……最期まで大切に想ってたよ。しあわせを願ってた」

「…………どんなに無念な最期だったろうって」

「……悲しかったけど……しあわせだったよ。美賀子さんと出会えて、愛して……マイケルはしあわせだったよ」


 となりで震える硬い背中に、手をあてた。冷えきった黒いジャケットの上から、彼の背中を撫でさする。アンソニーの両腕がミカにまわされた。胸のなかで嗚咽がもれる。おとなの男が声を上げて泣く姿を、初めて見た。金糸のような髪を撫でながら、ミカは震える背中を抱きしめた。



 書き物机の前で、項垂れて、黙りこくった公爵を、アリトは戸惑うように見下ろしていた。


「……父上。お邪魔でしたら、私は……」

「…………恨まれていると思っていた」

「……父上」

「…………結婚に反対され……異国の地で……私を恨みながら……死んでいったのだろうと…………ずっとそう思っていた」

「……父上」

「…………まさか……子どもを助けるために死んで……最期まで……私のことを気遣ってくれていたとは……」

「……はい」

「…………親が子を想う愛情よりも…………子がくれる愛情のほうがずっと大きい……」


 アリトはおずおずと、震える肩に手をのばした。頑健な肩がびくりと震え、広い部屋に、公爵の嗚咽が低く響いた。アリトは手に力をこめた。公爵の頬を、静かに涙が伝っていった。



 アンソニーを白の間まで見送って、ミカは反対の北棟にむかった。扉を叩くと、アリトが顔をのぞかせた。


「公爵、大丈夫そうだった?」

「ああ。おまえの言うとおり……いてよかった」

「ごめん、夜食もなんもないんだけど。入っていい?」

 扉が大きく開き、ミカは足を踏みいれた。

「あいつは?」

「部屋に戻ったよ。もう落ち着いたと思う」

「……そうか」


 アリトと並んで、いつもの椅子に腰かけた。背もたれに上体をあずけ、アリトは長く息を吐いた。


「……俺が残っても、おまえは帰れる……なんで分かんだ?」

 ミカはメイドキャップを直し、垂れた髪を指でねじった。

「あのね……あたしがこの世界に来たのは、きっとマイケルの想いを伝えるためだと思うんだ。そんでその目的はもう叶えたから……たぶん、あたしは次の満月で帰れるはず」

「……じゃあなんで……」

「なんで……あんたはこの世界に来たんだって?」

「……ああ」

「……心配……したんだと思う」


 眉をひそめるアリトに、ミカは笑ってみせた。


「なんかね、昨日のは夢っていうか……映画観てるよーな気分だったんだ……マイケルが主役の…………あんたが墓地で遠くに行きたいって言ったとき……ああ悲しい、可哀そうだって……マイケルの気持ちが流れこんでくる感じで……あんたが公爵の息子になって、この19世紀で幸せになれたらいいなあって…………マイケルはそう願って、あんたも一緒に連れて来たんだと思う」

「じゃあ……最初から俺はここに残って、おまえは帰る予定だった……ってことか」

「うん。そんな感じ」

「ま……そうかもな。いい奴っぽいもんな、マイケル」

「いい奴だったよ」


 そう口にした途端、ミカは胸が痛くなった。今朝、大切な友人(ほんとはご先祖様だけど)を亡くした気分で目が覚めた。ミカは初めて、アンソニーの悲しみに触れた気がした。


「アリトは?」

「え」

「アリトは……大丈夫?」


 ミカに見つめられ、アリトはせわしなく指先を動かした。きまり悪そうに目を逸らし、首を縦にふった。


「へーき」

「…………じゃないよね?」

 ミカは筋張った手首をつかんだ。観念した様子で、アリトは手を止めて息を吐きだした。

「…………秀人が死ねばよかった」


 手首を強く握りしめ、ミカは首を左右にふった。


「秀人が死ねば……マイケルは美賀子と英国に戻れたのに……秀人のせいで……」

「そんなことないし! 秀人を助けたいって……助けない選択肢もあったけど、それでも助けたいって……マイケルがそう思ったんだよ」

「……ばかな奴。見捨てればよかったのに……そしたら……」

「そしたら…………あんたとは出会えなかったよ、アリト」


 目頭が熱くなる。頬に滴がこぼれていった。


「俺は……ちゃっかり公爵の息子におさまって……あいつは……秀人を助けるために死んで……なんで……俺は……俺の…………俺の先祖が……秀人が死ねば、マイケルは生きてここにいたのに…………俺なんて……生まれなくてもよかったのに……」

「やだよ」

「…………」

「マイケルには……悪いけど。秀人が助かったからあんたがいて……じゃないとあんたに出会えなくて…………そっちのほうが、あたしはやだ」

「……おまえ、ほんとは公爵家の娘になれてたのに」

「そんなのどうでもいいし」

「満月の墓参りの意味も、墓の由来も……なんも聞いてなかったんだ。いつか教えるつもりだったのか……時代が変わるうちに意味は忘れられたのか……分かんねえけど」

「うん」

「俺も…………おまえに会えて良かったって……思ってる」

「うん」

「生まれてきて……良かったと……思う」

「うん」

「…………良かったのかな」

「良かったんだよ」


 ミカは目元を拭い、めいっぱい笑ってみせた。泣き顔のような笑みを返されて、ミカはたまらず手をのばし、黒い頭を撫でさすった。のどを鳴らす猫のように、金の瞳が細くなる。どちらからともなく、顔を近づけて、気づけば唇が重なっていた。

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