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1-2 ミカ、奪われる(下)

 隣のベッドから、アリスの寝息が聞こえてくる。

 白いペンキが塗られた天井は、暗い灰色で、月明かりが漏れて光の線を描いていた。ミカはベッドから下りて、カーテンをめくった。使用人部屋は屋敷の一階にあり、窓は南側に面している。月光がまぶしい。胸元から懐中時計を取りだして、鍵を巻いた。針の音に耳をすませる。カーテンを戻して、毛布を身体に巻きつけ、そろそろと部屋を抜けだした。


 使用人用の扉を開けて、中庭から建物のアーチをくぐる。芝生を踏みしだいて、池に近づいた。

 ミカは足を止めた。


 夜空に星が瞬いていた。イルミネーションの豆電球みたいに、ちらちらと点滅を繰りかえす。月のまわりに黄金色の輪が重なって、黒い空との境目が青緑色にぼやけて見えた。森はざわざわと梢をゆらし、丘は深緑色の海原のようだった。池は光の波紋が道となり、水面に屋敷が沈んでいた。

 遠くでフクロウのような鳴き声がする。風が吹く度に、低い葉擦れの音が響きわたる。


(……おとぎの国だ)


 ミカは口を開いた。息がもれて、白く漂いすぐに消えた。

 幻想的な景色のなかに、ひとりの青年が立っていた。

 池の前で、ミカに背を向けている。

 金髪が光を纏いなびいている。

 すらりとした体躯が黒いコートに包まれている。

 足元で草が鳴り、青年がこちらを振りかえった。


(……王子様だ)


 すみれ色の目が輝き、白い肌が光に縁どられている。端正な顔立ちは、笑うと人懐こさが露わになった。


「きみはだれ?」

「……メイドです」

 声まで、とろけそうに甘い。

 王子様みたいな青年は、一歩一歩、ミカに近づいてくる。

「いつから働いてるの?」

「一昨日からです」

「つい最近だね」

 まるで恋人にむけるような甘いまなざし。

 愛しそうにミカを見つめている。

「名前は?」

「ミカ……です」


 青年はもう目の前にいた。

 あ、と思ったら、腕のなかに閉じこめられる。

 冷えたコートの隙間から、ラベンダーの香りがした。

 耳元に温かい息がかかる。


「ミカ、結婚しようか」

 顔を上げたら、両頬に手をそえられた。

 包むようになぞられて、くすぐったい。

「え……?」

 甘く整った顔が、目の前に。

 言葉の意味を考えるより先に、

 冷やりとした鼻先がふれ、吸いつくように頬がふれ、それから。

 唇を重ねられた。


(……あれ。これもしかして19世紀英国風の乙女ゲームの世界で、あたしタイムトラベルじゃなくて転生しちゃった?)


 それもアリだなあ。

 そういや、ミスター・ホワイトリーも、クリブデン公爵も、それに見た目だけならアリーも、イケメンだもんなあ。あ、公爵はイケオジだな。

 ああでも死んじゃったらお母さん悲しむかなあ。

 …………悲しむかなあ。

 頭のなかを、どうでもいい思いが浮かんでは消えていく。

 あ、これ知ってる。

 なんだっけ。

 そうだ。

 お醤油が切れたときに食べたマグロの刺身とか。

 タレを混ぜる前につまみ食いした馬肉のユッケとか。

 うん、そんな味。


(…………味?)


 どん、と青年の胸を思いきり突き飛ばした。

 芝生に尻餅をついて、青年が目を丸くしている。


「へっ……へっ……変質者っ‼」

「変質者って……どこに?」


 きょろきょろと周囲を見まわす青年の頭を、ぱんっとはたいた。


「は? 僕? なんで?」

「おっ……乙女ゲームの王子は……っ、初対面で舌を入れたりしませんっっ‼」

「乙女ゲーム? 乙女がいっぱいなの? なにそれ楽しそう」

「ちがーーーう‼ あんたじゃなくて、乙女がイケメンと楽しむのっ‼」

「楽しんでたじゃない」

「は……初めてだったのに……」

「へえ、ファーストキスなんだ。じゃあ一生忘れられないね」


 青年がにやりと意地の悪い顔をした。

 ミカが手を振り上げると、今度は素早くかわされた。



「アンソニー様。お荷物はすべて正面玄関に運びました」


 二人のそばで男性の声がした。

 アンソニーと似た、黒いコートを身にまとっている。

 ホワイトリーと同じ年頃に見えた。


「ありがとう、ラチェット。急にすまなかった。来た馬車で戻っていいよ」

「いえ、せっかく参りましたので。このままお世話させていただければと」

 ラチェットは上目遣いでミカを見た。

 え、なんで?

「ほんとに戻ってくれていいんだけど……まあいい。きみはこの屋敷を訪れるのは、初めてだったね?」

「はい」

「なら問題ないか……じゃあ今夜は馬車を預けて、厩舎に泊めてもらってくれ」

「アンソニー様は……」

 ラチェットはちらりと頭上に視線を投げた。

 三階の窓辺でランプの炎がゆれている。

「そういうことだ」

「かしこまりました」


 ラチェットは慇懃に礼をして、ミカに笑みをむけた。


「美しい花が咲いていますね」

 ミカは足元に目を落とす。

 花? この芝生、花なんて咲いてたっけ?

「ラチェット、よその家の子に手を出すんじゃないよ」

「なにを仰いますやら」

 うん? 花? あたし?

「……きざ」


 勝手に口が動いてしまった。

 ラチェットの笑みが深くなる。


「花はいつか手折られるものでしょう。美しい花なら、なおのこと」

 ぞくりとした。細面の顔は女性に好まれそうで、口調は礼儀正しくて、隙のない笑顔を浮かべている。なのに。陰鬱な空気が伝わってくる。

「この手で手折ってみたいものです」

「……きも」


 月明りのなかで、ミカはぼそりと呟いた。

 ラチェットは意味が分からないようで、にやにやと笑い続けていた。



 結局、眠れないまま朝を迎えた。


 三階の客用寝室で、ミカは暖炉の灰をかき出していた。あのピンクのドレスの上に、ごわごわした厚地のエプロンを着けている。午後の制服と違って味気ない、実用性重視のスタイルだ。汚れるからね。火格子をピカピカに磨いて、石炭を足してマッチを擦った。石炭が赤く染まっていく。うん、軽い達成感。それから部屋中に散った煤を掃いて、絨毯をたたいて、最後に家具の埃をはらった。部屋を出て手を洗ってから、エプロンを取り替える。三階に戻って、今度は枕と布団をソファに移動させて、シーツを剥がしてベッドマットを外した。羽毛たっぷりのマットレスをぽんぽん叩いて形を整える。清潔なシーツを広げて、埃を落とした布団をのせて、カバーを替えて枕をおいた。はい、ベッドメイキング完了。


 窓を閉めようと立ち上がったら、くらっとめまいがした。

 ああ、やっぱり寝不足。頭に靄がかかったみたいで、ぼんやりする。

 ベッドの柱を掴んでじっとしていると、扉の開く音がした。

 まずい。お客さんが戻ってきちゃった。

 とはいえ、立ちくらみで動けないから、とりあえず目線を下げてみる。

 下げてみた。

 下げてみたけど。

 いつまで経っても部屋に入ってくる気配がない。

 ミカはそっと視線を上げた。


(……あ、だめだこりゃ)


 一組の男女が、扉の陰でぴたりとくっついていた。

 あの。

 存在してないってもね。

 存在してますから。

 人の前でいちゃこら止めてください。

 深呼吸をくり返すうちに、動けるようになって窓を閉めた。

 背中に女性の声がかかる。


「あら、まだメイドがいたの」

「申し訳ありません。すぐに退出いたします」


 道具を入れたカゴを手に、ミカは目礼して部屋を出ようとした。

 女性が扉の前に立ちふさがる。

 いや、なんで?

 ひんやりと硬い感触が、ミカのあごに当たる。

 くい、と上を向かせられた。

 扇の先をミカに当て、女性がミカの顔をのぞきこむ。


「あなた、名前は?」

「ミカと申します」


 女性が目を見開いた。


「まあ……聞きまして、アンソニー?」

 彼女が振り返った先には、昨夜の青年がいた。

 そう、昨夜ミカに結婚しようとか口走ってキスした挙句忘れられないねなんてほざいた変質者王子様が。さっきまで他の女性といちゃこらと。いつか刺されるんじゃないかな、この人。

「ほら、アンソニー。ご覧なさいな」

 うん、見世物じゃないけどね。

 アンソニーが優雅な足どりで近づいてくる。

「あなた、この子を知ってらして?」

「いえ、初めて会うメイドですね」


 完璧な王子様スマイルを向けられた。

 うわあ。

 昨夜のアレはなんだったの⁈

 って頬を叩くドラマの女の人の気持ちが分かったぞ、いま。


「わたくしはエリザベス。公爵の義妹なの。彼はミスター・アシュリー。息子の級友よ。あなたのこと気に入ったわ。今度ゆっくりお話ししましょうね……かわいい子猫ちゃん」


 爪の先で、つ……と頬をなぞられる。

 ぞわっと鳥肌がたった。

 猫なで声の優しい言葉。

 だけど、目。

 目が全然笑ってない。

 うう、怖い。

 そっと隣を盗み見たら、アンソニーの鉄壁の笑顔があった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 急展開楽しいです。ちょっと笑っちゃいました。
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