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3-7 過去・未来・過去 -あるいは現在-(上)

 その浜は、本牧ほんもくの遊歩道から数十分離れた場所にあった。空が白み始める頃、村の男が砂浜に横たわる子どもを見つけた。コートに包まった子どもは、男の呼び声で目を覚まし、ぶるぶると震えながら、おにいさんが、おにいさんが、と小さな指を海にむけた。途切れ途切れの子どもの声に、辛抱強く耳を傾け、男は次第に真っ青になった。この子どもを助けるために、居留地の外国人が海に入ったらしい。


 コートの縫い取りから、その外国人が、クリブデン卿であることはすぐに特定された。グランドホテルから公使館と秋本氏に連絡がいき、ただちに捜索が開始された。医師の見立てでは、子どもは冷えによる衰弱が見られるが、命に別状はないという。ロビーのソファで、子どもは毛布に包まっていた。自分の前に立つ美賀子を見上げ、子どもはみるみる涙を湛えた。美賀子の目は赤く染まり、顔色は死人のように蒼白で、美しくも鬼気迫る形相であった。「なぜ……なぜ……海などに……」掠れた声が絞りだされ、美賀子は手を振り上げた。子どもはぎゅっと目をつむった。美賀子は手を振り下ろし…………その手で子どもを抱きしめて、彼の肩に頬をのせ、声を出さずに泣いた。


 海には何艘もの小舟が浮かんでいた。最初に到着したのは、秋本氏と前田氏だった。秋本氏は海を見てうめき声を上げ、両手で顔をおおった。捜索隊の長が来て、捜索は続けるが潮の流れが速く、すでに五時間近く経っており、生存は絶望的であると告げた。秋本氏は声にならない声を漏らした。浜には美賀子がひとり立っていた。前田氏は彼女に近づいて、その頬を叩いた。


「秋本さんからご連絡いただいた。おまえがこんなに愚かだとはな……たかが買われた子どものくせに。父に可愛がられていたからと、私を馬鹿にしているのだろう」

「そのようなことはございません」

「さっさと戻れ。婚姻の準備をする」

「まいりません。捜索が終わるまで、ここに残ります」

「この……我儘をっ!」


 美賀子は一歩からだを引いて、懐剣をのどに押しあてた。


「ここを離れるぐらいなら、この場で自害いたします」

「ば……馬鹿なことを……」


 行き場をなくした手を、開いたり閉じたりしながら、前田氏は立ち尽くしていた。秋本氏はふたりの様子を眺め、前田氏に耳打ちした。


「前田さん、こんな最中の婚姻は縁起も悪いでしょう。この女性には二、三、事情も伺いたい。また日を改められてはいかがですか。彼女は責任もって送り届けます」

「う……む。まあ……」


 不満そうに美賀子を睨み、前田氏は、一足先に東京に戻った。




 秋本氏は、関係者たちに「子どもはいなかったことにしろ」と厳命した。


「たかが漁村の子どもを助けるために、公爵家のご子息が亡くなったなどと……どんな問題に発展するかもしれぬ。クリブデン卿は悪天候のなかを散策されて、足を滑らせて海に落ちた。公使館と公爵には、そう報告する……ほんとうに……なんと愚かな子どもだろう」


 秋本氏に睨みつけられて、子どもの目に涙があふれた。村の男が庇うように、子どもの前に進みでた。


「この子は半年前に父ちゃんが死んで、先月に母ちゃんも死んだんでさあ。あんまり気落ちするもんだから、村のもんが気慰めに、満月の夜に海に行ったら、母ちゃんがあの世から手を振ってくれるってえ……ぽろっとこぼしちまって。でもまさか、あんな嵐の夜に海に入るなんてなあ……悪いのは村のもんで、この子じゃあないんでさ。すんません、すんません。ほんとうにすんませんなあ……」


 村の男は、床に額をこすりつけた。ホテルの赤い絨毯に、男の油ぎった髷から数本の髪が垂れ落ちた。男の背後で、子どもは震えながら頭を下げた。何度も、何度も。か細い声で、ごめんなさい、ごめんなさい、と繰りかえした。秋本氏はふたりを一瞥すると、ふんと鼻を鳴らして背中をむけた。彼は独り言のように、ぼそぼそと声を漏らした。


「…………せっかく助かったんだ。公爵や公使館から万が一、責めを負わせられたら……その子が可哀そうだろう」




 捜索は二日後に打ち切られた。遺体は遂に見つからなかった。マイケルの遺品は船便で英国に送られた。しかしその船もまた、嵐に遭って海に沈んだ。クリブデン公爵家には、彼の遺体も遺品も、なにひとつ届きはしなかった。公爵は、遺体のない空の棺を、墓石の下に埋めるようにと指示した。



 前田氏の屋敷に連れ戻されてから、美賀子はずっと臥せていた。毎日のように町田が見舞いにやってきた。秋本氏の名代であると言われれば、無下に断ることもできず、前田氏は渋面をうかべながらも部屋に通した。美賀子はぼんやりと宙を見つめ、ひと言も喋らなかった。町田はいつも、障子の前に胡坐をかいて、一昨日の雪で神田明神に見物客が集まったらしい、今朝は上野公園でずいぶん高い凧が上がっていた、などと、とりとめもない話を彼女に聞かせた。それからひと月が過ぎた。


 その日はめずらしく、美賀子は町田に視線をむけた。相槌をうち、ときには笑顔さえ浮かべてみせた。数十分ばかり話してから、町田は玄関をあとにした。

 陽が沈み、町が暗闇に塗り替えられた時分のこと。千駄木の屋敷では、勝手口が静かに開いた。風呂敷包みを提げた女は、木戸を通りぬけ、小さな悲鳴を上げた。


「……どうして」

「……いつもと様子が違って見えてなあ。どこに行く? 美賀子」


 塀から身を起こして、町田は煙管の灰を地面に落とした。切れ長の目が、にこりともせず美賀子を見つめていた。


「…………子どもができました」

「…………あいつの子か?」

「他に誰がおりましょう」

「……どうするつもりだ」

「産みます」

「どこで」

「この屋敷を出て……どこか居留地のそばで」

「旦那はどうする? 一人で育てるつもりか? 無理だぞ」

「……公娼でも私娼でも。必要とあらば……この身を売ります」

「……秋本さんに事情を話せば、公爵と連絡が取れるだろう。ひとり息子の忘れ形見だ。喜んで育ててくれるだろうよ」

「絶対に申しません」

「……なんで」

「子どもが生まれたと御耳に入れば、公爵様はきっと引き取られることでしょう。そうすれば……あたしは二度とこの子とは会えません。あの人が遺してくれた時計とこの子は……絶対に、手放したりいたしません」

「……まあな。子どもは引き取っても、おまえを連れて行きやしないだろうな」


 町田は通りの奥に目をむけた。どこからか、人力車の車夫の声や、かすかな下駄の音が聞こえてくる。その目は、どこか遠くを眺めているようだった。


「…………おれが父親になろう」

「…………え」

「おれが、おまえの子どもの父親になる」

「……認知なさるということですか?」

「……いや。おまえと結婚する」

「…………」

「…………」

「あたしは……あなたに…………あなたは……あたしを…………」


 美賀子の言葉は途切れ、唇をかんでうつむいた。


「おまえが産むのは、あいつの子だけだ」

 美賀子の顔がはっと上がった。

「おれは一生、おまえには手を出さない」

「……だけど……それでは……あまりにも……あなただけが……」


 美賀子と目を合わせ、町田は泣きそうな笑みをうかべた。


「ま、言ったからなあ? 一緒になったら祝ってやるって。祝ってやるよ。おめでとう、美賀子。マイケルとおまえの子どもだ。よかったな」


 美賀子はその場にくずおれて、小刻みに背中を震わせた。涙がぽろぽろと、黒い地面に吸いこまれていく。町田は目元をこすり、その場に屈んで、優しい手つきで背中をなでた。




 美賀子との結婚を町田が告げると、秋本氏は烈火のごとく怒りだした。三女との婚約を反故にして、これまでの恩も忘れてと、秋本氏が息巻いたのも無理はない。町田は屋敷を去り、資金援助のあてもなくなり、東大を中退した。秋本氏と前田氏から逃げるように東京をはなれ、ふたりは横浜に移った。居留地のそばの長屋で暮らし、町田は通訳や翻訳で日銭を稼いだ。やがて秋になり、子どもが生まれた。美賀子によく似た、黒髪に黒い瞳の可愛らしい男児だった。美賀子はほっとしたような、でも少し淋しそうな顔をした。




 明治も終わりに近づいた頃、美賀子の息子は嫁をめとった。嫁は身ごもり、女児を産んだ。生まれた赤子を見た嫁は、動転して金切り声を上げた。嫁か赤子に何事かあったかと、息子と美賀子は部屋に駆けていった。


「ちがうんです‼ あなた……お義母さま……わたし、わたし……あなたを裏切ったことなど一度も……‼」


 産婆が抱いているのは、栗色の髪と空色の瞳をもつ、愛らしい赤子だった。まるでこの横浜を行き来する、外国人が連れているような。息子は嫁と赤子を交互に見やり、困惑の表情をうかべた。美賀子は産婆から赤子を受け取った。老いてもなお美しい、その大きな瞳に涙があふれた。


「ミカ…………」


 孫娘を抱きしめ、涙を流す美賀子を、嫁と息子は黙って眺めていた。障子が開き、町田が顔をのぞかせた。血の繋がらない息子とその嫁、それから自分の妻、そして妻の腕に抱かれた赤子を見て…………町田は懐かしむように目を細めた。美賀子は嫁と息子に語り聞かせた。これまで一度も打ち明けたことのない、息子の出生の秘密を―――。



 その赤子-美賀子の孫娘-は、ミカと名付けられた。マイケルの存在は、美賀子の息子と嫁の心に留められ、子孫たちに語り継がれることはなかった。町田の子を生さなかった美賀子の、せめてもの夫へのけじめであろう。元号は大正となり、デモクラシーの言葉が持て囃され、洋装の男女が街を歩き、百貨店やカフェを街角で見かける時代になってもなお、ミカの容姿は人びとの好奇の視線を浴びた。幼いミカは、級友や見知らぬ通行人から揶揄われると、いつも祖母-美賀子-の膝元に駆けこんだ。孫娘のやわらかな栗色の髪を撫で、美賀子は優しく言い聞かせた。


「あなたはなんにも恥じることはないの。その栗色の髪と空色の目は、天国からの贈り物です。堂々となさい、ミカ。自分を卑下せず、虐めないで。自分を誇り、大切にして。いつも胸を張りなさい」


 大好きな祖母の言葉を糧に、ミカは美しい少女に成長した。いつも顔を上げ、笑顔を絶やさず、毅然とした少女の姿に、人びとは好奇の目から次第に憧憬のまなざしを向けるようになった。太平洋戦争が始まった年、ミカは娘を出産した。




 心優しい夫は、徴兵されて戦死した。終戦後、ミカは東京に移り、働きながら娘を育てた。その娘は自分の母親-美しい栗色の髪と空色の瞳をもつ-を誇りに思っていた。娘は母親に似ず日本人らしい容姿で、幼い頃は不満気であったが、元来さっぱりとした気性であったので、いつまでも悩んだりはしなかった。母親-ミカ-は娘に懐中時計を見せた。金色で重みのある立派な時計は、母親の祖母-美賀子-から譲られた物であるという。


「もしあなたの子どもが、あたしと同じ容姿だったら、ミカと名づけてね。それからこの懐中時計を渡してちょうだい。それが、美賀子お祖母さまの遺言なの」




 あさま山荘事件の年に、ミカの娘は女児を産んだ。彼女とよく似た容姿の赤子に、娘は少しだけがっかりしたが、すぐに気を取り直し、我が子に愛情をたっぷりと注いだ。板前の夫は酒に溺れ、遂には職場の酒を盗んでクビになった。彼女は夫と別れ、女手ひとつで子どもを育てた。


 子どもは看護師となり、サラリーマンの男と出会って結婚した。時代はすでに、21世紀を迎える直前だった。彼女は妊娠し、女児を出産した。生まれた赤子を見て、男は妻の浮気を責めて、病室で離婚届を突きつけた。栗色の髪と空色の瞳をもつその子どもは―――祖母により、ミカと名づけられた。




 中学生のミカが髪を黒く染めたとき、祖母は悲しそうな顔をした。戦時中であっても堂々としていた彼女の母親(ドイツ語が堪能であったため、命の危険を感じることは少なかったようだ)を思い出していたのかもしれない。彼女はミカに、ミカの曾祖母-もうひとりのミカ-の話はしなかった。ミカの母親が少女の頃、「お祖母ちゃんは、本当は外国人の血が混ざっているんでしょう。きっと誰かが浮気したんだわ」と言い張って、ふたりは喧嘩した挙句、ミカの母親と祖母の間で、その話題は禁句となったのだ。ミカの祖母は、大好きな母親-もうひとりのミカ-との思い出を、誰にも傷つけられたくなかったのだろう。


 そして月日は流れ、祖母は遺言で、ミカに懐中時計を譲り渡した。隠し蓋の鍵は、二度の戦争のどこかで紛失していた。祖母の葬儀の夜は、満月だった。ミカは電気を消してカーテンを開いた。


「すご……昼間みたい」


 スマホで鍵の巻き方を調べ、その通りに巻き上げた。コチコチと時計は音を立てて……やがてミカは意識を失った。




 同時刻、ひとりの男子高校生が墓地にいた。黄金色の光が注ぐなか、花を手向け、碑銘を指でなぞり、冷たい墓石に額をつけた。

「マイケル・サザランド。おまえはどうしてこんな遠い異国で死んだんだ? でもそうだな……俺も…………どっか遠くに行きてえな」


 彼は夜空を見上げた。黄金色のまるい月が輝いていた。




 こうして満月の夜、懐中時計は巻かれ、時はさかのぼった。



「…………それで、あたしは気づいたら、この屋敷の芝生のうえに寝てたんです」


 昨夜の夢を語り終え、ミカは口を閉ざした。暖炉の火の粉がぱちぱちと爆ぜている。他に耳に入るのは、三人の男の息遣いだけだった。公爵は書き物机に片肘をつき、アンソニーは絨毯を見つめ、アリトは胸の前で腕を組んでいた。誰もひと言も声を立てなかった。ミカは金色の瞳にちらと視線をやった。アリトが21世紀の人間だとは話さなかった。


(……この世界で生きてくんだから。正体はばらさない方がいいよね)


 金色の瞳がミカをとらえた。ミカをじっと見つめ、彼が口火を切った。


「その子どもの名前は?」

「……どの子ども?」

「マイケルが海で助けた子どもだ」

「……………………秀人ヒデト


 ミカは小さく呟いて、アリトから目を逸らした。

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