3-6 明治11年・後編(下)
今話・次話は、詳細な描写はできるだけ控えておりますが、海難事故に関する場面を含みます。
「入籍が決まりました」
「……いつ」
「明日」
「……誰と」
「前田様が決めた御方と……あたしを妾にと」
美賀子の黒髪は乱れ、肌は病的なほど白かった。唇は雨に濡れ、ことさら紅く見えた。ぼくはガウンを脱いで、彼女の全身を拭いた。トランクを持ってきて、必要な物を詰め、コートを羽織った。美賀子にもコートを羽織らせて、それから……彼女を残して部屋を出た。
廊下の端の扉を叩いた。少しの間のあと、町田が顔をのぞかせた。ぼくの様子を察して、彼は軽口も叩かず、鋭い目でじっと見すえていた。
「美賀子がきた。明日入籍させられるって……彼女を連れて横浜にいく」
「横浜はもう日本の行政権が回復してるぞ」
「うん、一旦横浜にでて……それから神戸に向かうかも。先のことは移動しながら考えるけど……しばらく会えなくなると思う」
「そうか……」
町田は淋しそうな顔をして、手を差しだした。
「気をつけて。二人とも元気でな」
「ありがとう。町田……きみと知り合えて嬉しかった」
「おれもだ、マイケル」
「ミカ。って呼んでくれないか。ぼくの親しい人たちは……そう呼びかけてくれるから。もし……その……きみがよければだけど」
町田は握った手をはなして、ぼくを見て、にやりと笑った。
「元気でなあ、ミカ!」
ぼくの背中を威勢よく叩いて、扉が閉まるまで、町田は笑顔で見送ってくれた。
◆
ぼくたちは人力車に乗って、横浜に向かった。途中で何度か車夫が交代して、居留地に着いたのは夜も深まった頃だった。20番地のグランドホテルに部屋を取った。窓からは海が見渡せた。雨が滲みこんだ服を脱いで、からだを拭いて、木綿の浴衣に着替えた。
美賀子は唇の色を失い、小刻みに震えていた。布団にくるまり、ぼくは美賀子を抱きしめた。彼女は氷のように冷えきっていた。
「なにもしないから」
「……なにもしないんですか」
「…………してもいい?」
この夜、ぼくは美賀子を抱いた。
◆
暗い部屋に美賀子の寝息が響いていた。ふれた頬は温かだった。ぼくは眠れずに、ベッドを抜け出してコートを羽織った。彼女に口づけて、額に垂れた黒髪を撫で、扉を静かに閉めた。雨はもう止んでいた。風が激しく吹きつけ、ごおごおと耳に刺さった。居留地を出て、ぼくは海沿いの遊歩道を歩いた。
これからどうしようか。朝になったら神戸に向かうか。それともこのままホテルに滞在して、前田さんと交渉しようか。彼は外国人が嫌いだから、金銭だけでは片付かないだろう。とはいえ、ぼくに手を出せば国際問題になる。暴力沙汰にはしないだろう。妾といっても美賀子の同意は必要なはずだ。だけど彼女が断れば、前田家を追い出されるだろうし、仕事にも手を回されるだろう。秋本さんは協力してはくれないだろうし。どこかに住まわせて、ぼくが面倒を見るか。でもその後はどうなる? いっそ留学を切り上げて、このまま英国に連れて帰ろうか……それなら、まずは彼女を無事に出国させなければ。日本政府との交渉が必要になるだろう。それに父さん。父さんを説得しなければ…………。
気づけば遊歩道は途切れ、どこかの海辺を歩いていた。切り立った崖に囲まれた、うら寂しい浜だった。波が打ち寄せる度に、低い轟音が浜にひろがった。まるで世界中で、ぼくだけが息をしているような気分だった。
もう帰ろう。ぼくは来た道を引き返そうとした。そして、ぼくは見てしまった。
波のなかに、人影が。
幼い子どもが溺れているのを。
ぼくはその場から動けなかった。
海は荒れ、波は高かった。
黒い波のなかで、子どもの頭が見え隠れした。
ぼくは周囲を見まわした。
もう一時間以上歩いている。居留地は遠く、遊歩道からも離れ、村の明かりも人影も見あたらない。戻って、誰か人を連れてくれば……その間に、あの子どもは海に沈むだろう。
全身が震えだした。寒さのせいじゃない。ぼくは……泳ぎは苦手なんだ。
父さんの顔が頭にうかんだ。
公爵家の跡取り息子であることを、第一に考えろ。父さんならそう言うだろう。人助けは、自分の責任が取れる範囲でしろと。もしも父さんがぼくだったなら……きっとあの子どもを助けない。
アンソニーの顔が頭にうかんだ。
愛する女のことを一番に考えろ。彼ならそう言うだろう。美賀子を連れ出したのなら、最後まで責任を持てと。もしもアンソニーがぼくだったなら……きっと美賀子を優先する。
だけど、ぼくは見てしまった。
もう見てしまったんだ。
このまま…………見なかったことにしてしまおうか。
見なかったことに…………してしまいたい。
ぼくが海に入っても、助けられる可能性は低い。
ぼくは泳ぎが苦手なんだ。
きっと二人とも海に沈んでしまう。
だったら、見なかったことにして。
ホテルに戻って、前田さんと交渉して、父さんを説得して、いずれ美賀子を英国に連れて帰って…………何事もなかったかのように。
すればいいじゃないか。
……………………だけど。
そうしたら、ぼくはもう以前のぼくではいられない。
ぼくが見捨てた子どもを、きっと一生忘れられない。
あの子どもを助けられるのは、世界中でぼくだけだ。
たとえ可能性は低いとしても……ぼくが助けなければ、あの子どもが助かる可能性は、ゼロだ。
父さんは、ぼくを許してくれるだろうか。
アンソニーは、ぼくに呆れるだろうか。
美賀子は、ぼくを恨むだろうか。
ぼくは夜空を見上げた。
風に運ばれ雲が流れて、ふと厚い雲が途切れたと思ったら、まるい月があらわれた。
満月だった。
母さんがくれた金の懐中時計が浮かんでいるようだ。
ぼくはコートのポケットに手を入れた。
ハンカチに包まれた、母さんの写真と髪の毛を胸元にしまった。
コートと靴を脱いで、浜に置いた。
ぼくは海に入った。
◆
子どもはぼくにしがみついてきて、暴れて藻掻いて、ぼくたちは波をかぶって海に沈んだ。黒い水のなかで、どちらが底でどちらが上かも分からない。ああ……やっぱりだめだった。ぼくもこの子も、このまま溺れてしまうのか。子どもを抱きしめて顔を上げたら、ひと筋の光が射しこんだ。黒い天井に、金に輝く波紋が舞っていた。ぼくはその光を目指して、水を蹴った。海面から顔を出すと、雲間を月が照らしていた。
風に折れた細い流木が、視界に入った。ぼくは片手でそれを掴んで、子どもを押し上げた。二人は無理だが、この子だけなら、束の間でも浮かせてやれそうだ。高い波が押し寄せてきた。ぼくは流木を浜にむけて、力いっぱい押しやった。子どもが波に押され、浜にむかって遠ざかっていく。がんばれ。助かれ。助かれよ。子どもの残像に声をかけながら、ぼくは波のなかに沈んでいった。
……………………美賀子、すまない。
どうか無事に生きて、しあわせになってほしい。
どんなかたちでもいい。
きみがどんな人生を送るのか、
最期まで見守られたらいいのになあ。
そして。
……………………誰か、伝えてくれないだろうか。
父さんに。
アンソニーに。
大切に想っていると。
しあわせを願っていると。
たとえ短い人生でも、
この国に来て、愛するひとと出会えて、結ばれて、
ぼくはしあわせだったと。
だから悲しまないでくれと。
どうか…………見守らせて。
だれか…………伝えて。
……………………くれないだろうか。
頭上に月が輝いて見えた。
もうあそこまでは泳げない。
ぼくは意識を失う直前まで、まるい金色の月を見つめ続けた。




