表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/46

3-5 明治11年・前編(下)

 それから一週間が過ぎた。日本に来てから、十日目の朝。ぼくは今、情けない気持ちでいっぱいだ。旅先では、その国の食事を楽しむものだとぼくは思っている。西洋の料理は英国で楽しめばいい。東洋まで来てこだわるなんて、せっかくの旅がもったいないよ。ああ、ぼくはそう思っていたはずなのに……。


「クリブデン卿。最近浮かないお顔ですな。なにか不都合がおありでは……」

「いえ、いえ! とんでもない。なにも不都合など……!」


 血の滴るような牛肉のステーキ。

 皮がパリパリのうずらのロースト。

 バニラのアイスクリーム。

 …………深煎りのブラックコーヒー。


「もしお加減が優れなければ、医師を呼びましょうか?」

「いえ、秋本さん、ほんとに大丈夫です! 少しだけ……」

「少しだけ?」

「ええと……そう。ホームシックで」

「へええ。お国に帰りたいんですか」

「いや、そういうわけじゃないんだ。ただ……その……」


 ぼくは食卓を見下ろした。白いライスも、カレイの煮つけも、ほうれん草の和え物も、ワカメの吸い物も、とても美味しい。美味しいんだけれど……。


「……肉が」

「肉?」

「……バターが」

「バター?」

「ははあ、なるほど。マイケル、あんた、洋食が食べたいんだろ」

「……うん」

「ああっ……! それは申し訳ありません。わが家は日本人の料理人で……そのう、彼は西洋料理には疎くてですな」

「いえ! ぼくの勝手なわがままなので」

「精養軒に行きましょう」

「ふむ……精養軒か……」

「せいよう……けん?」


 秋本さんとぼくの視線を浴びて、町田はにっと笑った。


「そう。秋本さん、いいでしょう? 今晩、マイケルを精養軒に連れて行っても」

「ああ……まあ……そうだな。あそこなら、クリブデン卿もご満足なさるかもしれない。今夜はわたしは予定があるから、きみが二人分の予約をしておきなさい」

「あの、せいようけんって?」

「まあまあ。行けばわかりますよ」


 町田は湯飲みをのぞき、あ、茶柱が立った、と笑みをうかべた。



 精養軒は、上野公園の不忍池しのばずのいけの近くにある。二年前に開業したばかりの、本格的なフランス料理のレストランだという。築地にあるのが一号店で、そっちは六年前にできたらしい。夜の公園を歩いていると、満月を背にして、二階建ての洋館があらわれた。


 ランプの灯る玄関をぬけ、グリルルームに案内された。テーブルは白いクロスで覆われて、一輪挿しに青いアイリスが飾られている。革張りの椅子に腰かけ、メニューを眺める。店内には、バターや肉の焼ける芳しい匂いがする。ぼくは思わず顔をほころばせた。


「ビーフシチューって美味いのか?」

「美味いよ」

「ステーキは?」

「美味いよ。牛肉は好き?」

「さあ? 大学の連中と一回、牛鍋を食ったきりだから。あの時はそんな味わう感じでもなかったし。秋本さんは洋食が苦手だから、あの家でもまったく出ないだろ」

「そっか。苦手なんだ」

「なあ。あんな家建てといてな」


 にやり、と笑う町田に、なんと返していいか困っていたら、給仕がテーブルの横に立っていた。ぼくは注文をしようと顔を上げて……そのまま固まった。英国の屋敷によくいる、メイドのような女性だった。黒いドレスに白いエプロン姿。違いといえば、頭にキャップではなく日本髪がのっていることぐらい。


「お決まりでしょうか?」

「どうする? マイケル」

「へっ?」


 ぼくは給仕と町田の顔を、交互に眺めた。メニューからいくつか選んで、注文を告げた。給仕はにこりともせず、注文を復唱して、店の奥に消えていった。町田が訝しげにこっちを見つめている。


「あの女がどうかした?」

「いや……」


 ぼくは彼女が消えた先から、目が離せなかった。

 黒曜石に似た、大きな瞳。

 かたちのいい鼻と、しなやかな眉。

 熟れたように紅い唇。

 早朝の雪を思わせる肌。

 そして、凛とした、わずかに愁いのある面立ち。

 美しいひとだった。

 ほんとうに、美しいひとだった。




 料理はどれも絶品だった。なかでも澄んだコンソメスープは格別だ。牛肉はもちろん、アスパラガスも、カラントワインのシャーベットも、久しく口にしていないものばかりだった。でも……ぼくはその感動的な料理の数々よりも、それを運んでくる彼女の手に釘づけになっていた。白くて、たおやかで、繊細な動きをする美しい手だった。


「なあ? どうしたんだ?」

「えっ?」

「心ここに在らざれば……料理もおれも、目に入りませんかねえ」

「や、あの」

「きれいな女だよなあ。でもあんたは、自分のお国で美しいご令嬢なんて山ほど見慣れているでしょう」

「……あんなに美しいひとを見たのは、初めてだよ」

「へええええ」


 揶揄いを含んだ声音に苛ついて、ぼくは町田を睨みかえした。

 彼女は最後にコーヒーを運んできた。ぼくは何もできず、ただ間抜けな顔をして、黒い水面をゆらす白い指先を見つめていた。銀のトレーを抱えて礼をする彼女に、町田の声がかかった。


「あんた、名前は?」

「……美賀子と申します」

「ええっ⁈」


 思わず声を上げたら、まわりのテーブルの客人たちから、一斉に目を向けられた。ぼくは彼らに会釈して、彼女に視線を戻した。


「ぼくも! ぼくも……ミカといいます!」

「え……」

「あ、名前はマイケル……ええと、マイケル・サザランドと申します。でもぼくの親しい人たちからは、愛称で……ミカと呼ばれているんです」

「そうですか……西洋の方と同じだなんて、思いませんでした」


 そう言って、ミカコさんはふっと唇を上げた。ほんの一瞬だけで……でも永遠に焼きつきそうな、花開くような笑顔だった。



 初めて上野精養軒を訪れて以来、ぼくは三日に一度、店に通うようになった。町田はついて来る日もあれば、来ない日もある。秋本さんに遠慮しているのかと、費用はすべてぼくが持つと言ったけれど「そんないつも牛肉ばっか食えません」と一蹴された。


 美賀子さんとは、給仕の間、ぽつぽつと言葉を交わした。生まれは東北であること、住まいは千駄木で居候の身であること、ここに勤めて二年になること、英語は少し話せること。四回の訪問で聞けたのは、そんな話だった。ぼくがそう言うと、町田は呆れたように眉を動かした。


「あんたなあ……せめてどっかに誘いなよ」

「誘うって……どこに」

 やれやれといった調子で、町田は首をこき、と鳴らした。




 田園地帯だ‼ 並木道は赤や黄に染まり、風がふけば、人力車にひらりと落ち葉を散らしていった。穂が刈られた稲田のあいだに、藁ぶき屋根の家があらわれる。傾斜のついた屋根には、青い百合がそよいでいた。


「百合ではなくて、鳶尾草イチハツでしょう」

「鳶尾草?」

「ええと……」

「アイリスの仲間だ」


 前を行く人力車から、声がかかった。町田はひとりで、ぼくと美賀子さんはふたりで、二台の人力車に乗っている。11月の最終週、ぼくたち三人は東京の郊外、王子にむかっている。あのあと、五回目の訪問には町田もついてきて、美賀子さんの休みを聞きだし、こうして日帰りで出掛けることになった。名目としては、神社の参拝。王子には、有名な稲荷神社があるらしい。正直、町田には……感謝しかないよ。オリファント氏の本のとおり、市街からはなれて田園地帯に入っても、よく手入れされた花壇や生け垣があちこちで目についた。川の水面には、空の青がよく映えている。


「夏には泳ぐ人もいるそうです」

「そっかあ……ぼくは泳ぎは苦手なんだ。美賀子さんは?」

「あたしもあまり……夏なら、花火がいいです」

「花火? どこが有名なの?」

「両国でしょうか……毎年七月にあるんです」

「来年の夏かあ。楽しみだなあ」

「そうですね」

「一緒に行けば」


 黒い頭を見せたまま、町田がそっけなく言った。


「え? いやだって、まだ半年以上先だよ?」

「約束しとけば」

 前方からの声に、ぼくと美賀子さんは顔を見合わせた。

「…………もしよければ。一緒に行きませんか」

「…………はい。あたしでよければ」


 首を戻すと、にやりと笑う町田の顔があった。




 王子稲荷神社に参拝してから、茶屋に立ち寄った。畳は青く、障子は白く、縁側は磨きこまれ飴色に輝いている。店内は清潔で、空気は澄んでいて、茶や酒や、甘い菓子の匂いが漂っている。ぼくを真ん中に、三人で並んで腰をおろした。町田とぼくは酒を、美賀子さんは茶と団子を頼んだ。音もなく雨が降り始め、葉群れを濡らし、薄い紗を垂らしたようになった。


「狐の嫁入りだ……」

「よくご存知ですね」

「は。あの神社にぴったりじゃあないですか」


 町田は機嫌よく、ちびりちびりと熱燗を飲んでいる。美賀子さんは団子をもぐもぐと頬張っている。可愛らしくて、ぼくは思わず見惚れてしまった。


「あの……なにか?」

「えっ⁈ あっ、いや、ああ……団子! 団子が美味しそうだなと!」

「食べますか?」

「ええっ⁈」


 目の前に串が差しだされた。白い団子にこんもりと茶色の餡がのっている。断るのもどうかと口を開けたら、美賀子さんの顔がみるみる赤くなった。


「あ……え……えっと」

「え?」


 美賀子さんはぼくの口と手と、自分の団子を順に見て、きゅ、と目を瞑って、串をぼくの口のなかに突っこんだ。あ、もっちりして甘くて美味いや。


「ありがとう。残りは……」

「差し上げます」

「え、悪いよ……あ、でも食べかけも嫌か…………あれ? これもしかして最初から一本ぜんぶくれるつもりだった?」

「…………」

「え⁈ あ! ああ‼ ごめん‼ 手渡してくれるつもりだった⁈」

「…………まあ、ええ。いいですけど、もう」


 忍び笑いが横から洩れて、ぼくは町田をきっと睨みつけた。


 気づけば、雨が止んでいた。


 紅葉は露に色を濃くして、滝は光の粒を散らして、川は陽を照り返して、稲田のむこうに虹がかかっている。風が流れ、頬をひやりと撫でていく。土と樹木と、藁と畳のまざったような匂いがする。ああ……ぼくは今、ほんとうに日本にいるんだな。目の前の景色を焼きつけたくて、ぼくはまぶたを閉じた。あいつにもこの景色を見せてやりたい。熱い日本酒を飲みながら、この美しい光景を眺めていたら……アンソニーだって憂うつな気持ちも吹き飛んでしまうよ、きっと。


「どうかしましたか?」

「祖国の友人にも……この景色を見せてやりたいと思っていました」

「次は一緒に来られたら?」

「ああ……そう、そうですね。次は、あいつと一緒に来たいなあ」

「あいつ? 男?」

「うん? そうだけど」

「だってさ。よかったなあ、美賀子」

「は? 町田さん、なんですかそれ」

「べっつにーーー?」


 町田は煙管に火を点けて、美味そうに吸い始めた。そうだ、アンソニーの土産には煙管も買うことにしよう。そう決めて、美賀子さんに笑いかけたら、頬を染めてぷいと横をむかれてしまった。

明治編の参考文献の一つとして、ずっと積読していた渡辺京二氏の『逝きし世の面影』をようやく繙きました。とても面白いので、幕末・明治の日本にご興味がある方にオススメです(^^)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ