3-5 明治11年・前編(下)
それから一週間が過ぎた。日本に来てから、十日目の朝。ぼくは今、情けない気持ちでいっぱいだ。旅先では、その国の食事を楽しむものだとぼくは思っている。西洋の料理は英国で楽しめばいい。東洋まで来てこだわるなんて、せっかくの旅がもったいないよ。ああ、ぼくはそう思っていたはずなのに……。
「クリブデン卿。最近浮かないお顔ですな。なにか不都合がおありでは……」
「いえ、いえ! とんでもない。なにも不都合など……!」
血の滴るような牛肉のステーキ。
皮がパリパリのうずらのロースト。
バニラのアイスクリーム。
…………深煎りのブラックコーヒー。
「もしお加減が優れなければ、医師を呼びましょうか?」
「いえ、秋本さん、ほんとに大丈夫です! 少しだけ……」
「少しだけ?」
「ええと……そう。ホームシックで」
「へええ。お国に帰りたいんですか」
「いや、そういうわけじゃないんだ。ただ……その……」
ぼくは食卓を見下ろした。白いライスも、カレイの煮つけも、ほうれん草の和え物も、ワカメの吸い物も、とても美味しい。美味しいんだけれど……。
「……肉が」
「肉?」
「……バターが」
「バター?」
「ははあ、なるほど。マイケル、あんた、洋食が食べたいんだろ」
「……うん」
「ああっ……! それは申し訳ありません。わが家は日本人の料理人で……そのう、彼は西洋料理には疎くてですな」
「いえ! ぼくの勝手なわがままなので」
「精養軒に行きましょう」
「ふむ……精養軒か……」
「せいよう……けん?」
秋本さんとぼくの視線を浴びて、町田はにっと笑った。
「そう。秋本さん、いいでしょう? 今晩、マイケルを精養軒に連れて行っても」
「ああ……まあ……そうだな。あそこなら、クリブデン卿もご満足なさるかもしれない。今夜はわたしは予定があるから、きみが二人分の予約をしておきなさい」
「あの、せいようけんって?」
「まあまあ。行けばわかりますよ」
町田は湯飲みをのぞき、あ、茶柱が立った、と笑みをうかべた。
◆
精養軒は、上野公園の不忍池の近くにある。二年前に開業したばかりの、本格的なフランス料理のレストランだという。築地にあるのが一号店で、そっちは六年前にできたらしい。夜の公園を歩いていると、満月を背にして、二階建ての洋館があらわれた。
ランプの灯る玄関をぬけ、グリルルームに案内された。テーブルは白いクロスで覆われて、一輪挿しに青いアイリスが飾られている。革張りの椅子に腰かけ、メニューを眺める。店内には、バターや肉の焼ける芳しい匂いがする。ぼくは思わず顔をほころばせた。
「ビーフシチューって美味いのか?」
「美味いよ」
「ステーキは?」
「美味いよ。牛肉は好き?」
「さあ? 大学の連中と一回、牛鍋を食ったきりだから。あの時はそんな味わう感じでもなかったし。秋本さんは洋食が苦手だから、あの家でもまったく出ないだろ」
「そっか。苦手なんだ」
「なあ。あんな家建てといてな」
にやり、と笑う町田に、なんと返していいか困っていたら、給仕がテーブルの横に立っていた。ぼくは注文をしようと顔を上げて……そのまま固まった。英国の屋敷によくいる、メイドのような女性だった。黒いドレスに白いエプロン姿。違いといえば、頭にキャップではなく日本髪がのっていることぐらい。
「お決まりでしょうか?」
「どうする? マイケル」
「へっ?」
ぼくは給仕と町田の顔を、交互に眺めた。メニューからいくつか選んで、注文を告げた。給仕はにこりともせず、注文を復唱して、店の奥に消えていった。町田が訝しげにこっちを見つめている。
「あの女がどうかした?」
「いや……」
ぼくは彼女が消えた先から、目が離せなかった。
黒曜石に似た、大きな瞳。
かたちのいい鼻と、しなやかな眉。
熟れたように紅い唇。
早朝の雪を思わせる肌。
そして、凛とした、わずかに愁いのある面立ち。
美しいひとだった。
ほんとうに、美しいひとだった。
料理はどれも絶品だった。なかでも澄んだコンソメスープは格別だ。牛肉はもちろん、アスパラガスも、カラントワインのシャーベットも、久しく口にしていないものばかりだった。でも……ぼくはその感動的な料理の数々よりも、それを運んでくる彼女の手に釘づけになっていた。白くて、たおやかで、繊細な動きをする美しい手だった。
「なあ? どうしたんだ?」
「えっ?」
「心ここに在らざれば……料理もおれも、目に入りませんかねえ」
「や、あの」
「きれいな女だよなあ。でもあんたは、自分のお国で美しいご令嬢なんて山ほど見慣れているでしょう」
「……あんなに美しいひとを見たのは、初めてだよ」
「へええええ」
揶揄いを含んだ声音に苛ついて、ぼくは町田を睨みかえした。
彼女は最後にコーヒーを運んできた。ぼくは何もできず、ただ間抜けな顔をして、黒い水面をゆらす白い指先を見つめていた。銀のトレーを抱えて礼をする彼女に、町田の声がかかった。
「あんた、名前は?」
「……美賀子と申します」
「ええっ⁈」
思わず声を上げたら、まわりのテーブルの客人たちから、一斉に目を向けられた。ぼくは彼らに会釈して、彼女に視線を戻した。
「ぼくも! ぼくも……ミカといいます!」
「え……」
「あ、名前はマイケル……ええと、マイケル・サザランドと申します。でもぼくの親しい人たちからは、愛称で……ミカと呼ばれているんです」
「そうですか……西洋の方と同じだなんて、思いませんでした」
そう言って、ミカコさんはふっと唇を上げた。ほんの一瞬だけで……でも永遠に焼きつきそうな、花開くような笑顔だった。
◆
初めて上野精養軒を訪れて以来、ぼくは三日に一度、店に通うようになった。町田はついて来る日もあれば、来ない日もある。秋本さんに遠慮しているのかと、費用はすべてぼくが持つと言ったけれど「そんないつも牛肉ばっか食えません」と一蹴された。
美賀子さんとは、給仕の間、ぽつぽつと言葉を交わした。生まれは東北であること、住まいは千駄木で居候の身であること、ここに勤めて二年になること、英語は少し話せること。四回の訪問で聞けたのは、そんな話だった。ぼくがそう言うと、町田は呆れたように眉を動かした。
「あんたなあ……せめてどっかに誘いなよ」
「誘うって……どこに」
やれやれといった調子で、町田は首をこき、と鳴らした。
田園地帯だ‼ 並木道は赤や黄に染まり、風がふけば、人力車にひらりと落ち葉を散らしていった。穂が刈られた稲田のあいだに、藁ぶき屋根の家があらわれる。傾斜のついた屋根には、青い百合がそよいでいた。
「百合ではなくて、鳶尾草でしょう」
「鳶尾草?」
「ええと……」
「アイリスの仲間だ」
前を行く人力車から、声がかかった。町田はひとりで、ぼくと美賀子さんはふたりで、二台の人力車に乗っている。11月の最終週、ぼくたち三人は東京の郊外、王子にむかっている。あのあと、五回目の訪問には町田もついてきて、美賀子さんの休みを聞きだし、こうして日帰りで出掛けることになった。名目としては、神社の参拝。王子には、有名な稲荷神社があるらしい。正直、町田には……感謝しかないよ。オリファント氏の本のとおり、市街からはなれて田園地帯に入っても、よく手入れされた花壇や生け垣があちこちで目についた。川の水面には、空の青がよく映えている。
「夏には泳ぐ人もいるそうです」
「そっかあ……ぼくは泳ぎは苦手なんだ。美賀子さんは?」
「あたしもあまり……夏なら、花火がいいです」
「花火? どこが有名なの?」
「両国でしょうか……毎年七月にあるんです」
「来年の夏かあ。楽しみだなあ」
「そうですね」
「一緒に行けば」
黒い頭を見せたまま、町田がそっけなく言った。
「え? いやだって、まだ半年以上先だよ?」
「約束しとけば」
前方からの声に、ぼくと美賀子さんは顔を見合わせた。
「…………もしよければ。一緒に行きませんか」
「…………はい。あたしでよければ」
首を戻すと、にやりと笑う町田の顔があった。
王子稲荷神社に参拝してから、茶屋に立ち寄った。畳は青く、障子は白く、縁側は磨きこまれ飴色に輝いている。店内は清潔で、空気は澄んでいて、茶や酒や、甘い菓子の匂いが漂っている。ぼくを真ん中に、三人で並んで腰をおろした。町田とぼくは酒を、美賀子さんは茶と団子を頼んだ。音もなく雨が降り始め、葉群れを濡らし、薄い紗を垂らしたようになった。
「狐の嫁入りだ……」
「よくご存知ですね」
「は。あの神社にぴったりじゃあないですか」
町田は機嫌よく、ちびりちびりと熱燗を飲んでいる。美賀子さんは団子をもぐもぐと頬張っている。可愛らしくて、ぼくは思わず見惚れてしまった。
「あの……なにか?」
「えっ⁈ あっ、いや、ああ……団子! 団子が美味しそうだなと!」
「食べますか?」
「ええっ⁈」
目の前に串が差しだされた。白い団子にこんもりと茶色の餡がのっている。断るのもどうかと口を開けたら、美賀子さんの顔がみるみる赤くなった。
「あ……え……えっと」
「え?」
美賀子さんはぼくの口と手と、自分の団子を順に見て、きゅ、と目を瞑って、串をぼくの口のなかに突っこんだ。あ、もっちりして甘くて美味いや。
「ありがとう。残りは……」
「差し上げます」
「え、悪いよ……あ、でも食べかけも嫌か…………あれ? これもしかして最初から一本ぜんぶくれるつもりだった?」
「…………」
「え⁈ あ! ああ‼ ごめん‼ 手渡してくれるつもりだった⁈」
「…………まあ、ええ。いいですけど、もう」
忍び笑いが横から洩れて、ぼくは町田をきっと睨みつけた。
気づけば、雨が止んでいた。
紅葉は露に色を濃くして、滝は光の粒を散らして、川は陽を照り返して、稲田のむこうに虹がかかっている。風が流れ、頬をひやりと撫でていく。土と樹木と、藁と畳のまざったような匂いがする。ああ……ぼくは今、ほんとうに日本にいるんだな。目の前の景色を焼きつけたくて、ぼくはまぶたを閉じた。あいつにもこの景色を見せてやりたい。熱い日本酒を飲みながら、この美しい光景を眺めていたら……アンソニーだって憂うつな気持ちも吹き飛んでしまうよ、きっと。
「どうかしましたか?」
「祖国の友人にも……この景色を見せてやりたいと思っていました」
「次は一緒に来られたら?」
「ああ……そう、そうですね。次は、あいつと一緒に来たいなあ」
「あいつ? 男?」
「うん? そうだけど」
「だってさ。よかったなあ、美賀子」
「は? 町田さん、なんですかそれ」
「べっつにーーー?」
町田は煙管に火を点けて、美味そうに吸い始めた。そうだ、アンソニーの土産には煙管も買うことにしよう。そう決めて、美賀子さんに笑いかけたら、頬を染めてぷいと横をむかれてしまった。
明治編の参考文献の一つとして、ずっと積読していた渡辺京二氏の『逝きし世の面影』をようやく繙きました。とても面白いので、幕末・明治の日本にご興味がある方にオススメです(^^)




