表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/46

3-5 明治11年・前編(上)

 甲板にでると、風が吹きつけてきた。ひと月半強のこの航海で、もうすっかり慣れた剃刀のような潮風も、今朝は少しも辛くはない。だってほら! あの東京湾のむこうに見えるのは……富士山だ‼ ああ、あの色だ。北斎が描いたとおりの、緑でも黒でもない、軽やかな藍の山だ。雄々しくも威圧的でもない、幽玄で謙虚で厳かな……ほんとうに、この国に、この美しい、日本という国にふさわしい山だ。


 ぼくはぐっと伸びをして、深呼吸をして食堂に戻った。もう一時間もしないうちに、横浜港に着くだろう。その前に朝食をとって、腹ごなしをしなければ。寒さで身が凍えそうだ。この船での最後の食事だ、なにを食べようか。たっぷりのメープルシロップがかかったパンケーキ、ハムとベーコンにソーセージ、オムレツとゆで卵、それからパイナップルにマンゴー、バナナ、山盛りの異国のフルーツ。もうこの国では、しばらく食べられないだろうからね。いや、もちろん日本食はこの旅の楽しみのひとつだけれど。




 ナイフとフォークを手に、船窓から海岸線を眺めていると、ふいに友人のことが頭に浮かんだ。先々月、九月にロンドン港を発ったとき、見送りの友人たちのなかに、アンソニーだけがいなかった。前日にひどい喧嘩をしたから、そんな予感はしていたんだ。あいつとぼくは十歳のとき、寄宿予備学校プレパラトリー・スクールで出会った。従兄のジョージや他の友人たちも一緒に、休暇には、よく互いの屋敷を行き来したものだ。ぼくたちは広大な領地を走りまわって、屋敷のあちこちを探検して、使用人にこっそりお菓子をもらった。母さんはぼくの出産後、身体を壊して寝こんでいたけど、いつも寝室でぼくたちの話を聞いてくれた。しあわせな一年間だった。翌年、母さんは天に召された。それから五年が過ぎて、ぼくたちが16歳のとき、アンソニーはとある令嬢と付き合って、すぐに別れた。あれ以来、あいつはずいぶん遊び方が派手になった。


 喧嘩の発端は、些末なことだった。ぼくがあいつの女遊びに口出しして、もっと真剣に女性と向き合って、将来のこと……領地の運営や領民のこと、議会のことなんか……を考えるべきじゃないのかと。そしたらあいつは、ぼくこそ東洋趣味に没頭して休学までするなんて、公爵家のひとり息子として自覚が足りないんじゃないのかと。互いに挑発して、引けなくなって、そのままホテルに帰ってしまった。


 あの令嬢となにがあったかは知らないけれど、アンソニーは傷ついているんだと思う。傍目には陽気で軽快に振る舞っているように見えても、以前のあいつとは違って、どこか影がある。ぼくはあいつを責めずに、気持ちに寄り添うべきだった。船中で何度も手紙を書いたが、結局丸めて捨ててしまった。いくら言葉を連ねても、思う気持ちとはかけ離れた、空々しい文面になってしまうんだ。手紙は止めて、一年後、あいつと再会したときに直接謝ろう。それにその頃には、ほとぼりも冷めて、互いに状況が変わっているかもしれないし。



 1878年(明治11年)11月1日。こうしてぼくは、ついに日本に足を踏み入れた。税関の検査を終えて、波止場にむかうと、ひとりの青年が近づいてきた。


「クリブデン卿ですか?」

「はい、ぼくです」

「初めまして。おれは町田です。秋本さんから迎えを申しつけられ、参りました。人力車を待たせてあります。荷物はそれだけですか。ふうん……意外と少ないですね。車夫とおれで運びますから、あなたは車で待っててください」

「いや、ぼくも一緒に運びますよ」

「へええ……そりゃどうも。ご親切なお貴族様ですねえ。おまけに言葉もお上手だ。おれが英語を喋るより、あなたが日本語を喋ったほうが、話が早そうですね」

「ありがとう。英語も話されるんですか?」

「まあ一応、ですね。これでも東大生なんで。秋本さんの屋敷で、書生として置いてもらってるんです」


 青年は洋装をして、肩から黒いマントを羽織っていた。年齢はぼくと同じ、二十歳前後ぐらいに見える。切れ長の吊り目に、まっすぐな鼻梁、薄い唇。バード夫人は日本の男を「醜い」と一蹴していたけれど、いやいや、この青年を見たら、その言葉を取り消すんじゃないかな。背は少し低いけれど、アンソニーと同じぐらい、見目のいい青年だった。だけどあいつより飄々として、捉えどころがない男にも見えた。



 英国公使館で、サー・ハリー・パークスと、サー・アーネスト・サトウに面会すると、バード夫人も滞在されているという。ぼくはさっそく挨拶にうかがった。以前にロンドンでお会いしたときより、彼女はいくらか疲れて見えた。まあ無理もないよ。なにしろ東北から蝦夷えぞをめぐる旅を終えられたばかりなんだから。


「お久しぶりです、クリブデン卿。ほんとうにこの国でお会いすることになるとは。驚きましたよ」

「バード夫人、長旅お疲れのことでしょう」

「いえね、九月に蝦夷から戻って、いまは伊勢や京都をまわっているんです」

「うわあ……それは……ぼくよりお元気ですね。蝦夷ではアイヌの人びとにお会いされたとか……」

「ええ! そう‼ そうなんですっ‼ 聞いてくださる⁈」


 そのあとの弾丸トークは、一時間近く続いたので割愛する。バード夫人、お疲れのご様子だったのに、いきなり目がギラギラし始めたんだけど……まあいいや。ぼくも楽しかったし。この旅行記は、そのうち出版されるらしい。東北に蝦夷、近畿の旅かあ。発売日が待ち遠しいや。バード夫人の従者、伊藤が来たので、ぼくも退席することにした。いや、せっかくだからと、控えの間で煙草をふかしている、町田くんを紹介した。バード夫人は驚いたように彼を見て(その短髪から黒い革靴まで、まさに観察者の眼で。まったく動じない町田くんも大したものだ)、例外的にアングロ・サクソンと同様に堂々たる男子もいる……とぼそりと呟いていた。



 秋本さんの屋敷は、上野公園にほど近い坂の上にあった。洋風建築の二階建てで、この春に完成したばかりらしい。17世紀の建築様式を基調とした、英国では見慣れた屋敷だ。運送事業を手がける秋本さんは、公使館からの紹介で、ぼくの滞在を引き受けてくれている。彼に白羽の矢が立てられたのは、この屋敷が要因に違いない。伝統的な日本家屋より馴染みやすそうだ、という公使館側の配慮だろう。ありがたいことだけど、少しだけ残念な気もするな。畳や障子、床の間や欄間に囲まれた暮らしに憧れていたからね。


「いや、いや、初めまして。クリブデン卿。公爵家のご子息をお預かりできる名誉に浴せまして、光栄の至りです」

「とんでもないことです。お世話になります。素晴らしいご邸宅ですね」

「いやはや、あなたにそう言っていただけるとは、わたしも鼻が高い。なに、巷には擬洋風建築なる代物が持て囃されていますがね。恥ずかしいことです。この屋敷は英国の建築家に依頼したものでして。いまは内密に社交場の設計を打診されているそうですよ。ははは、あと数年後に来られていたら、立派な社交会館にお連れできたかもしれませんなあ。残念でしょう、ねえ」

「はは……そ、そうですね」


 そんなことにならなくて、正直ほっとしたよ。ぼくは社交界の、あの晩餐会や舞踏会がほんとに苦手なんだ。秋本さんは、ふくよかで、頭が少し薄くなった、陽気なご老体だった。調子のいい所はあるけれど、悪気はなさそうだ。


 ぼくの部屋は、一階の南側にある客間だ。白い大理石の暖炉を見ていると、ここは日本なのかと疑いたくなってしまう。でもベッドがあるのは嬉しいな。ぼくはマットにからだを投げだした。揺れない寝床は、久しぶりだ。そのままついウトウトと眠くなってしまった。ああ、日本。ぼくはほんとうに、この憧れの国にやってきたんだ……。



 翌朝、朝食のあと町田くんが、どこか行きたい場所はあるかと尋ねてくれた。日光に神戸、長崎と、行きたい街はたくさんある。だけど春まで待つ予定だった。まだ環境にも慣れないし、母と似て、ぼくはあまり身体が丈夫ではない。それまでは、この東京近郊を見てまわりたい。そう伝えると、町田くんは煙管キセルを手にしてにやりと笑った。この東京にも、ぼくが見るべきものは山ほどあるとうそぶいている。うん、楽しみなんだけどさ……その笑顔、なんだか気になるんだけど。




 市場だ‼ いや、町田くんによると、ここはごく普通の街路だと言う。だけど凄いんだ。とにかく店・店・それに人だ! 人がたくさん歩いているんだ。黒髪を結い上げた若い女性、下駄を鳴らして歩く男たち、子どもは走り回っているし、楽器(三味線っていうらしい)を弾きながら歩く老いた音楽家、竹の杖をもった盲目の人(彼はひとりで歩いていたんだ。馬車の行き交うロンドンならあり得ない話だ。でも人力車の車夫たちは、彼に気づくとぱっと避けてくれるんだ。視力を失っても、家に籠らなくていいなんて、なんていい社会なんだろう!)、それから行商人……そう、行商人と、通りの両端に連なる店の主人たちだ。


「あれは豆腐売り、それからうなぎの揚げ物売り。あっちはざる売りと唐辛子売りとしゃぼん玉売り。んで、そっちは傘張り屋。喫煙具屋に羅宇らう屋、下駄屋、ランプ屋、瀬戸物屋。むこうは酒屋と米屋、紙屋に筆屋に墨屋に硯箱屋。その先は……風呂屋ですよ」


 ぼくの質問に答えて、町田くんが説明してくれる。あの盲目の人は、按摩というマッサージの仕事で稼いで、金貸し業までしているそうだ。信じられないや! それにあの真っ白な豆腐(チーズとそっくりなんだけど、どんな味なんだろう)と、それを包む緑の葉の美しいコントラストといったら。傘張り屋の主人は、真っ赤な傘を店の前に並べている。陽にあてて乾かすんだって。土の上にいくつも大輪の花が咲いたようだ。羅宇屋は、煙管の羅宇(竹の管)を取り替えてくれるらしい。ところで、この国に一体、店は幾つあるんだろう。一つにまとめちゃダメなのか? ぼくがそうこぼしたら、町田くんが首を傾げた。


「……だって喫煙具屋は羅宇屋じゃないし、羅宇屋は喫煙具屋じゃないでしょう?」

 うーーーん? うん。うん、どうやら文化が違うらしい。



 陽が傾いてきた、午後四時頃。「風呂屋に行きますか? おれはこれから行きますけど」と、町田くんが聞いてきた。風呂屋……中流階級や労働者階級の人びとが利用する、あの公衆浴場のような施設なのかな。アンソニーが一度行ってみたらしく、ブライトンで海水浴するほうがいいな、とぼやいていたっけ。そういえば、ロンドンで、サー・アーネスト・サトウと話したときも風呂屋の話は聞かなかったな。まあいいや。何事も経験だ。ぼくは彼について行くことにした。


「どうしました? そんなとこ突っ立って」

「え……え……町田くん、ここ女性用だよ」

「んなわけないでしょう。女も男もありません。混浴ですから」


 町田くんは、すたすたと洗い場に歩いていった。ぼくはこの場から離れられなかった。いや……だって。なんだここ。アダムとイブの楽園か? 黒髪を結い上げたままの女性も、見事な彫り物の老いた男も、ぼくらみたいな若い男たちも、この浴場には、子どもから老人まで、男も女もあらゆる人が一緒くたなんだけど。色白できれいな女性がふたり、ぼくを見てにっこりと笑顔になった。ぼくも笑顔を返し……いやむり! むりだよ‼ だってぼく、今、裸だよ⁈ ぼくは心を無にして、町田くんの隣に座って、木桶に湯を汲んでからだに浴びた。


「う熱っっっつ‼」

「え? そんなですか? こんなもんでしょう?」

「いやなにこれ熱湯⁈ なんかの拷問⁈ なんでみんなあんな幸せそうな顔で湯船に浸かってるの⁈」

「そんな涙目にならないで下さいよ。慣れですよ、慣れ」

「うそだ……絶対みんな我慢してるんだ……きっと成人として認められるために必要な儀式で……」

「なに言ってんですか。あーんな子どもだって浸かってますってば」

「浮世絵はほんとだったんだ……日本人……さすが忍者の国……」

「忍びの技でもありませんってば」


 湯船の熱さに夢中になっているうちに、混浴のことは頭から吹き飛んでいた。ここはほんとに楽園なのかもしれないな。だって女性はすべてを露わにしているのに、あんなにあっけらかんとしてるんだ。舞踏会で足首までをきっちり隠して、腕と胸だけを露わにしている令嬢たちのほうが、よほど性的な匂いがする。なんていうか……日本人の裸は、ぼくたち西洋人と違って、潔い爽やかさを感じるんだ。


「なんか……だんだん湯船が心地よくなってきたよ」

「でしょう? 慣れたらこの熱さがいいんですよ」

「それに混浴だけど、全然いやらしい感じがなくて、すごいなあ」

「え? そうですか? 普通にありますけど? 夜とかその辺の暗がりでやってますよ。流石にこんな日中からはないですけどね」

「え……そうなの……」


 ぽかんと口を開けたぼくに、そりゃあ男と女なんてそんなもんでしょ、と町田くんが不思議そうに首を傾げていた。うーーーん。うん。うん、文化が違……いや、むしろ同じなのか?



 夕食の席で、風呂屋のことを話したら、秋本さんがぶるぶると震えだした。


「まっ……町田、きみ、なんてとこにクリブデン卿をお連れしたんだ⁈」

「いえ、別に。連れてったわけじゃなくて。おれが行くんで、行きますか? って聞いただけです」

「それが連れて行ったということだろうが‼ 政府が懸命に近代化を他国に知らしめようとしている最中に……あんな前時代の破廉恥なものを……よもや公爵家のご子息にお見せするとはなんたる恥‼」

「まあまあ、秋本さん。行っちゃったもんは仕方ないでしょう」

「どこだ⁈ 取り締まりを徹底して……」

「いやあ、適当に歩いて見つけた風呂屋なんで。覚えてないですねえ」

「きみは……ほんとに……ええいくそ。ああいや、失礼しました、つい汚い言葉を」


 後半はぼくに向かって言い、取り繕うような笑みをうかべて、秋本さんはため息をついた。町田くんは何食わぬ顔で、緑茶を美味そうに飲んでいた。




 夜、女中が紅茶を運んできてくれた。この屋敷の使用人は、みんな親切でほがらかだ。だけど一つだけ気になる点は、彼女たちはたぶん、紅茶も緑茶と同じように低めの温度で淹れているんじゃないかという。あの熱湯で淹れた香しい紅茶は、この屋敷ではまだお目にかかれない。ぼくが淹れて見せればいいのかな。イートン校の学生時代は、わりと美味いと評判だったんだけど。余計なお世話にならないだろうか。


 南の窓から月が見えて、ぼくはガウンを羽織り、ベランダに出た。頭上には上弦の月、足元には光を浴びたタイルが艶めいている。右手に人影が見えた。影が近づき、ぼくに笑みをむけた。


「夜のお茶ですか?」

「うん。町田くんは煙草?」

「はい……クリブデン卿。町田でいいですよ。敬称はいらないんで。ただの書生ですから」

「わかった。じゃあぼくもマイケルでいいよ。ぼくの友人は、みんなそう呼んでるんだ」

「いやあ……公爵家のご子息を、呼び捨てにはできませんねえ。おれはあなたの友人ではありませんし」

「……ぼくをクリブデン卿と呼ぶのは、さして親しくもない社交界の方々だけだ。ぼくはきみと東京の町を散策したし、一緒に風呂にも入ったよ?」


 少し語気が荒くなってしまった。友人ではない、と言われて……なんだか淋しい気持ちがしたんだ。知り合ってまだ二日目だし、彼は身分の差を指摘したんだろうけど……この遠い国まで来て、華族としか親しくしないだなんて、馬鹿げた話じゃないか。町田はふっと相好を崩して、煙を吐きだした。群青の闇に、白の霞がふわりふわりと消えていく。


「そうですねえ……あなたは自分の足で町を歩いたし、風呂にも入った。確かに、赤の他人じゃないなあ、マイケル?」


 にやりと笑って、町田は灰を皿に落とした。ぼくは楽しい気分になって、次はどこへ行こうかと、ふたりでしばらく話しこんだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ